夢野久作 ドグラ・マグラ、瓶詰地獄、少女地獄、きのこ会議、ビール会社征伐 他 - 夢野久作 - E-Book

夢野久作 ドグラ・マグラ、瓶詰地獄、少女地獄、きのこ会議、ビール会社征伐 他 E-Book

乔治 德 马尔蒂诺

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Beschreibung

最新の夢野久作の作品を集めた大全です。 夢野久作の代表作であるドグラ・マグラ、瓶詰地獄、少女地獄、きのこ会議、ビール会社征伐などを全て掲載しています。 夢野久作の世界をご堪能ください。 「夢野久作は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。 父は、玄洋社系の国家主義者の大物、杉山茂丸。長男はインド緑化の父と言われる杉山龍丸。三男の杉山参緑は詩人となった。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は孫。 日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる畢生の奇書『ドグラ・マグラ』をはじめ、怪奇色と幻想性の色濃い作風で名高い。またホラー的な作品もある。詩や短歌にも長け、同時代の他の作家とは一線を画す作家である。」 (Wikipediaより抜粋) <掲載作品一覧> 虻のおれい 悪魔祈祷書 雨ふり坊主・先生の眼玉に・奇妙な遠眼鏡 雨ふり坊主 青水仙、赤水仙 あやかしの鼓 爆弾太平記 瓶詰地獄 ビール会社征伐 ビルディング 豚吉とヒョロ子 豚と猪 父杉山茂丸を語る 塵 超人鬚野博士 ココナットの実 暗黒公使 電信柱と黒雲 ドグラ・マグラ 道成寺不見記 ドン どろぼう猫 江戸川乱歩氏に対する私の感想 鉛筆のシン 焦点を合せる 夫人探索 復讐 古い日記の中から 奇妙な遠眼鏡 二人の男と荷車曳き 二つの鞄 がちゃがちゃ 骸骨の黒穂 街頭から見た新東京の裏面 月蝕 鼻の表現 働く町 蛇と蛙 一足お先に 人の顔 微笑 いなか、の、じけん 犬のいたずら 犬の王様 犬と人形 医者と病人 縊死体 冗談に殺す 巡査辞職 懐中時計 怪夢 怪青年モセイ 書けない探偵小説 髪切虫 鉄鎚 けむりを吐かぬ煙突 キチガイ地獄 キキリツツリ 近眼芸妓と迷宮事件 きのこ会議 近世快人伝 斬られたさに 甲賀三郎氏に答う 黒白ストーリー クチマネ 空を飛ぶパラソル 黒い頭 キャラメルと飴玉 狂人は笑う 狂歌師赤猪口兵衛 キューピー 継子 正夢 冥土行進曲 名君忠之 名娼満月 眼を開く 実さんの精神分析 三つの眼鏡 森の神 鵙征伐 無系統虎列剌 虫の生命 涙のアリバイ 寝ぼけ 二重心臓 人間レコード 人間腸詰 人形と狼 能ぎらい/能好き/能という名前 蚤と蚊 ナンセンス 呑仙士 能とは何か お茶の湯満腹談 お金とピストル お菓子の大舞踏会 奥様探偵術 オンチ 女坑主 オシャベリ姫 押絵の奇蹟 恐ろしい東京 ペンとインキ 霊感! 路傍の木乃伊 老巡査 涙香・ポー・それから ルルとミミ 猟奇歌 良心・第一義 猿小僧 挿絵と闘った話 殺人迷路 「生活」+「戦争」+「競技」÷0=能 戦場 線路 先生の眼玉に 斜坑 芝居狂冒険 死後の恋 支那米の袋 白髪小僧 白菊 白くれない 白椿 少女地獄 所感 衝突心理 スランプ 創作人物の名前について 難船小僧 木魂 S岬西洋婦人絞殺事件 鷹とひらめ 章魚の足 卵 探偵小説の真使命 探偵小説の正体 探偵小説漫想 狸と与太郎 東京人の堕落時代 ツクツク法師 梅のにおい 梅津只圓翁伝 若返り薬 笑う唖女 私の好きな読みもの 山羊髯編輯長 約束 謡曲黒白談 雪子さんの泥棒よけ 雪の塔 幽霊と推進機 ざんげの塔

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Veröffentlichungsjahr: 2018

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夢野久作大全

Guide

表紙

目次

本文

目 次

虻のおれい

悪魔祈祷書

雨ふり坊主・先生の眼玉に・奇妙な遠眼鏡

雨ふり坊主

青水仙、赤水仙

あやかしの鼓

爆弾太平記

瓶詰地獄

ビール会社征伐

ビルディング

豚吉とヒョロ子

豚と猪

父杉山茂丸を語る

超人鬚野博士

ココナットの実

暗黒公使

電信柱と黒雲

ドグラ・マグラ

道成寺不見記

ドン

どろぼう猫

江戸川乱歩氏に対する私の感想

鉛筆のシン

焦点を合せる

夫人探索

復讐

古い日記の中から

奇妙な遠眼鏡

二人の男と荷車曳き

二つの鞄

がちゃがちゃ

骸骨の黒穂

街頭から見た新東京の裏面

月蝕

鼻の表現

働く町

蛇と蛙

一足お先に

人の顔

微笑

いなか、の、じけん

犬のいたずら

犬の王様

犬と人形

医者と病人

縊死体

冗談に殺す

巡査辞職

懐中時計

怪夢

怪青年モセイ

書けない探偵小説

髪切虫

鉄鎚

けむりを吐かぬ煙突

キチガイ地獄

キキリツツリ

近眼芸妓と迷宮事件

きのこ会議

近世快人伝

斬られたさに

甲賀三郎氏に答う

黒白ストーリー

クチマネ

空を飛ぶパラソル

黒い頭

キャラメルと飴玉

狂人は笑う

狂歌師赤猪口兵衛

キューピー

継子

正夢

冥土行進曲

名君忠之

名娼満月

眼を開く

実さんの精神分析

三つの眼鏡

森の神

鵙征伐

無系統虎列剌

虫の生命

涙のアリバイ

寝ぼけ

二重心臓

人間レコード

人間腸詰

人形と狼

能ぎらい/能好き/能という名前

蚤と蚊

ナンセンス

呑仙士

能とは何か

お茶の湯満腹談

お金とピストル

お菓子の大舞踏会

奥様探偵術

オンチ

女坑主

オシャベリ姫

押絵の奇蹟

恐ろしい東京

ペンとインキ

霊感!

路傍の木乃伊

老巡査

涙香・ポー・それから

ルルとミミ

猟奇歌

良心・第一義

猿小僧

挿絵と闘った話

殺人迷路

「生活」+「戦争」+「競技」

÷

0=能

戦場

線路

先生の眼玉に

斜坑

芝居狂冒険

死後の恋

支那米の袋

白髪小僧

白菊

白くれない

白椿

少女地獄

所感

衝突心理

スランプ

創作人物の名前について

難船小僧

木魂

S岬西洋婦人絞殺事件

鷹とひらめ

章魚の足

探偵小説の真使命

探偵小説の正体

探偵小説漫想

狸と与太郎

東京人の堕落時代

ツクツク法師

梅のにおい

梅津只圓翁伝

若返り薬

笑う唖女

私の好きな読みもの

山羊髯編輯長

約束

謡曲黒白談

雪子さんの泥棒よけ

雪の塔

幽霊と推進機

ざんげの塔

虻のおれい

夢野久作

 チエ子さんは今年六つになる可愛いお嬢さんでした。

 ある日裏のお庭で一人でおとなしく遊んでいますと、

「ブルブルブルブル」

 と変な歌のような声がきこえました。

 何だろうとそこいらを見まわしますと、そこの白壁によせかけてあったサイダーの瓶ビンに一匹の虻あぶが落ち込んで、ブルンブルンと狂いまわりながら、

「ドウゾ助けて下さい。ドウゾ助けて下さい」

 と言っています。

 チエ子さんはすぐに走って行ってその瓶を取り上げて、口のところからのぞきながら、

「虻さん虻さん、どうしたの」

 と言いました。

 虻は狂いまわってビンのガラスのアッチコッチへぶつかりながら、

「どうしてか、落ち込みましたところが、出て行かれなくなりました。助けて下さい、助けて下さい」

 と泣いて狂いまわります。

 チエ子さんは笑い出しました。

「虻さん、お前はバカだねえ。上の方に穴があるじゃないか。そう、あたしの声が聞こえるでしょう。その方へ来れば逃げられるよ。横の方へ行ってもダメだよ。ガラスがあるから」

 と言いましたが、虻はもう夢中になって、

「どこですか、どこですか」

 と狂いまわるばかりです。

 チエ子さんは虻が可哀そうになりました。どうかして助けてやりたいと思って、そこいらに落ちていた棒切れを拾って上から突込んで上の方へ追いやろうとしましたが、虻はどうしても上の方へ来ません。うっかりすると棒にさわって殺されそうになります。

 チエ子さんは困ってしまいました。どうして助けてやろうかといろいろ考えました。

 上から息を吹きこんだり、瓶をさかさまにして打ちふったりしましたが、虻はなかなか口の方へ来ません。やっぱり横の方へ横の方へと飛んでは打ぶつかり、打かっては飛んで、死ぬ程苦しんでいます。

 チエ子さんは又考えました。

 どうかして助けたいと一所懸命に考えましたが、とうとう一つうまいことを考え出しまして、瓶を手に持ったままお台所の方へ走って行きました。

 チエ子さんは台所に行って、サイダーを飲むときの麦わらとコップを一つお母さまから貸していただきました。

 そのコップに水を入れて麦わらで吸い取って、虻がジッとしているときにすこしずつ瓶の中に吹き込んでやりますと、虻は水がこわいので段々上の方へやって来ました。

 チエ子さんは喜んでもう一いき水を吹いてみますと、どうしたものか虻は又あわて出してブルブルと飛ぶ拍子に水の中へ落ち込んでしまいました。

 チエ子さんはあわてて瓶をさかさまにしますと、水と一諸に虻も流れ出て、ビショビショに濡ぬれた羽根を引きずりながら苦しそうに地べたの上をはい出しましたが、やがて水のないところへ来て羽根をブルブルとふるわしたと思うと、

「ありがとう御座います。チエ子さん。このおれいはいつかきっといたします」

 と言ううちにブーンと飛んで行きました。

「お母さん、お母さん。チエ子は虻を助けました。サイダーの瓶の中に落ちていたのを水を入れて外に出してやりました」

 とチエ子さんは大喜びをしながらお母さんにお話しました。

「そう。チエ子さんはお利口ね。けれども虻は刺しますから、これからいじらないようになさい」

 と言われました。

「いいえ。お母さん。あの虻は、チエ子にありがとうってお礼を言って逃げて行きましたのよ。ですからもうあたしは刺さないのよ」

 とまじめになって言いました。

 お母さんはこれをおききになって大そうお笑いになりました。チエ子さんは虻とお話したことをいつまでも本当にしておりました。

 それからいく日も経たってから、チエ子さんがお座敷でうたたねをしていた間にお母さまはちょっとお買物に行かれました。

 その留守の事でした。

 お台所の方から一人の泥棒が入って来まして、チエ子さんが寝ているのを見つけますと、つかつかと近寄ってゆすぶり起しました。

 チエ子さんはビックリして眼をさましますと、眼の前に気味の悪い顔をした大きな男がニヤニヤ笑って立っております。

 チエ子さんは眼をこすりながら、

「おじさんだあれ」

 と言いました。

 泥棒はやっぱりニヤニヤ笑いながら、

「可愛いお嬢さんだね。いい子だからお金はどこに仕舞ってあるか教えておくれ」

 と言いました。チエ子さんは眼をパチパチさせて泣き出しそうな顔をしながら、

「あたし知らない。おじさんはどこの人?」

 と尋ねました。

 泥棒はこわい顔になってふところからピカピカ光る庖丁を出して見せながら、

「泣いたらきかないぞ。さ、お前のお母さんはお金をどこに仕舞っているか。言わないとこれで殺してしまうぞ」

 と言いました。

 チエ子さんは、

「お母さん」

 と泣きながら逃げ出しました。

「このやつ、逃げたな」

 と泥棒はいきなり追っかけてチエ子さんを捕まえようとしました。

 その時ブーンと唸うなって一匹の虻が飛んで来て、泥棒の眼の前でブルンブルンブルンとまわり始めました。

 泥棒は邪魔になるので、

「こんちくしょう、こんちくしょう」

 と払い除のけようとしましたが、なかなか払い除けられません。

 そのうちにチエ子さんは、

「お母さん、お母さん」

 と叫びながら障子を開けてお縁の方に逃げて行きます。

「逃がしてなるものか」

 と泥棒は一所懸命となって、とうとう虻をタタキ落として追っかけてゆきました。

 そうすると虻はタタキ落とされてちょっと死んだようになりましたが、又飛び上って泥棒の足へ飛びついて力一パイ喰いつきました。

「アイタッ」

 と泥棒はうしろ向きに立ち止まる拍子にお縁から足を辷すべらして、石の上に落っこちて頭をぶって眼をまわしてしまいました。

 そのうちにチエ子さんは表へ出て、通りがかりのお巡査まわりさんにこの事を言いましたので、泥棒はすぐに縛られてしまいました。

 お母さんがお帰りになってこのお話をおききになると、涙をこぼしてチエ子さんを抱きしめておよろこびになりました。

 その時にチエ子さんはお縁側を見ると一匹の虻が死んで落ちておりました。

「お母さん、御覧なさい。この間の虻が泥棒を刺したのよ。あたしが助けてやったお礼をしてくれたのよ」

 と言いました。

 お母さんはおうなずきになりました。そうして晩方お父さんがお帰りになってお母さんがこのお話をされますと、お父さまはチエ子の頭を撫でながら、

「あぶとお話した子は世界中でチエ子一人だろう」

 とお笑いになりました。

 チエ子さんは虻のお墓を作ってやりました。

底本:「夢野久作全集7」三一書房

   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行

   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行

初出:「九州日報」

   1925(大正14)年9月13-15日

※底本の解題によれば、初出時の署名は「香倶土三鳥」です。

入力:川山隆

校正:土屋隆

2007年7月21日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

悪魔祈祷書

夢野久作

 いらっしゃいまし。お珍らしい雨で御座いますナアどうも……こうもダシヌケに降り出されちゃ敵かないません。

 いつも御贔屓ひいきになりまして……ま……おかけ下さいまし。一服お付けなすって……ハハア。傘をお持ちにならなかった。ヘヘ、どうぞ御ゆっくり……そのうち明るくなりましょう。

 どうもコンナにお涼しくなりましてから雷鳴はやしかた入りの夕立なんて可笑おかしな時候で御座いますなあ。まったく……まだ五時だってえのに電燈でんきを灯つけなくちゃ物が見えねえなんて……店ん中に妖怪おばけでも出そうで……もっとも古本屋なんて商売は、あんまり明るくちゃ工合が悪う御座いますナ。西日が一パイに這入はいるような店だと背皮クロスがミンナ離れちゃいますからね。ヘヘヘ……。

 失礼ですが旦那は東京のお方で……ハハア。東京の大学からコチラへ御転任になった。○○科にお勤めになっていらっしゃる……成る程。コンナ時候のいい時は大してお忙がしく御座んせんで……ヘヘ。恐れ入りやす。開業医だったら大損で……まったく大学って処は有り難い処で御座いますなあ。

 実は私あっしもコレで東京生れなんで。竜閑りゅうかん橋ってえ処の猫の額ひたいみたいなケチな横町で生れたもんでゲスが、ヘヘヘ。これでも若い時分は弁護士になろうてんで、神田の東洋法律学校へ通いまして六法全書なんかをヒネクリまわしていたもんですが、生れ付きのナマクラでね。小説を読んでゴロゴロしたり、女の尻けつばかり追いまわしたりして、さっぱりダラシが御座んせん。両親が亡くなりますと一気に、親類には見離される。苦学する程の骨ッ節ぷしもなし。法界節ほうかいぶしの文句通りに仕方がないからネエエ──てんで、月琴げっきんを担かついで上海シャンハイにでも渡って一旗上げようかテナ事で、御存じの美土代町の銀行の石段にアセチレンを付けて、道楽半分に買集めていた探偵小説の本だの教科書の貰い集めだのを並べたのが病み付きで、とうとう古本屋ほんものになっちまいましてね。ヘヘヘ。その中うちに嬶かかあが出来たり餓鬼がきが出来たり何かしてマゴマゴしている中にコンナに頭が禿げちゃっちゃあモウ取返とりけえしが付きやせん。まあまあナマクラ者にゃ似合い相当のところでげしょう。文句はありませんや。

 ヘエヘエ。それあ、この××クンダリへ流れて来るまでにゃガラ相当の苦労も致しやしたよ。途中で古本屋しょうばいがイヤンなっちゃって、見よう見真似の落語家はなしかになったり、幇間たいこもちになったりしましたが、やっぱり皮切りの商売がよろしいようで、人間迷っちゃ損で御座いますナ。だんだん呼吸をおぼえて来ると面白い事もチョイチョイ御座いますナ。ヘエ……粗茶で御座いますが一服いかが様で……ドウゾごゆっくり……。

 コンナに降りますと、お客様もお見えになりませんな。いつ来て見ても、お客様が一人立っておいでになる古本屋なら、大丈夫立って行くものです。ですから一人もお客様がお見えにならないと手前が自分でサクラになってノソノソ降りて行きまして、本棚なぞを整理致しておりますんで……これがマア商売のコツで御座いますナ。つまりその一人立っている人間が店の囮おとりになるんで……通りかかりの方が店を覗いて御覧になった時に、誰か一人本棚の前に突立って本を読むか何か致しておりますとツイ釣り込まれてふらふらと這入ってお出でになる。群衆心理というもので御座いますかな……そのアトから又一人フラフラっと……てな訳で……。イヤどう致しまして……先生にお茶を差上げて囮に使っている訳じゃ御座んせん。ハハハ。コンナ大降りの時にはイクラ囮を使ったって利き目は御座んせん。ヘヘヘヘ。恐れ入ります。どうぞお構いなく御ゆっくりと……。

 ヘエヘエ。それは面白いお話も御座いますよ。ツイこの間の事……高等学校の生徒さんがゲーテの詩集を売りに見えましてね。ほかの参考書や何かと一緒に十冊ばかりを三円で頂戴いたしましたが、その中でも、ゲーテの詩集が特別に古いようですから、あとでよく調べてみますとドウです。千七百八十年に独逸ドイツで出版されたヤツの第一版なんで、おまけにその見返しの処にぬたくっている持主署名オーナシグネチャをよく見ますと、どうしてもシルレルとしか読めません。それからコチラの法文科で古書を集めておいでになる中江学長せんせいさんのお宅へ持って参りましたらドウデス。七十円でお買上げになりましたよ。……何でもそのゲーテの詩集が出ました千七百八十年の夏でしたか秋でしたかに、詩聖のシルレルが、その第一版を買って読んでいる中うちに、

「コンナ下らない詩集なんかモウ読んでやらないぞ」

 てんで地面じびたにタタキ付けた。それから又拾い上げて先の方を読んで行くうちに、今度は三拝九拝して涙を流しながら、

「ゲーテ様。あなたは詩の神様です。私は貴方のおみ足の泥を嘗なめるにも足りない哀れな者です」

 とか何とか云ってオデコの上に詩集を押付けたってえ話が残っている。それがこの本に違いない。独逸人に持たせたら十万マークでも手放さないだろうテンデ、アトから中江先生が説明して下さいましたがね。お人が悪うがすよ中江先生は……ハハハ。もっとも私あっしもこの本は東京へ持って行けあ汽車賃ぐらいの事じゃなさそうだ……ぐらいの事はカン付いていましたがね。慾をかわいたって仕様が御座んせん。

 ヘエヘエ。今度ソンナのが出ましたらイの一番に先生の処へ持ってまいります。大学の○○科で……ヘエ。助教授室……ヘエヘエ。何卒どうぞよろしく御願い致します。

 ヘエヘエ。法文科の中江先生ですか。よく手前どもの処へお見えになりますよ。古い本をお探しになるのが何よりのお楽しみだそうですね。いいお道楽ですよマッタク……古本屋しょうばいにんてものは元来、眼の見えない者が多いんだが、お前は割合によくわかるから、話相手になると仰言おっしゃってね……ヘヘヘ。手前味噌で恐れ入ります。いつも御指導を願っております。

 御覧の通り手前共では、学生さんが御相手でげすから、横文字の書物なら全部、大きく原書と書いた貼札をして同じ棚に並べておきますので……ところがこの間ウッカリ、

 CHOHMEY KAMO'S HOJOKY

 って書いた奴を、何だかよく判らないでパラパラッと見たまんまに原書って書いた札をデカデカと貼って二円の符牒を付けておきましたら、中江先生がソイツを棚の中から引っこ抜いてお出でになって、私の鼻の先に突付けて、お叱りになったものです。

「しっかりしてくれなくちゃ困る」

 てえ御立腹なんで……成る程、よく読んでみますと鴨の長明の方丈記の英訳なんで。ハッハッハッ。ドッチが原書なんだか訳わけがわかりませんや。まったく恐れ入りましたよ。方丈記の英訳の中でも一番古いものだからと仰言って二十円で買って頂きましたよ。ゲーテの詩集の埋合わせをして頂いたようなもので。ヘヘヘヘヘ……。

 まったくで御座いますよ。そのまま二円で買って行かれたって文句は御座いません。中江先生みたいなお方ばっかりだったら、苦労は御座んせんが、タチの悪いお客もずいぶん御座いますよ。ソレア……一冊丸ごと立読みなんて図々しいのはショッチュウの事なんで、その又読み方の早いのには驚きますよ。店の本の上に腰をかけて、足の下を吸殻すいがらだらけにしいしい一冊読んじゃってから、私の処へ持って来て、

「オイ君。この本一円きり負からないのかい。大して面白い本でもないぜ」

 なんて顔負けしちゃいます。大きなお世話でサア……文科の生徒さんなんかは、試験前にチョイチョイ来て、アノ棚の上の大きなウエブスターの辞書だの大英百科全書エンサイクロペデアを抱え下して、入り用な字を引いちゃってから、そのまま置きっ放しぐらいは構いませんが、ノートに控えるのが面倒臭いんでしょう。その一頁をソッと破って持って行くんですから非道ひどうがすよ。よく聞いてみると大学校には修身てえ学科が無ねえんだそうで……呆れて物が云えませんや。

 もっと非道いのがありますよ。丸ごと本を持って行ってしまうんです。つまり万引ですね。しかもその万引の手段てえのが、トリック付きなんですから感心しちゃいまさあ。

 自分で一冊か二冊、つまらない別の本を裸で抱えて、如何にも有閑学生か、有閑インテリらしい気分と面構つらがまえで飄然と往来から這入って来るんですね。最初から狙っている本はチャントきまっているんですが、直ぐにその本の処へ行くようなヘマは決してやりません。そこが手なんだろうと思うんですが、依然として風来坊を気取りながらアチコチと棚を見上げ見下げして行く中うちに、如何にも自然に狙った本へ近付いて行く。そこで不承不承のイヤイヤながらの事の序ついでだといった恰好かっこうで、その本の包装を引抜いて、気永く内容を読んでいるふりをしているんです。そうなるとこっちだってデパートの刑事さんじゃなし、最初から疑っているんじゃありませんから、ツイ眼を外そらしてしまいますと、そこを狙っているんですね。つまらなさそうな顔をしてその本を棚に返す……と思ったら大間違いの豈あに計はからんやでげす。返すと見えたのは包装のボール箱だけ……又は用意して来た、ほかの下らない本を詰めたりしてモトの隙間すきまへ突込んで、入用な本やつはチャント脇の下に挟みながら……チェッ。碌ろくな本は在りやがらねえ……といったような恰好かっこうで悠々とバットの煙を輪に吹きながら出て行くんだから大した度胸でげす。考えたもんですなあ。

 ええ……それあ一時の出来心もありましょうが、ズット前からの出来心も御座いましょうよ。何しろ修身の無え学校の生徒さんでゲスから油断も隙もあれあしません。コンナ手を矢鱈やたらに使われちゃやり切れませんや。

 しかもソレが脛すねっ噛かじりの学生さんばっかりじゃ御座んせん。相当の月給を取っておいでになる修身の本家本元みたいな立派な紳士の方が、時々この手をお出しになるんですから驚きますよ。ヘヘヘ。大学の先生方もチョイチョイお見えになります。こっちの達人の方もおいでにならないじゃ御座んせんが、なかなか鮮やかなお手附のようです。ヘヘヘ。まさかお修身の代りに講義レクチュアで生徒さんに御伝授になる訳でも御座いますまいがね。どうもお手際が生徒さん達よりも水際立っているようです。第一御風采がお立派ですからマサカと思ってツイ油断しちまいまさア。

 もっともソンナのは大抵御本好きの方に限るようですね。珍しい本だと思えば高価たかそうだし、欲しさは欲しし……店番のオヤジの面つらア間抜けに見えるし……てんで、相当お立派な御人格の方がツイ、フラフラとお遣りになるのが病み付きになってダンダン面白くなって来る。そこんとこだけは良心が磨すり切れちゃってトテモ人間業わざとは思えないくらい大胆巧妙になっておいでになるんですから、お相手を仰付おおせつけられた本屋は叶いませんや。……しかし有り難いもので……何度もその手を喰って慣れて参りますと大抵わかりますよ。どうもあの人が臭いってね。丁稚でっちが云うものですから、気を附けておりますと手口から何からスッカリわかっちまいます。しまいには入口からノッソリ這入ってお出でになる態度を見ただけでもアラカタ見当が附いて来ます。……サテはオヤリ遊ばすな……とか遊ばさないナ……とかね。ヘヘヘ。

 面白いのはその万引した本を、持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです。御承知の通りこの頃の小説本と来たら、昔のエライ連中が書いたのと違って、一度読んじゃったら二度と読む気になれないものが多いらしいんです。又は持って帰って読んでみると大した本でも珍らしい本でもなかったらしいんですね。ですから何も良心に背反そむいてまで泥棒して来るほどのシロモノじゃなかった……と思って返しにお出でになるんだか……それとも最初からチョット借りて、中味の減らないようにソーッと読んで、返して下さるおつもりだったのかどうだか、ソノ辺のところがコチラでは何とも見当が附きかねますがね。良心があるんだかないんだか、紳士的なんだか、超特級の泥棒根性なんだか……無賃乗車で行って用を足して引返して来て、乗らない顔をしているみたいなもので、ややこしい心理状態もあればあるものですね。

 ヘエヘエそれあ、まったく返って来ないのも随分ありますよ。そんなお顔はコチラでチャント存じておりますがね。そこが商売冥利って奴で、黙って知らん顔をしております。元値を考えたら大したもんじゃ御座んせんしね。ショッチュウ気を付けてケースの中味が在るか無いか調べなくちゃならないのが面倒臭い位のもんでさ。そうして中味が変っているか、抜けているかしている本の前に立っておられた方を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから不思議なもンで……この間コンナのがありましたよ。これは又物スゴイ、素敵な本でしたが……。

 ××医専の生徒さんが夏休みに持込んで御座った本だったと思いますがね。御本人は××の××の方で、先祖代々から伝わって来た聖書だと仰言ってね。一冊三円で頂戴いたしましたが、例の通り店番の片手間にここに座ってよく調べてみますと驚きましたね。チョット見ると活字みたいですが、一六二六年に英国で出来た筆写本なんです。紙が又大した紙でね。日本の百円札みたいなネットリした紙にミッチリと書詰かきつめたもので、黒い線に青と赤の絵具を使った挿絵まで這入っているんですから、それだけでも大層な珍本でげしょう。

 ところがソレだけの事なら私あっしも格別驚きません。金さえ出せば日本内地でも、相当にお眼にかかれるシロモノなんですが、肝を潰したのは、その聖書の文句でげす。あれが悪魔の聖書とでもいったものでしょうか……これこそ世界中にタッタ一冊しかないと噂に聞いたシュレーカーのBOOK OF DEVIL PRAYER(外道祈祷書)かと思うと私あっしは気が遠くなって、真夏の日中にガタガタ震え出したものでげす。

 ヘエ……先生はソンナ書物ほんの事をお聞きにならない。ヘエ。そうですか。著者の名前はたしかデュッコ・シュレーカーと読むんだろうと思いましたがね。むずかしい綴りの名前でしたっけが……何でも百年ばかり前の事だそうですがね。有名な英国のロスチャイルドってえ億万長者の二男でしたか三男でしたかが十万ポンドの懸賞付きで探したことがあるってえ仲間の無駄話を、東京に居る時分に小耳に挟んでいるにはおりましたがね。マサカその実物ほんものに、お眼にかかろうたあ思いませんでしたよ。

 ヘエ。表紙はズット大型の黒い皮表紙なんで……HOLY・BIBLEと金文字の刻印が打込んであって、牛だか馬だかわかりませんが、頑丈な生皮の包箱ケースに突込んであります。その包箱ケースの見返しの中央にMICHAEL・SHIROと読める朱墨と、黒い墨の細かい組合わせ文字の紋章みたいなものが、消え消えに残っているところを見ますと、私あっしのカンでは多分天草一揆頃日本に渡って来て、ミカエル四郎と名乗る日本人が秘蔵してたものじゃないか知らんと……ヘエヘエ。その四郎が天草四郎だったらイヨイヨ大変ですがね。

 ヘエヘエむろんそうですとも。その学生さんは何も知らずに普通の聖書と思って売りに見えたに相違御座んせん。聖書なんてものは信心でもしない限り滅多に読んでみる気がしないものですし、その本を持ち伝えた先祖代々の人も、それがソンナ本だって事を云い伝える事も出来ずに、土蔵おくらの奥に仕舞い込んで御座ったんでげしょう。そいつをあの学生さんがホジクリ出して……何だコンナ物、売っチャエ。バアへでも行っちゃえテンで、私あっしの処を聞いて持込んでいらっしたものでしょう。聖書なんてものは、今の学生さんにはオヨソ苦手なもんですからね。中味をどこかの一行でも読んでたら持って来る気づかいありませんや。今頃はスッカリ悪魔になり切っちゃって学校なんか止しちゃって、桃色ギャングか何かでブタ箱にでもブチ込まれているでしょうよ。ヘヘヘ……その学生さんの名前とお処はチャント控えておりますから、その中に××のお宅へお伺いしたらキットまだまだ面白い掘出し物があるに違いないと思ってこの二、三日ウズウズしているんですがね。ヘヘヘ。

 中味の読出しは、みんな細かい唐草模様の花文字で、途中のチャプタの切り工合から中みだしなんかスッカリ真物ほんものの聖書の通りですし、創世記のブッ付けの四、五行ぐらいはヤッパリ本物の聖書の文句通りですから、誰でも一パイ喰わされるのですが、その四、五行目からの有り難い文句が、イキナリ区切りも何もなしに、トテモ恐ろしい文句に変って来るのです。つまり悪魔の聖書と申しますか。外道祈祷書と申しますか。ソイツを作り出したシュレーカーっていう英国の僧侶ぼうさんが、自分の信仰する悪魔の道を世界中に宣伝する文句になっているんですね。昔風な英語ですからチョット読み辛づろうがしたよ。チョット生意気に訳しかけてみた事もあるんですが、ザットこんな風です。

「われ聖徒となりて父の業を継ぎ、神学を学ぶ中うちに、聖書の内容に疑うたがいを抱き、医薬化学の研究に転向してより、宇宙万有は物質の集団浮動に過ぎず。人間の精神なるものも亦、諸原素の化学作用に外ならざるを知り、従って宗教、もしくは信仰なるものが、その出発点よりして甚だしく卑怯なる智者の、愚者に対する瞞着、詐欺取財手段なるを認め、地上に於て最真実なるものは唯一つ、血も涙も、良心も、信仰もなき科学の精神を精神とする所謂、悪魔精神なる事を信じて疑わざるに到れり。わが生まれいでし心は親兄弟、もしくは羅馬ローマ法皇が自分のために都合よく作り出せる所謂『神の心』には非あらず。生前の神罰、死後の地獄また在ることなし。何をか恐れ、何をか憚はばからんや。

 歴代の羅馬法皇、その他の覇者は皆この悪魔道の礼讃実行者なり。万人の翹望ぎょうぼうする上流階級の特権なるものは皆この悪魔道に関する特権に外ならず。人類の日常祈るところの核心ものは皆、この外道精神の満足に他ならず。強者は聖書を以て弱者を瞞着し、科学の教うるところの悪魔の力を恣ほしいままにして恥じざらむとす。

 全世界の人類よ。皆、虚偽の聖書を棄てて、この真実の外道祈祷書を抱け。われは悪魔道のキリストなり。弱き者。貧しき者。悲しむ者は皆吾に従え」

 といったような熱烈な調子で、人類全般に、あらゆる悪事をすすめる文句がノベタラに書いて御座います。私あっしはそれを読んで行くうちに、自分の首を絞しめられるような気持になってしまいましたよ。西洋あちらには血も涙もない悪党が多い。生肝いきぎも取りだの死人しびと使い、奴隷売買、人殺し請負いナンテものは西洋人でなくちゃ出来ない仕事だと聞いておりましたがマッタクその通りだと思いましたナ。

 その耶蘇教やそきょうの僧侶ぼうさんは多分、精神異状者か何かだったのでしょう。そんなつもりで、世界中を悪党だらけにするつもりで、一生懸命に書いたらしく、この世界が「悪」ばっかりで固まっている世界だ……神様なんてものは唯、悪魔の手伝いに出て来た位のもんだっていう事を、出来るだけ念入りに説明しているんです。

「神は弱者のためにのみ存在し、弱者は強者のためにのみ汗水を流し、強者は又、悪魔のためにのみ生存せるもの也」

「世界の最初には物質あり。物質以外には何物もなし。物質は慾望と共に在り。慾望は又、悪魔と共に在り。慾望、物質は悪魔の生れ代り也。故に物質と慾望に最忠実なるものは強者となり悪魔となりて栄え、物質と慾望とを最も軽蔑する者は弱者となり、神となりて亡ぶ。故に神と良心を無視し、黄金と肉慾を崇拝する者は地上の強者也。支配者也」

「強者、支配者は地上の錬金術師也。彼等の手を触るる者は悉ことごとく黄金となり、黄金となす能あたわざるものは悉く灰となる」

「黄金を作る者は地上の悪魔也。彼等の触るる異性は悉く肉慾の奴隷と化し、肉慾の奴隷と化し能わざる異性は悉く血泥と化なる」

 というようなアンバイです。

 ですからこの悪魔の聖書では、旧約の処が「人類悪」の発達史みたいになっておりましてね。アダムとイブが、神様を信心し過ぎて肉慾を軽蔑している間は、子供が生まれなかった。それから蛇によって象徴あらわされた執念深い肉慾に二人が囚とらわれて、信仰をなくしちゃって、エデンの花園を逐おわれてから、お互いの裸体はだかが恥かしくなったお蔭で、子供がドンドン生まれ初めてこの地上に繁殖し初めたんだから、トドのつまりこの地上で栄えるものはエホバの神の御心じゃない。悪魔の心でなくちゃならん……といったような理窟で、人類の罪悪史みたような事が、それからジャンジャン書立ててあるのです。

 ……エジプトの王様は代々、自分の妻を一晩毎ごとに取換えて、飽きた女を火焙ひあぶりにして太陽神に捧げたり、又は生きたままナイル河の水神様の鰐に喰わせたりするのを無上の栄華として楽しんでいた。

 ……ペルシャ王ダリオスの戦争の目的は領土でもなければ名誉でもない。捕虜にして来た敵国の女に対する淫虐と、敵国の男性に対する虐殺の楽しみ以外の何ものでもなかった。彼は戦争に勝つ毎ごとに、宮殿の壁や廊下を数万の敵兵の新しい虐殺屍体で飾りその中で敵国の妃や王女を初め、数千の女性の悲鳴を聞いて楽しんだ。そこにダリオスは世界最高の悪魔的文明を感じたのであった。

 ……亜歴山アレキサンドル大王はアラビヤ人を亡ぼすために、黒死病患者の屍体を荷かついだ人夫を連れて行って、メッカの町の辻々でその人夫を一人ずつ斬倒きりたおさせた。これはその極端な悪魔的な精神に於て、近代の戦争のやり口をリードしているのみならず、遥かにソンナものを超越した偉いところがあった。流石さすがは大王というよりほかなかったものである。

 ……露西亜の彼得ペートル大帝は、和蘭オランダに行って造船術を習ったと歴史に書いてあるが、これは真赤な偽りで、実際は堕胎術と、毒薬の製法を研究に行ったのだ。彼得ペートル大帝は、そうして得た魔力でもって露西亜の宮廷を支配して、あれだけの勢力を得たもので、大帝の属するスラブ人種が、六十幾つの人種を統一して、大露西亜帝国を作ったのも、こうした大帝から魔力を授かったスラブ族の科学智識のお蔭でしかないのだ。

 ……こんな調子で世界を支配するものは神様でなくてイツモ悪魔であった。一切の科学の初まりは神様の存在を否定し、人間をその良心から解放するのが目的で、同時に一切の化学の初まりは錬金術であり、一切の医術の初まりは堕胎術と毒薬の研究でしかなかったのである。

 ……吾々は歴史に欺あざむかれてはならない。常に悪魔的な正しい目で歴史を読んで行かないと飛んでもない間違いに陥ることがある。元来ユダヤ人というものは人類の全部をナマケモノにしてコッソリと亡ぼしてしまって、ユダヤ人だけで世界を占領してしまおうと思って、昔から心掛けて来た人種だ。骰子さいころだのルーレットだのトランプだの将棋だのドミノだのいうものは、そんな目的のために猶太ユダヤ人が考え出して世界中に教え拡めたものである。しかもその猶太人が、そんな目的のために発明して世界中に宣伝しようとこころみた最後のものがこの基督キリスト教なのだから、呆れてモノが云えないではないか。

 ……「この世の中の事は何もかも神様の思召おぼしめしばかりだ。神様に祈ってさえいれば、欲しいものは何でも下さるのだから、人間はチットモ働かなくていいのだ。神様を信ずれば盲目が見え、唖が物を云い、躄が駆け出すのだ。天を飛ぶ鳥を見よ。地を走る狐を見よ。明日の事なんか考えなくともチャンと生きて行けるじゃないか」といったアンバイ式に宣伝して世界中をみんな懶なまけ者にしちまおうと思って発明したのがこの基督教なんだ。

 ……そこでその当時ユダヤでも一番の名優であったヨハネという爺さんを雇って来て、この基督教のチンドン屋をやらせてみたがドウモうまいこと行かない。そこでその次に出て来たユダヤでも第一等の美男子のイエスという男優と、ユダヤ第一の美しい女優のマリアというのを取組ませて、この宣伝を街頭でやらせてみたらコイツが大々的に大当りを取ることになった。

    (三十行削除)

 ……といったような調子で旧約聖書の文句が済みますと今度は新約でゲス。

 ……つまりそのデュッコっていう僧侶が聖書の中で基督に成り代って云うのです。「吾は悪魔の救世主なり。皆吾に従え」ってんで自分が先祖代々から受け伝えて来た悪魔の血すじを、系図みたいに書並べたのがソノ新約の書出しなんで、それから自分が虫も殺さぬ宣教師となって明暮れ神の道を説きながら、内心では悪魔の道を信仰して、女を殺したり、金を捲上げたりして来た恐ろしい悪事の数々を各章に分けてサモサモ勿体もったいらしく書立ててあるのです。人間は神様と良心を蹴飛ばしちまえばドンナ幸福でも得られる。自分の師と仰ぐものはイエス・クリストじゃない、悪魔に魂を売った独逸の魔法使いファウストだってんで、ありとあらゆる科学的な悪事のやり方が、自分の体験と一緒に、それ相当の悪魔式のお説教を添えて書いてあります。

    (四十七行削除)

 それから一番おしまいの詩篇のところへ来ると、極端な恋歌ばっかりですね。それもマトモな恋の歌なんか一つもないので、邪道の恋、外道の恋みたいなものを讃美した歌ばっかりなんで呆れ返ったワイ本なんですがね……ヘエ……。

 ナ……何ですか……その本がどこに在るかって仰言るんですか……ヘヘヘ。それが又面白いんです。

 今も申します通り、その聖書は、ちょっと見たところ、古い木版みたいな字の恰好ですからね。蔵しまっておいたって仕様がないし、そうかといってウッカリ気心の知れないところに持って行ってお勧めする訳にも行きませんからね。困っちゃって、ボクスか何かの古い皮革かわのケースに入れたまんま向うの棚の片隅に置いといたんです。それを見つけたお客様のお顔色次第で千円ぐらいは吹っかけてもアンマリ罰は当るめえ……と思っていた訳ですが……普通の聖書にしてもソレ位のねうちはあるんですからね。

 ところがこの三月ばかり前のことです。驚きましたよ。いつの間にシテヤラレたものですか、その聖書の中味がスッポ抜かれちゃって、箱ケースだけがあそこの棚の隅に残っているのを発見しちゃったんです。

 あそこは店の中でも一番暗い処で、私あっしが珍本と思った本だけをソーッと固めて置いとく処ですからね。あそこに来てジイッと突立っておいでになる方はイツモ大抵きまっているんですからね。持ってお出でになった方もアラカタ見当が……。

 オヤッ……先生のお顔色はドウなすったんです。御気分でもお悪いんですか……ヘエ。ヘエッ……これは三百円のお金……今月のお月給の全部……私あっしに下さるんで……ヘエッ……あの聖書のお手附け……千円の内金と仰言るんで……これはどうも恐れ入りましたナ。あの本は先生がお持ちになったんで……ヘエ。それはドウモ何ともハヤ……ヘエヘエ……何と仰言る……。

 ヘエエ……今年の春から先生の奥様にピアノを教えにお出でになっている音楽学校出の若いピアニストの方が、あの本を偶然に御覧になって、大変に珍しがって借りておいでになった。先生もその時までは普通の聖書と思って何の気もなくお貸しになった。ヘエヘエッ……ド……ドッ……どうぞお落付きになって……お落付きになって……お静かに……お静かに……御ゆっくりお話し下さいまし……ナナ……なる程。ヘエヘエ。

 それから一週間ばかり経って、奥様が流産をなすった……妊娠三箇月で……成る程。お医者様の御診察ではその前にお二人で××にドライブをなすったのが悪かった……ナル程。あの国道はこの頃悪くなりましたな。無理は御座んせんよ。自動車が矢鱈やたらに殖ふえましたからナ。県の土木費はモトの通りなのに……まだある。ヘエ……。

 タッタお一人のお坊ちゃんが、牛乳ばっかりで育てておいでになったのが、四、五日前に急にお亡くなりになった。食餌中毒という診断だが、怪しいと仰言るんで……ヘエ。ドウ怪しいんで……ヘエ。あの本を借りて行かれたピアノの教師せんせいが、あの本の中の毒薬を使っているに違いない。この頃、貴方様も胃のお工合が宜しくない。胃がシクシクお痛みになる。×××××、×××かも知れない。ヘエ。つまり貴方様はズット前からそのピアノの教師せんせいを疑っておいでになったんですね。成る程。そのピアノの教師は芸術家気取のノッペリした青年……奥様は二度目の奥様で、大阪新聞の美人投票で一等賞……アッ……。

 ワ──ッ……先生ッ。チョチョチョチョットお待ち下さい。チョットチョット。いいえ放しませぬ。チョットお待ち下さい。血相をお変えになってどこへお出でになるんで……ナ何ですって……。そのピアノ教師せんせいをお訴えになる。あの本を取返して使った毒薬を発見してやる……ま……ま……待って下さい。……ト……飛んでもない事です。まあお聴き下さい。落ち付いて……とにかくここへ今一度おかけ下さい。私あっしのお話をお聞き下さい。御事情は私あっしが見貫みぬいております。事件の真相は私あっしがチャンと存じておりますから、残らずお話し致しましょう。急せいてはいけません。短気は損気です……ああビックリした……。

 飛んでもない事ですよ先生、ソレは……。もし先生がソンナ事をなされますとあの本をどこから手に入れたという事が、警察でキット問題になりますよ。その時に私あっしが警察へ呼ばれまして正直のところを申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか。

 ハハハ。それ御覧なさい。まあまあモウ一度ここへお掛け下さい。このお茶の熱いところを一服めし上って下さい。私あっしが何もかもネタを割ってお話し致します。モトを申しますと何もかも私あっしが悪いのです。

 ソ……ソンナにビックリなさることは御座いません。コレ……この通りお詫びを申上げます。何もかも私あっしが悪いので御座います。ヘエヘエ。この通りアヤマリます。どうぞ御勘弁を……。

 何をお隠し申しましょう……只今まで私あっしがお話致しました事は、みんなヨタなんです。出鱈目でたらめなんです。根も葉もない作り話なんでゲス。ハハハ。吃驚びっくりなさいましたか。ハハハ……。

 あの御本はヤッパリ普通の聖書なんです。もちろん一六八〇年度の英国の筆写本なんでゲスから相当の珍本には間違い御座んせん。三百両ぐらいの価値ねうちは確かで御座いますがトテモ千両なんて踏めるシロモノじゃ御座んせん。御自身で読んで御覧になれあ、おわかりになります。初めからおしまいまで普通の聖書の通りの文句で、一字一字毎ごとに狂いのないところを見ますと、よっぽど信仰の深い僧侶ぼうさんが三拝九拝しながら写したもんですね。とにかく滅多に出て来っこない珍本ですからドウゾお大切にお仕舞いおき願いますよ。こうしてお代金を頂戴いたしましたからには、惜しゅうは御座いますが、お譲り致します。

 実は先生が、大学でも有名な御本集めの名人でおいでになる事を、法文科の中江先生からズット以前に伺っておりました。今度、○○科へ本集めの名人が来たぜ。あの男は東京に居る時分から俺の好敵手で、どうして集めるんだか判らないが、俺の狙っている本を片端かたはしから浚さらって行ってしまいやがる。あの男が来ると俺の道楽は上ったりだ……ってね。よくソウ仰言っておられましたよ。

 ……ですから実はソノ……ヘヘヘ。先生があの本をお持ちになった時も私あっしはよく存じておりましたからね。その中うちに奥様にでもお代を頂戴に行こうかと思っておりますところへ、今日ヒョックリ先生がお見えになる……トタンに今の夕立で御座いましょう。店には格別お珍しいものも御座んせんし、先生も雨上がりをお待ちになっておいでになる御様子ですし、私あっしも朝から店に座っていてすこし頭がボンヤリして来たようですから、ツイ退屈凌しのぎに根も葉もないヨタ話を一席伺いました訳で……若い中うちにナマジッカな学問をしたり寄席へ出たり致しました者は、ツイ余計なお喋舌しゃべりが出て参りますようで……ヤクザな学問ほど溢あふれ出したがるようでヘヘヘ。……ヘエヘエやっぱりコウして書物の中に埋まっておりましても探偵小説が一番面白いようで……まったくで御座います。どうかするとツイ探偵小説を地で行ってみたいような気にフラフラッとなりますから妙なもんで……ヘエ。思いもかけませぬお代を頂戴致しまして恐れ入りました。全く根も葉もない作り事を申上げまして、御心配をおかけ申しました段は、幾重にも御勘弁を……。

 ヘエ。モウ降り止んだようで御座います。だいぶ明るくなって参りました。明日はお天気になりましょう。

 ヘイ。御退屈様。毎度ありがとう存じます。ドウゾ奥様をお大事に……。

底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店

   1998(平成10)年4月10日初版発行

初出:「サンデー毎日特別号」

   1936(昭和11)年3月

入力:林裕司

校正:浜野 智

1998年11月10日公開

2003年10月15日修正

青空文庫作成ファイル:

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雨ふり坊主・先生の眼玉に・奇妙な遠眼鏡

香倶土三鳥(夢野久作)

 雨ふり坊主

 お天気が続いて、どこの田圃も水が乾上がりました。

 太郎のお父さんも百姓でしたが、自分の田の稲が枯れそうになりましたので、毎日毎日外に出て、空ばかり見て心配をしておりました。

 太郎は学校から帰って来まして鞄をかたづけるとすぐに、

「お父さんは」

 と尋ねました。

 お母さんは洗濯をしながら、

「稲が枯れそうだから田を見に行っていらっしゃるのだよ」

 と悲しそうに云われました。

 太郎はすぐに表に飛び出して田の処に行って見ると、お父さんが心配そうに空を見て立っておいでになりました。

「お父さん、お父さん。雨が降らないから心配してらっしゃるの」

 と太郎はうしろから走り寄って行きました。

「ウン。どっちの空を見ても雲は一つも無い。困ったことだ」

 とお父さんはふりかえりながら言って、口に啣えたきせるから煙をプカプカ吹かされました。

「僕が雨をふらして上げましょうか」

 と太郎はお父さんの顔を見上げながら、まじめくさってこう云いました。

「アハハハ。馬鹿な事を云うな。お前の力で雨がふるものか」

 とお父さんは腹を抱えて笑われました。

「でもお父さん」

 と太郎は一生懸命になって云いました。

「この間、運動会の前の日まで雨が降っていたでしょう。それに僕がテルテル坊主を作ったら、いいお天気になったでしょう」

「ウン」

「あの時みんなが大変喜びましたから、僕のテルテル坊主がお天気にしたんだって云ったら、皆えらいなあって云いましたよ」

「アハハハハ。そうか。テルテル坊主はお前の云うことをそんなによくきくのか」

「ききますとも。ですから今度は雨ふり坊主を作って、僕が雨を降らせるように頼もうと思うんです」

「アハハハハ。そりゃあみんなよろこぶだろう。やってみろ。雨がふったら御褒美をやるぞ」

「僕はいりませんから、雨降り坊主にやって下さい」

 太郎はすぐに半紙を一枚持って来て、平仮名でこんなことを書きました。

「テルテル坊主テル坊主

 天気にするのが上手なら

 雨ふらすのも上手だろ

 田圃がみんな乾上って

 稲がすっかり枯れてゆく

 雨をふらしてくれないか

 僕の父さん母さんも

 ほかの百姓さんたちも

 どんなに喜ぶことだろう

 もしも降らせぬそのときは

 嘘つきぼうずと名を書いて

 猫のオモチャにしてしまう

 それがいやなら明日から

 ドッサリ雨をふらせろよ

 褒美にお酒をかけてやる

 雨ふり坊主フリ坊主

 田圃もお池も一パイに

 ドッサリ雨をふらせろよ」

 太郎はその手紙を丸めて坊主の頭にして、紙の着物を着せて、裏木戸の萩の枝に結びつけておきました。

 その晩、太郎の家で親子三人が寝ていると、夜中から稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。

「ヤア、僕の雨ふり坊主が本当に雨をふらした」

 と太郎は飛び起きました。

「僕はお礼を云って来よう」

 と出かけようとすると、お父さんとお母さんが、

「あぶない、あぶない。今出ると雷が鳴っているよ。ゆっくり寝て、明日の朝よくお礼を云いなさい」

 と止められましたので、太郎はしかたなしに又寝てしまいました。

 あくる朝早く起きて見ると、もうすっかりいいお天気になっていましたが、池も田も水が一パイで皆大喜びをしていると、田を見まわりに行っていたお父さんはニコニコして帰ってこられました。そうして太郎さんの頭を撫でて、

「えらいえらい、御褒美をやるぞ」

 とお賞めになりました。

「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」

 と云いました。

「よしよし、雨ふり坊主はどこにいるのだ」

 とお父さんが云われましたから、太郎は喜んで裏木戸へお父さんをつれて行ってみると、萩の花が雨に濡れて一パイに咲いているばかりで、雨ふり坊主はどこかへ流れて行って見えなくなっていました。

「お酒をかけてやると約束していたのに」

 と太郎さんはシクシク泣き出しました。

 お父さんは慰めながら云われました。

「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」

 奇妙な遠眼鏡

 ある所にアア、サア、リイという三人の兄弟がありました。

 その中で三番目のリイは一番温柔しい児でしたが、ちいさい時に眼の病気をして、片っ方の眼がつぶっていましたので、二人の兄さんはメッカチメッカチとイジメてばかりおりました。

 リイは外へ遊びに行っても、ほかの子供にやっぱしメッカチメッカチと笑われますので、いつもひとりポッチであそんでいましたが、感心なことに、どんなに笑われてもちっとも憤ったことがありませんでした。

 ある時、三人の兄弟はお父さんとお母さんに連れられて、山一つ向うの町のお祭りを見に行きましたが、その時お父さんが、

「今日は三人に一つずつオモチャを買ってやるから、何でもいいものを云ってみろ」

 と云われました。

 アアは、

「何でも狙えばきっとあたる鉄砲がいい」

 と云いました。サアは、

「何でも切れる刀が欲しい」

 と云いました。又リイは、

「どこでも見える遠眼鏡が欲しい」

 と云いました。

 これを聞いたお父さんとお母さんはお笑いになって、

「お前達の云うものはみんな六ヶしくてダメだ。それにアアのもサアのも、鉄砲だの刀だの、あぶないものばかりだ。そんなものを欲しがるものじゃない。リイを見ろ。一番ちいさいけれども温柔しいから、欲しがるものでもちっともあぶなくない。みんなリイの真似をしろ」

 と、兄さん二人が叱られてしまいました。そうして何も買ってもらえずに、只お祭りを見たばかりでお家へ連れて帰られました。

 アアとサアと二人の兄さんは大層口惜しがって、今夜リイをウンとイジめてやろうと相談をしましたが、リイはチャンときいて知っておりました。

 その晩、兄弟三人は揃って、

「お父さんお母さん、お先へ……」

 と云って離れた室に寝ますと、間もなくアアとサアは起き上って、リイをつかまえて窓から外へ引ずり出して、そのまま窓をしめて寝てしまいましたが、リイは前から知っていましたから、声も出さずに兄さん達のする通りになっていました。

 リイはそのまま窓の外の草原に立って、涙をポロポロこぼしながら東の方を見ていますと、向うの草山の方が明るくなって、黄色い大きなお月様がのぼって来ました。

 リイはこんな大きなお月様を見たのは生れて初めてでしたから、ビックリして泣きやんで見ておりますと、不意にうしろの方からシャガレた声で、

「リイやリイや」

 と云う声がしました。

 リイはお月様を見ているところに不意にうしろから名前を呼ばれましたので、ビックリしてふり向きますと、そこには黒い三角の長い頭巾を冠り、同じように三角の長い外套を着た、顔色の青い、眼の玉の赤い、白髪のお婆さんが立っておりました。

 そのお婆さんはニコニコ笑いながら、外套の下から小さな黒い棒を出してリイに渡しました。そうしてリイの耳にシャガレた低い声でこういいました。

「リイ、リイ、リイ

 片目のリイ

 この眼がね、眼にあてて

 息つめて、アムと云え

 すきなとこ、見られるぞ

 リイ、リイ、リイ

 片目のリイ

 このめがね、眼に当てて

 すきなとこ、のぞいたら

 息つめて、マムと云え

 どこへでも、ゆかれるぞ

 アム、マム、ムニャムニャ」

 と云うかと思うと、暗い家の蔭に這入ってそのまま消え失せてしまいました。

 リイはビックリして立っておりましたが、やっと気がついて見ると、自分の手には一本の黒い棒をしっかりと握っております。

 リイはいよいよ不思議に思いました。急いでその棒をお婆さんに返そうと思って、たった今お婆さんが消えて行った暗いところへ行きますと、そこは平たい壁ばかりで、お婆さんはどこへ行ったかわかりませんでした。

 リイはどうしようかと思いましたが、それと一所に今のお婆さんが云ったことを思い出しまして、ためしに黒い棒を片っ方の眼に当てて、向うの山の上のお月様をのぞいて、教わった通り、

「アム」

 と云って見ました。

 リイはあんまり不思議なのに驚いて、棒を取り落そうとした位でした。

 お月様の世界がリイの眼の前に見えたのです。

 見渡す限り真白い雪のような土の上に、水晶のように透きとおった山や翡翠のようにキレイな海や川がありまして、銀の草や木が生え、黄金の実が生って、その美しさは眼も眩むほどです。その中に高い高い大きな大きな金剛石の御殿が建っていて、その中にあのお伽噺の中にある竜宮の乙姫様のような美しいお嬢さんがこちらの方を見て手招きをしております。

 リイは急に行って見たくなりましたから、又教わった通り呼吸を詰めて、

「マム」

 と言って見ました。

 リイが遠眼鏡をのぞいて、「マム」と魔法の言葉を使いますと、向うに見えている月の世界のけしきがだんだん近寄って来ました。

 宝石の身体に金銀の羽根を持った鳥や虫、または何とも云いようのない程美事な月の御殿の中の有り様や、そこに大勢の獣や鳥を連れて迎えに出て来た美しいお姫様の姿なぞが、ズンズン眼の前に近づいて来ました。

 変だと思って遠眼鏡を眼から離しますと、これはどうでしょう。

 リイはいつの間にか月の世界の真白な砂の上に立っておりまして、今までいた人間の世界は、向うに見える水晶の山の上にお盆のようにちいさくなって、紫色に美しく光っています。

 あんまり不思議なことばかり続くので、リイは肝を潰して立っていますと、そこへ最前の美しいお姫様が来まして、

「まあリイさま、よく入らっしゃいました。最前からお待ちしておりました。私はこの月の世界の主人で月姫というもので御座います。どうぞゆっくり遊んで行って下さいまし」

 と云ううちに、リイの手を取って月姫は御殿の中に連れて行って、いろんな御馳走をリイの前に並べました。

 けれどもリイはその御馳走をたべようとはしませんでした。お父様やお母様や兄様たちにだまっておうちを出て月の世界に来たのですから、リイは心配で心配でたまらなくなりました。そうして又もや遠眼鏡を眼に当て、向うの水晶の山の上に見える人間の世界をのぞいて、息をつめて、

「アム」

 と云いました。

 そうすると又不思議です。

 一番初めに見えたのは、自分のうちに一番兄さんのアアと二番目の兄さんのサアが寝ている枕元に最前の魔法使いのお婆さんがあらわれて、アアには何にでもあたる鉄砲をやり、サアには何でも斬れる刀をやっているところです。

 二人の兄さんは望み通りのものを貰ったので、すぐ起き上って外へ飛び出して、王様のお城に行きまして、王様に家来にしてくれと頼みました。

 王様は、二人の持っている不思議な宝物を見てたいそう感心をして、すぐに家来にしましたが、間もなく隣の国と戦争がはじまりますと、アアとサアは一番に飛び出して、アアは山の向うにいる敵の大将をたった一発で打ち倒しました。そのあとからサアが刀を抜いて、攻めて来る敵を片っぱしから刀も鎧も一打に切って切って切りまくりましたので、敵は大敗けに敗けて逃げてしまいました。

 その御褒美で、アアは王様の国を半分と一番目のお姫様を、サアはまた残りの半分と二番目のお姫様を貰って、二人共王様になり、お父様とお母様を半月宛両方へ呼んで、大威張りをしているところまで見えました。

 リイはあんまり早くいろんなことがはじまって行くので眼がまわるように思いましたが、それでもこの様子を見て安心をしまして遠眼鏡を眼から離しますと、最前から傍で見ていた月姫はニッコリしながら、

「人間の世界を御覧になりましたか」

 と尋ねました。リイはだまってうなずきますと、月姫様はやはり笑いながら、

「あんまりいろんな事が早くかわって行くのでビックリなさったでしょう」

「ハイ。夜が明けたかと思うともう日が暮れます。そうして暗くなったと思うともう夜が明けています。あれはどうしたわけでしょう」

 とリイは眼をまん丸にして尋ねました。

「それはこういうわけで御座います」

 と月姫様は云いました。

「月の世界の一日は人間の世界の五万日になるのです。ですから、人間の世界の出来事を月の世界から見ると大変に早く見えるのです。もうあなたがその眼鏡を眼にお当てになってから、今までに三年ばかり経っているのですよ」

「エッ、三年にも……」

 とリイはビックリしました。しかしもうお父様やお母様も自分のことを忘れておいでになるだろう。そうして二人の兄さんたちに孝行をされて喜んでおいでになるだろうと思いましたから、いよいよ本当に安心をしました。

 そうして月の御殿に這入って、月姫と並んで腰をかけて、並んだ御馳走を食べましたが、そのおいしかったこと。それから鳥の歌、虫の音楽、獣の踊りなぞを見ましたが、そのおもしろかったこと……ほんとに月の世界はいいところだとリイは思いました。

 そのうちにリイは又家のことを思い出しました。

 自分はこんなに面白く遊んでいるが、うちの人はどうしているだろうと思いながら、眼鏡を眼に当ててみますと……大変なことが見えました。

 リイが人間の世界を遠眼鏡でのぞいた時は、もうこの前見た時から三十年も経っておりましたので、リイのお父さんやお母さんも、それからアアとサアのお妃の父親の王様も死んでしまって、アアもサアも立派な鬚を生やした王様になっておりました。

 一番兄さんのアア王は今一本の手紙を書いて、弟のサア王の国へお使いに持たせてやっております。

 その手紙にはこんなことが書いてありました。

「おれとお前とはこの国を半分宛持っている。しかしおれはお前の兄さんだから、お前はおれの家来になって、お前の国をおれによこしてもいいと思う。そうすればお前はおれの一番いい家来にしてやる。けれどももしお前がイヤだと云うのなら、おれは何にでもあたる鉄砲を持っているから、ここからお前を狙って打ち殺してしまうぞ」

 この手紙を見た弟のサアは大層怒りました。

「いくら兄さんでも、半分宛わけて貰ったこの国を取り上げるようなことを云うのは乱暴だ。そんな兄さんの云うことは聴かなくてもよい。鉄の鎧を着ていればいくら鉄砲だってこわいことはない。今から兄さんと戦争をしてやろう」

 と、すぐに家来に戦の用意をさせました。

 このことをきいた兄さんのアア王は大層憤りまして、

「おのれ、サア王の憎い奴め。兄貴の云うことをきかないで戦争の用意をするなんて憎い奴だ。それならこっちから戦争をしかけて滅茶滅茶負かしてやれ」

 と云うので、すぐに兵隊を呼び集めました。

 アア王とサア王の妃はもともと姉さんと妹ですから、大変心配をしまして、いろいろに二人の王様の戦争の用意を止めようとしましたが、二人ともなかなか云うことをききません。

 二人のお妃は只泣くよりほかはありませんでした。

 この有様を月の世界から見たリイは、月姫にこう云いました。

「私はこの戦争を止めに行かなければなりません。そうして二人の兄さんが一生涯戦争をしないようにしなければなりません」

 月姫はこれをきいて、

「ほんとに早く止めて上げて下さいまし。二人のお姉様がお可哀想です。けれども、どうしてこんな大戦争をお止めになるのですか」

 と眼をまん丸にして尋ねました。

 リイはニッコリ笑いながら、

「まあ見ていて御覧なさい」

 と云ううちに又も遠眼鏡を眼に当てました。

 リイは遠眼鏡を眼に当てながら、一番兄さんの宝物の鉄砲はどこにあるかと思いながら、

「アム」

 と云いますと、すぐに兄さんのアア王のお城の宝庫が見えました。

 その宝庫には強そうな兵隊がチャンと番をしておりまして、その庫の奥にある大きな鉄の宝箱の中に立派な鉄砲が一梃ちゃんと立てかけてありました。

 リイはそれを見つけると喜んですぐに、

「マム」

 と云いますと、もうその宝庫の中の宝箱の中の鉄砲のところへ来てしまいましたから、リイはその鉄砲を肩にかつぎました。

 それから今度は次の兄さんのサア王のお城の方を向いて、宝物の刀はどこにあるだろうと遠眼鏡をのぞきながら、

「アム」

 と云いますと、やっぱりそのお城の宝庫の中の宝箱の中にチャンと蔵ってありましたから、すぐに、

「マム」

 と云うと、そこへ飛んで行ってその刀の紐を腰に結びつけました。

 リイはそれからアア王とサア王の国の境目にある一番高い山の上に遠眼鏡の魔法で飛んで行って、そこの岩に腰をかけて、遠眼鏡で二人の兄さんのお城のようすを見ていました。

 二人の兄さんはそんなことは知りません。両方とも有りたけの兵隊をみんな集めて戦の用意をしてしまいますと、家来を呼んで、

「あの宝の鉄砲を持って来い」

「あの宝の刀を持って来い」

 と云いつけました。

 両方の家来は宝庫の中の宝の箱を開いて見ますと、どちらも宝物が無くなっていますので、肝を潰して、

「お宝物の鉄砲が無くなっております」

「お宝物の刀が無くなっております」

 と青くなって両方の王様に言いました。

 両方の王様も青くなってしまいました。それは大変と、てんでに宝庫に駈け付けて調べて見ますと、番兵も庫の鍵もチャンとしていながら、中の刀と鉄砲だけ無くなっています。そうしてもとの鉄砲と刀とあったところに、どちらにも、

「お宝物はリイがいただいてまいりました。リイは国の境目の高い山の上にお待ちしております」

 と書いた紙片が置いてありました。

 両方の兄さんたちは憤るまいことか、

「さては弟のリイは泥棒の名人になったと見える。あの高い山を取り巻いて、リイを引っ捕えて宝物を取りもどせ」

 と云うので、両方の国の兵隊が両方からその山をぐるりと取り巻いて、ズンズン攻めのぼって来ました。

 ところがその山の絶頂まで攻めのぼって来るうちにすっかり日が暮れてしまいましたので、二人の兄さんは両方ともリイが逃げはしまいかと心配していましたが、間もなく東の方からまん丸いお月様がのぼって来ましたので、その月の光りでやっとわかった山道をズンズン登って山の絶頂に来ますと、そこにある高い岩の上に不思議にも昔のままの子供の姿のリイが刀と鉄砲を持って立っておりました。

 兄さんのアア王と弟のサア王はこれを見ると、

「それ、あいつを弓で射ち殺せ」

「刀でたたき殺せ」

 と云いましたので、両方の兵隊は一時に岩の下へ突貫して来ました。

 リイは攻め寄せる兵隊を見てニコニコ笑いました。右手に刀、左手に鉄砲をさし上げて、

「みんな音なしくしろ。音なしくしないとこの鉄砲と刀とで一人も残らず殺してしまうぞ」

 と云いました。

 これを見ると、今までワイワイと勢よく攻めのぼって来た兵隊は、皆一時にドンドン逃げ出してしまって、あとにはただ二人のお兄さん、アア王とサア王とだけが残りました。

 リイは二人の兄さんに向って岩の上からこう云いました。

「お二人のお兄さま、おききなさい。あなたがたはなぜそんなに喧嘩をなさるのですか」

 二人のお兄さんはこれをきくと恥かしくなって、岩の下で顔を見合わせて真赤になりました。

 リイは又こう云いました。

「お二人がえらくおなりになったのは、この鉄砲と刀のおかげです。けれども又こんなに喧嘩をなさるのも、この鉄砲と刀があるからです。お二人が仲よくさえなされば、この鉄砲も刀もいらぬ物ですから私がいただいてまいります」

 と云ううちに、東の方に向って遠眼鏡でお月様をのぞきながら、

「アム」

「マム」

 と一時に云いました。

 そうすると、見るみるうちにリイの足は岩の上から離れて、刀と鉄砲を荷いだまま月の世界の方へ飛んでゆきました。

 月の世界では月姫がリイを待っておりまして、

「よくお帰りになりました」

 とお迎えに出て来ましたが、見るとリイの眼はいつの間にか両方とも開いておりましたので、月姫は又ビックリして、

「まあ。あなたの眼が両方とも開いていますよ」

 と云いました。リイもこれを聞くとやっと気がつきまして、

「ヤア。ホントに。これは不思議だ。これは大かた今まで自分ひとりで遊んでいたのに、今度はお兄さんたちの仲直りをさせたので、神様がごほうびに開いて下すったのでしょう」

「ほんとにそうでございましょう。おめでとう御座います。さあお祝いにみんなで遊びましょう」

 と大喜びで遊びはじめました。

 山の上の岩の根本に残った二人の兄さんは、リイが天に飛び上って、お月様の方に行ってしまったのでビックリして抱き合いました。そうしてこんな事を約束しました。

「リイは神様になった。そうして月の世界からいつも私たちのすることを見ているに違いない。そうして私たちがわるいことをしたら、すぐにあの鉄砲で撃ったり、あの刀で斬ったりするに違いない。だからこれから仲よくしよう」

 二人はそれから別々にお城へ帰りますと、ほんとうに仲よく暮らしました。

 みなさんがわるいことをなすった時も、リイはあの月の世界から遠眼鏡で見ているかも知れません。

底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年5月22日 第1刷発行

入力:柴田卓治

校正:もりみつじゅんじ

2000年4月4日公開

青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

雨ふり坊主

夢野久作

 お天気が続いて、どこの田圃たんぼも水が乾上ひあがりました。

 太郎のお父さんも百姓でしたが、自分の田の稲が枯れそうになりましたので、毎日毎日外に出て、空ばかり見て心配をしておりました。

 太郎は学校から帰って来まして鞄をかたづけるとすぐに、

「お父さんは」

 と尋ねました。

 お母さんは洗濯をしながら、

「稲が枯れそうだから田を見に行っていらっしゃるのだよ」

 と悲しそうに云われました。

 太郎はすぐに表に飛び出して田の処に行って見ると、お父さんが心配そうに空を見て立っておいでになりました。

「お父さん、お父さん。雨が降らないから心配してらっしゃるの」

 と太郎はうしろから走り寄って行きました。

「ウン。どっちの空を見ても雲は一つも無い。困ったことだ」

 とお父さんはふりかえりながら言って、口に啣くわえたきせるから煙をプカプカ吹かされました。

「僕が雨をふらして上げましょうか」

 と太郎はお父さんの顔を見上げながら、まじめくさってこう云いました。

「アハハハ。馬鹿な事を云うな。お前の力で雨がふるものか」

 とお父さんは腹を抱えて笑われました。

「でもお父さん」

 と太郎は一生懸命になって云いました。

「この間、運動会の前の日まで雨が降っていたでしょう。それに僕がテルテル坊主を作ったら、いいお天気になったでしょう」

「ウン」

「あの時みんなが大変喜びましたから、僕のテルテル坊主がお天気にしたんだって云ったら、皆えらいなあって云いましたよ」

「アハハハハ。そうか。テルテル坊主はお前の云うことをそんなによくきくのか」

「ききますとも。ですから今度は雨ふり坊主を作って、僕が雨を降らせるように頼もうと思うんです」

「アハハハハ。そりゃあみんなよろこぶだろう。やってみろ。雨がふったら御褒美ごほうびをやるぞ」

「僕はいりませんから、雨降り坊主にやって下さい」

 太郎はすぐに半紙を一枚持って来て、平仮名でこんなことを書きました。

「テルテル坊主テル坊主

 天気にするのが上手なら

 雨ふらすのも上手だろ

 田圃がみんな乾上ひあがって

 稲がすっかり枯れてゆく

 雨をふらしてくれないか

 僕の父さん母さんも

 ほかの百姓さんたちも

 どんなに喜ぶことだろう

 もしも降らせぬそのときは

 嘘つきぼうずと名を書いて

 猫のオモチャにしてしまう

 それがいやなら明日あしたから

 ドッサリ雨をふらせろよ

 褒美にお酒をかけてやる

 雨ふり坊主フリ坊主

 田圃もお池も一パイに

 ドッサリ雨をふらせろよ」

 太郎はその手紙を丸めて坊主の頭にして、紙の着物を着せて、裏木戸の萩の枝に結びつけておきました。

 その晩、太郎の家うちで親子三人が寝ていると、夜中から稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。

「ヤア、僕の雨ふり坊主が本当に雨をふらした」

 と太郎は飛び起きました。

「僕はお礼を云って来よう」

 と出かけようとすると、お父さんとお母さんが、

「あぶない、あぶない。今出ると雷が鳴っているよ。ゆっくり寝て、明日あすの朝よくお礼を云いなさい」

 と止められましたので、太郎はしかたなしに又寝てしまいました。

 あくる朝早く起きて見ると、もうすっかりいいお天気になっていましたが、池も田も水が一パイで皆大喜びをしていると、田を見まわりに行っていたお父さんはニコニコして帰ってこられました。そうして太郎さんの頭を撫でて、

「えらいえらい、御褒美をやるぞ」

 とお賞めになりました。

「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」

 と云いました。

「よしよし、雨ふり坊主はどこにいるのだ」

 とお父さんが云われましたから、太郎は喜んで裏木戸へお父さんをつれて行ってみると、萩の花が雨に濡れて一パイに咲いているばかりで、雨ふり坊主はどこかへ流れて行って見えなくなっていました。

「お酒をかけてやると約束していたのに」

 と太郎さんはシクシク泣き出しました。

 お父さんは慰めながら云われました。

「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」

底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年5月22日第1刷発行

※この作品は初出時に署名「香倶土三鳥かぐつちみどり」で発表されたことが解題に記載されています。

入力:柴田卓治

校正:もりみつじゅんじ

2000年4月4日公開

2003年10月24日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青水仙、赤水仙

夢野久作

 うた子さんは友達に教わって、水仙の根を切り割って、赤い絵の具と青い絵の具を入れて、お庭の隅に埋めておきました。早く芽が出て、赤と青の水仙の花が咲けばいいと、毎日水をやっておりましたが、いつまでも芽が出ません。

 ある日、学校から帰ってすぐにお庭に来てみると、大変です。お父様がお庭中をすっかり掘り返して、畠にしておいでになります。そうしてうた子さんを見ると、

「やあ、うた子か。お父さんはうっかりして悪い事をした。お前の大切な水仙を二つとも鍬くわで半分に切ってしまったから、裏の草原くさはらへ棄ててしまった。勘弁してくれ。その代り、今度水仙の花が咲く頃になったら、大きな支那水仙を買ってやるから」

 とおあやまりになりました。

 うた子さんは泣きたいのをやっと我慢して、裏の草原くさはらを探しましたが、もう見つかりませんでした。そうしてその晩蒲団ふとんの中で、「支那水仙は要らない。あの水仙が可愛いそうだ。もう水をやる事が出来ないのか」といろいろ考えながら泣いて寝ました。

 あくる日、学校から帰る時にうた子さんは、「もううちへ帰っても、水仙に水をやる事が出来ないからつまらないなあ」とシクシク泣きながら帰って来ますと、途中で二人の綺麗なお嬢さんが出て来て、なれなれしくそばへ寄って、

「あなた、なぜ泣いていらっしゃるの」

 とたずねました。うた子さんがわけを話すと、それでは私たちと遊んで下さいましなと親切に云いながら、連れ立っておうちへ帰りました。

 二人はほんとに静かな音なしい児でした。顔色は二人共雪のように白く、おさげに黄金の稲飾りを付けて、一人は赤の、一人は青のリボンを結んでおりました。うた子さんはすこし不思議に思って尋ねました。

「あなたたちはそんな薄い緑色の着物を着て、寒くはありませんか」

「いいえ、ちっとも」

「お名前は何とおっしゃるの」

「花子、玉子と申します」

「どこにいらっしゃるのですか」

 二人は顔を見合わせてにっこり笑いました。

「この頃御近所に来たのです。どうぞ遊んで下さいましね」

 うた子さんはそれから毎日、三人で温順おとなしく遊びました。本を見たり、絵や字をかいたり、お手玉をしたりして日が暮れると、二人は揃って、

「さようなら」

 と帰って行きました。お母さんは、

「ほんとに温順おとなしい、品のいいお嬢さんですこと。うた子と遊んでいると、うちにいるかいないかわからない位ですわね」

 とお父さんと話し合って喜んでおいでになりました。

 そのうちにお正月になりました。

 うた子さんは初夢を見ようと思って寝ますと、いつも来るお嬢さんが二人揃って枕元に来て、さもうれしそうに、

「今日はおわかれに来ました」

 と云いました。

 うた子さんはびっくりしましたが、これはきっと夢だと思いましたから安心して、

「まあ、どこへいらっしゃるの」

 と尋ねました。二人は極きまりわるそうに、

「今から裏の草原くさはらに行かねばなりません。どうぞ遊びに入らっして下さいね」

 と云ううちに、二人の姿は消えてしまいました。うた子さんはハッと眼をさましましたが、この時やっと気がつきまして、

「それじゃ、水仙の精が遊びに来てくれたのか」

 と、夜の明けるのを待ちかねて草原くさはらへ行ってみました。

草原くさはらは黄色く枯れてしまっている中に、水仙が一本青々と延びていて、青と赤と二いろの花が美しく咲き並んでおりました。

底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年5月22日第1刷発行

※この作品は初出時に署名「海若藍平かいじゃくらんぺい」で発表されたことが解題に記載されています。

入力:柴田卓治

校正:もりみつじゅんじ

2000年1月19日公開

2003年10月24日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

あやかしの鼓

夢野久作

 私は嬉しい。「あやかしの鼓つづみ」の由来を書いていい時機が来たから……

「あやかし」という名前はこの鼓の胴が世の常の桜や躑躅つつじと異ちがって「綾あやになった木目を持つ赤樫あかがし」で出来ているところからもじったものらしい。同時にこの名称は能楽でいう「妖怪アヤカシ」という意味にも通かよっている。

 この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新らしいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻の無い……ポ……ポ……ポ……という音を立てる。

 この音は今日こんにち迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。

 これは今の世の中では信ぜられぬことであろう。それ等の呪われた人々の中で、最近に問題になった三人の変死の模様を取り調べた人々が、その犯人を私──音丸久弥おとまるきゅうやと認めたのは無理もないことである。私はその最後の一人として生き残っているのだから……。

 私はお願いする。私が死んだ後のちにどなたでもよろしいからこの遺書を世間に発表していただきたい。当世の学問をした人は或あるいは笑われるかも知れぬが、しかし……。

 楽器というものの音が、どんなに深く人の心を捉えるものであるかということを、本当に理解しておられる人は私の言葉を信じて下さるであろう。

 そう思うと私は胸が一パイになる。

 今から百年ばかり前のこと京都に音丸久能くのうという人がいた。

 この人はもとさる尊とい身分の人の妾腹しょうふくの子だという事であるが、生れ付き鼓をいじることが好きで若いうちから皮屋へ行っていろいろな皮をあつらえ、また材木屋から様々の木を漁あさって来て鼓を作るのを楽しみにしていた。そのために親からは疎うとんぜられ、世間からは蔑さげすまれたが、本人はすこしも意としなかった。その後さる町家から妻を迎えてからは、とうとうこれを本職のようにして上うえつ方がたに出入りをはじめ、自ら鼓の音に因ちなんだ音丸という苗字を名宣なのるようになった。

 久能の出入り先で今大路いまおおじという堂上方どうじょうがたの家に綾姫あやひめという小鼓に堪能な美人がいた。この姫君はよほどいたずらな性質たちで色々な男に関係したらしく、その時既に隠し子まであったというが、久能は妻子ある身でありながら、いつとなくこの姫君に思いを焦こがすようになった揚句あげく、ある時鼓の事に因よせて人知れず云い寄った。

 綾姫は久能にも色よい返事をしたのであった。しかしそれとてもほんの一時のなぐさみであったらしく、間もなく同じ堂上方で、これも小鼓の上手ときこえた鶴原卿つるはらきょうというのへ嫁かたづくこととなった。

 これを聞いた久能は何とも云わなかった。そうしてお輿入こしいれの時にお道具の中に数えて下さいといって自作の鼓を一個さし上げた。

 これが後のちの「あやかしの鼓」であった。

 鶴原家に不吉なことが起ったのもそれからのことであった。

 綾姫は鶴原家に嫁づいて後その鼓を取り出して打って見ると、尋常と違った音色が出たので皆驚いた。それは恐ろしく陰気な、けれども静かな美くしい音であった。

 綾姫はその後何と思ったか、一室ひとまに閉じこもってこの鼓を夜となく昼となく打っていた。そうして或る朝何の故ともなく自害をして世を早めた。するとそれを苦に病んだものかどうかわからぬが、鶴原卿もその後病気勝ちになって、或る年関東へお使者に行った帰り途みちに浜松とかまで来ると血を吐いて落命した。今でいう結核か何かであったろう。その跡目は卿の弟が継いだそうである。

 しかしその鼓を作った久能も無事では済まなかった。久能はあとでこの鼓をさし上げたことを心から苦にして、或る時鶴原卿の邸内へ忍び入ってこの鼓を取り返そうとすると、生憎あいにくその頃召し抱えられた左近という若侍に見付けられて肩先を斬られた。そのまま久能は鼓を取り得ずに逃げ帰って間もなく息を引き取ったが、その末期いまわにこんなことを云った。

「私は私があの方に見すてられて空虚うつろとなった心持ちをあの鼓の音ねにあらわしたのだ。だから生き生きとした音を出させようとして作った普通なみの鼓とは音色が違う筈である。私はこれを私の思うた人に打たせて『生きながら死んでいる私』の心持ちを思い遣ってもらおうと思ったのだ。ちっとも怨うらんだ心持ちはなかった。その証拠にはあの鼓の胴を見よ。あれは宝の木といわれた綾模様の木目を持つ赤樫の古材で、日本中に私の鑿のみしか受け付けない木だ。その上に外側の蒔絵まきえまで宝づくしにしておいた。あれはお公卿くげ様というものが貧乏なものだから、せめてあの方の嫁ゆかれた家うちだけでも、お勝手許かってもとの御都合がよいようにと祈る心からであった。それがあんなことになろうとは夢にも思い設けなんだ。誰でもよい。私が死に際のお願いにあの鼓を取り返して下さらんか。そうして又と役に立たんように打ち潰して下さらんか。どうぞどうぞ頼みます」

 これが久能の遺言となったが、誰も鶴原家に鼓を取り返しに行く者なぞなかった。それどころでなく変死であったので、ごく秘密で久能の死骸を葬った。

 しかしこの遺言はいつとなく噂となって世間に広まり、果は鶴原家の耳にも入るようになった。鶴原家ではそれからその鼓をソックリ箱に蔵おさめて、土蔵の奥に秘めて虫干しの時にも出さないようにした。それと一緒に誰云うとなく「あやかしの鼓」という名が附いて、その箱の蓋を開いただけでも怪しいことがある……その代りこの鼓を持ち伝えてさえおれば家うちの中に金が湧くと言い伝えられた。そのおかげかどうかわからぬが、その後の鶴原家には別に変ったこともなく却かえってだんだんと勝手向きもよくなって維新後は子爵を授けられたが、大正の初めになると京都を引き上げて東京の東中野に宏大な邸やしきを構えた。

 これと反対に綾姫の里方の今大路家はあまり仕合せがよくなかった。綾姫が鶴原家に嫁かたづいたたあとで、血統ちすじが絶えそうになったが綾姫の隠し子があったのを探し出して表向きを都合よくして、やっと跡目を立てたような始末であった。しかしその後しだいに零落してしまって維新後はどうなったか、わからなくなっているという。

 こうして「あやかしの鼓」に関係のある二軒の家が一軒は栄え一軒は落ちぶれている一方に、音丸久能の子の久伯きゅうはくと、その子の久意きゅういは久能のあとを継いで鼓いじりを商売にしてどうにか暮らしているにはいた。けれども二人とも久能の遺言を本気に受けて鶴原家からアヤカシの鼓を引き取ろうというようなことはしなかった。

 この久能の孫の久意が私の父であった。

 私の父は京都にいる時分から鼓の修繕ていれや仲買い見たようなことをやっていた。けれども手職てしょくが出来たらしい割りにお客の取り付きがわるく、最初に生れた男の子の久禄きゅうろくというのは生涯音信不通で、六ツの年に他家よそへ遣るという有り様であった。これを東京の九段におられる能小鼓の名人で高林弥九郎という人が見かねて東京に呼び寄せ、牛込の筑土つくど八幡の近くに小さな家うちを借りて住まわせて下すったので父はやっと息を吐ついたという事である。

 しかし明治三十六年になって母が私を生み残して死ぬと、どうしたものか父は仕事を怠け初めて貸本ばかり読むようになった。それから大正三年の夏に脊髄病に罹かかって大正五年の秋まで足かけ三年の間私に介抱されたあげく肺炎で死んだ。その時が五十五であった。

 その死ぬすこし前のことであった。

 私が復習おさらえを済ましてから九段の老先生から借りて来た「近世説美少年録」という本を読んできかせようとすると父は、

「ちょっと待て、今日はおれが面白い話をしてきかせる」

 と云いながらポツポツと話し出した。それが「アヤカシの鼓」の由来で私にとっては全く初耳の話であった。

 ……ところで……

 と父は白湯さゆを一パイ飲んで話し続けた。

「……実はおれもこの話をあまり本気にしなかった。名高い職人にはよくそんな因縁ばなしがくっついているものだから……東京に来ても鶴原家がどこにあるやら気も付かず、また考えもしなかった。

 すると今から三年ばかり前の春のこと、朝早くおれが表を掃いていると二十歳はたちばかりの若い美しいはいからさんが来て、この鼓の調子を出してくれと云いながら綺麗な皮と胴を出した。おれは何気なく受け取って見ると驚いた。胴の模様は宝づくしで材木は美事な赤樫だ。話にきいた『あやかしの鼓』に違いないのだ。そのはいからさんはその時こんなことを云った。

『私は中野の鶴原家のもので九段の高林先生の処でお稽古を願っているものだが、この鼓がうちにあったから出して打って見たんだけど、どうしても音ねが出ない。何でもよっぽどいい鼓だと云い伝えられているのだから、音が出ない筈はないと思うのだけど』

 と云うんだ。おれは試しに、

『ヘエ。その云い伝えとはどんなことで……』

 と引っかけて見たが奥さんはまだ鶴原家に来て間もないせいか、詳しいことは知らないらしかった。只、

『赤ん坊のような名前だったと思います』

 と云ったのでおれはいよいよそれに違いないと思った。おれはその鼓を一先ず預ることにして別嬪べっぴんさんをかえした。そのあとですぐに仕かけて打って見ると……おれは顫ふるえ上った。これは只の鼓じゃない。祖父じいさんの久能の遺言は本当であった。鶴原家に祟たたるというのも嘘じゃないと思った。

 とはいうものの鶴原家がこの鼓を売るわけはないし、どんなに考えてもこっちのものにする工夫が附かなかったので、おれはそのあくる日中野の鶴原家に鼓を持って行って奥さんに会ってこんな嘘を吐ついた。

『この鼓はどうもお役に立ちそうに思えませぬ。第一長い事打たずにお仕舞しまいおきになっておりましたので皮が駄目になっております。胴もお見かけはまことに結構に出来ておりますが、材が樫で御座いますからちょっと音ねが出かねます。多分これは昔の御縁組みの時のお飾り道具にお用い遊ばしたものと存じますが……その証拠には手擦カンニュウがあまり御座いませんので……お模様も宝づくしで御座いますから……』

 これは家業の一番六むずかしいところで、こっちの名を捨ててお向う様のおためを思わねばならぬ時のほか、滅多に吐ついてはならぬ嘘なのだ。ところが若い奥さんはサモ満足そうにうなずいたよ。

『妾わたしもおおかた、そんな事だろうと思ったヨ。妾の手がわるいのかと思っていたけど、それを聞いて安心しました。じゃ大切だいじにして仕舞っておきましょう』

 って云って笑ってね。十円札を一枚、無理に包んでくれたよ。それから間もなく俺は脊髄にかかって仕事が出来なくなったし、その奥さんも別に仕事を持って来なかった。

 けれども俺は何となく気になるから、その後九段へ伺うたんびに内弟子の連中から鶴原家の様子を聞き集めて見ると……どうだ……。

 鶴原の子爵様というのは元来、お家柄自慢の気の小さい人で、なかなかお嫁さんが定きまらないために三十まで独身ひとりみでいた位だったそうだが、その前の年の暮にチョットした用事で大阪へ行くと、世間でいう魔がさしたとでもいうのだろう。どこで見初みそめたものか今の奥さんに思い付かれて夢中になったらしく、とうとう子爵家へ引っぱり込んでしまった。するとその奥さんの素性すじょうがわからないというので、親類一統から義絶された揚げ句、京都におれなくなって、東京の中野に移転して来たものだった。

 ところでそれはまあいいとしてその奥さんは、名前をたしかツル子さんといったっけが……東京へ越して来て鼓のお稽古を初めると間もなく、子爵様の留守の間まに、お附きの女中が青くなって止めるのもきかないで『あやかしの鼓』を出して打って見たものだ。それをあとから子爵様が聞いてヒドク叱ったそうだが、それを気に病んだものか子爵様は間もなく疳が昂ぶり出して座敷牢みたようなものの中へ入れられてしまった。それからツル子夫人は中野の邸を売り払って麻布あざぶの笄町こうがいちょうに病室を兼ねた小さな家うちを建てて住んだものだが、そうして病人の介抱をしいしい若先生のところへお稽古に来ているうちに子爵様はとうとう糸のように痩せ細って、今年の春亡くなってしまった。

 そうすると鶴原の未亡人ごけさんは、そのあとへ、自分の甥おいとかに当る若い男を連れて来て跡目にしようとしたが、鶴原の親類はみんなこの仕打ちを憤おこってしまって、お上かみに願って華族の名前を除くといって騒いでいる。おまけに若未亡わかごけのツル子さんについても、よくない噂ばかり……ドッチにしても鶴原家のあとは断絶たえたと同様になってしまった。

 おれは誰にも云わないが、これはあの『あやかしの鼓』のせいだと思う。そうして、それにつけておれはこの頃から決心をした。お前は俺の子だけあって鼓のいじり方がもうとっくにわかっている。今にきっと打てるようになると思う。

 けれども俺はお前に云っておく。お前はこれから後のち、忘れても鼓をいじってはいけないぞ。これは俺の御幣担ごへいかつぎじゃない。鼓をいじると自然いい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはキットあの鼓に心を惹かされるようになるから云うんだ。あのアヤカシの鼓は鼓作りの奥儀をあらわしたものだからナ……。

 そうなったらお前は運の尽きだ。あの鼓の音をきいて妙な気もちにならないものはないのだから。狂人きちがいになるか変人になるかどっちかだ。

 お前は勉強をしてほかの商売人か役人かになって東京からずっと離れた処へ行け。鶴原家へ近寄らないようにしろ。

 おれはこのごろこの事ばかり気にしていた。いずれ老先生にもよくお願いしておくつもりだが、お前がその気にならなければ何にもならない。

 いいか……忘れるな……」

 私はお伽噺とぎばなしでも聞くような気になってこの話を聞いていた。しかし別段鼓打ちになろうなぞとは思わなかったから、温柔おとなしくうなずいてばかりいた。

 父は安心したらしかった。

 その年の秋に父が死んで九段の老先生の処へ引き取られると、間もなく私は丸々と肥って元気よく富士見町小学校へ通い続けた。「あやかしの鼓」の話なぞは思い出しもしなかった。

 老先生は小柄な、日に焼けた、眼の光りの黒いお爺さんであった。年はその時が六十一で還暦のお祝いがその春にある筈であったのが、思いがけなく養子の若先生が家出をされたのでその騒ぎのためにおやめになった。

 若先生は名を靖二郎といった。私は会ったことがないが老先生と反対にデップリと肥った気の優しい人で、鼓の音ねジメのよかった事、東京や京阪で催しのある毎ごとに一流の芸者がわざわざ聞きに来た位であったという。家出された時が二十歳はたちであったが着のみ着のままで遺書かきおきなぞもなく、また前後に心当りになるような気配もなかったので探す方では途方に暮れた。一方に気の早い内弟子はもう後釜をねらって暗闘を初めているらしい事なぞをおしゃべりの女中からきいた。

「あなたが大方あと継ぎにおなりになるんでショ」なぞとその女中は云った。

 しかし老先生は私に鼓打ちになれなぞとは一口も云われなかった。只無暗むやみに可愛がって下さるばかりであった。

 けれども家うちが家うちだけに鼓の音ねは朝から晩まで引っ切りなしにきこえた。そのポンポンポンポンという音をウンザリする程きかされているうちに私の耳は子供ながら肥えて来た。初めいい音だと思ったのがだんだんつまらなく思われるようになった。内弟子の中で一番上手だという者の鼓の音〆ねじめはほかの誰のよりもまん丸くて、キレイで、品がよかったがそれでも私は只美しいとしか感じなかった。もうすこし気高い……神様のように静かな……または幽霊の声のように気味のわるい鼓の音はないものか知らん……などと空想した。

 私は老先生の鼓が聞きたくてたまらなくなった。

 しかし老先生が打たれる時は舞台か出稽古の時ばかりで、うちでは滅多に鼓を持たれなかった。一方に私も学校へ通っていたので、高林家へ来て暫くの間は一度も老先生の鼓をきくことが出来なかった。只一度正月のお稽古初めの時に吉例の何とかいうものを打たれたそうであるが、その時は生憎お客様のお使いをしていたために聞き損ねた。

 こうして一夜明けた十六の年の春、高等二年の卒業免状を持って九段に帰ると、私はすぐ裏二階の老先生の処へ持って行ってお眼にかけた。すると向うむきになって朱筆で何か書いておられた老先生はふり返ってニッコリしながら、

「ウム。よしよし」

 とおっしゃって茶托に干菓子を山盛りにして下さった。それをポツポツ喰べている私の顔を老先生はニコニコして見ておられたが、やがて床の間の横の袋戸から古ぼけた鼓を一梃出して打ち初められた。

 そのゝチゝチゝチ○ポ○ポ○ポという音をきいた時、私はその気高さに打たれて髪の毛がゾーッとした。何だか優しいお母さんに静かに云い聞かされているような気もちになって胸が一パイになった。

「どうだ鼓を習わないか」

 と老先生は真白な義歯いればを見せて笑われた。

「ハイ、教えて下さい」

 と私はすぐに答えた。そうしてその日から安っぽい稽古鼓で『三ツ地じ』や『続け』の手を習った。

 けれども私の鼓の評判はよくなかった。第一調子が出ないし、間まや呼吸なぞもなっていないといって内弟子からいつも叱られた。

「大飯を喰うから頭が半間はんまになるんだ。おさんどん見たいに頬ほっペタばかり赤くしやがって……」

 なぞと寄ってたかって笑い物にした。けれども私はちっとも苦にならなかった。──鼓打ちなんぞにならなくてもいい。老先生が死なれるまで介抱をして御恩報じをしたら、あとは坊主になって日本中を旅行してやろう──なぞと思っていたから、なおのこと大飯を喰って元気を養った。

 その年が過ぎて翌年の春のおしまいがけになると、若先生はいよいよ亡くなられたことにきまったので、極ごく内輪でお菓子とお茶ばかりの御法事が老先生のお室へやであった。その席上で老先生の親類らしい胡麻ごま塩のおやじが、

「早く御養子でもなすっては……」

 と云ったら並んでいる内弟子の三、四人が一時に私の方を見た。老先生は苦笑いをされた。

「サア、靖やす(若先生)のあとは、ちょっとありませんね。ドングリばかりで……」

 とみんなの顔を一渡り見られた。内弟子はみんな真赤になった。

 私はこの時急に若先生に会って見たくなった。──きっとどこかに生きておられるに違いない。そうして鼓を打っておられるような気がする。その音ねがききたいな──と夢のようなことを考えながら、老先生のうしろにある仏壇のお燈明の間に白く光っている若先生のお位牌を見ていると、不意に、

「その久弥さんはどうです」

 と胡麻塩おやじが又出しゃばって云ったので私は胸がドキンとした。

「イヤ。これはいわば『鼓の唖おし』でね……調子がちっとも出ないたちです。生涯鳴らないかも知れません。こんなのは昔から滅多にいないものですがね」と云いながら私の頭を撫でられた。私もとうとう真赤になった。

「その児こはものになりましょうか」

 と内弟子の中の兄さん株が云った。吹き出したものもあった。

「物になった時は名人だよ」

 と老先生は落ち付いて云われた。みんなポカンとした顔になった。

 みんなが裏二階を降りると老先生は私に取っときの洋羮を出して下さった。そうして長い煙管きせるで刻煙草きざみを吸いながらこんなことを云われた。

「お前はなぜ鼓の調子を出さないのだえ。いい音ねが出せるのに調子紙を貼ったり剥はがしたりして音色を消しているが、どうしてお前はあんなことをするのだえ」

 私はおめず臆せず答えた。

「僕の好きな鼓がないんです。どの鼓もみんな鳴り過ぎるんです」

「フーン」

 と老先生はすこし御機嫌がわるいらしく、白い煙を一服黒い天井の方へ吹き出された。

「じゃどんな音色が好きなんだ」

「どの鼓でもポンポンポンって『ン』の字をいうから嫌なんです。ポンポンの『ン』の字をいわない……ポ……ポ……ポ……という響のない……静かな音を出す鼓が欲しいんです」

「……フーム……おれの鼓はどうだえ」

「好きです僕は……。けれどもポオ……ポオ……ポオ……といいます。その『オ』の字も出ない方がいいと思うんです」

 老先生は又天井を向いてプーッと煙を吹きながら、目をショボショボと閉じたり明けたりされた。

「先生」と私はいくらか調子に乗って云った。

「鶴原様のところに名高い鼓があるそうですが、あれを借りてはいけないでしょうか」

「飛んでもない」

 と老先生は私の顔を見られた。私はこの時ほど厳重な老先生の顔を見たことがなかった。私はうなだれて黙り込んだ。

「あの鼓を出すとあの家うちに不吉なことがあるというじゃないか。たとい嘘にしろ他人の家に災難があるようなことを望むものじゃないぞ。いいか。気に入った鼓がなければ生涯舞台に出ないまでのことだ」

 私は生れて初めて老先生にこんなに叱られて真青になった。けれども心から恐れ入ってはいなかった。

「あやかしの鼓」が私のあこがれの的となったのはこの時からであった。

 それから間もなく老先生は私を高林家の後嗣あとつぎにきめられて披露をされた。内弟子たちはみんな不承不承に私を若先生と云った。

 しかし私は落胆がっかりした。──とうとう本物の鼓打ちになるのか。一生涯下手糞へたくその御機嫌を取って暮らさなければならないのか。──と思うとソレだけでもウンザリした。──老先生の御恩に背いてはならぬぞ──と、いつも云って聞かせた父の言葉が恨うらめしかった。同時に若先生が家出をされた原因もわかったような気がして、若先生に対するなつかしさがたまらなく弥増いやました。しかし若先生に会いたいという望みは「あやかしの鼓」を見たいという望みよりももっと果敢はかない空想であった。

 私は相も変らず肥え太りながらポコリポコリという鼓を打った。

 こうして大正十一年──私が二十一歳の春が来た。その三月のなかばの或る日の午後、老先生は私を呼び付けて、

「これを鶴原家へ持ってゆけ」と四角い縮緬ちりめんの風呂敷包みを渡された。

 鶴原家ときくとすぐに例の鼓のことを思い出したので、私は思わず胸を躍らせて老先生の顔を見た。老先生もマジマジと私の顔を見ておられたが、

「誰にも知れないようにするんだよ。家うちは笄町の神道本局の筋向うだ。樅もみの木に囲まれた表札も何もない家うちだ」と眼をしばたたかれた。

 私は鳥打に紺飛白こんがすり、小倉袴こくらばかま、コール天の足袋、黒の釣鐘マントに朴歯ほおばの足駄といういでたちでお菓子らしい包みを平らに抱えながら高林家のカブキ門を出た。

 麻布笄町の神道本局の桜が曇った空の下にチラリと白くなっていた。その向うに樅の木立ちにかこまれた陰気な平屋建てがある。セメントの高土塀にも檜ひのき作りの玄関にも表札らしいものが見えず、軒燈の丸い磨硝子すりガラスにも何とも書いてない。この家うちだと思いながら私は前の溝川に架かった一間ばかりの木橋を渡った。

 玄関の格子戸をあけると間もなく障子しょうじがスーッと開あいて、私より一つか二つ上位に見える痩せこけた紺飛白の書生さんが顔を出して三つ指をついた。髪毛かみのけをテカテカと二つに分けて大きな黒眼鏡をかけている。

「鶴原様はこちらで……私は九段の高林のうちのものですが……老先生からこれを……」

 と菓子箱を風呂敷ごとさし出した。

 書生さんは受け取って私の顔をチラリと見たが、私の眼の前で風呂敷を解くと中味は杉折りを奉書ほうしょに包んだもので黒の水引がかかっていて、その上に四角張った字で「妙音院高誉靖安居士……七回忌」と書いた一寸幅位の紙片かみきれが置いてあった。

 私はオヤと思った。ちょっとも気が付かずに持って来たが、これは若先生の七回忌のお茶だ。若先生の御法事はごく内輪で済まされていて、素人弟子には全く知らせないことになっていたのに老先生は何でこんなことをなさるのであろう。鶴原未亡人が差し出てお香典でも呉れたのか知らんと思いながら見ていると、書生さんもその戒名を手に取って青白い顔をしながら何べんも読み返している。何だか様子が変なあんばいだ。

 そのうちに書生さんはニッと妙な笑い方をしながら私の顔を見て、

「どうも御苦労様です……ちょっとお上りになりませんか……今私一人ですが……」

 と云った。その声は非常に静かで女のような魅力があった。私はどうしようかと思った。上ってはいけないような気がする一方に、何だか上りたくてたまらぬような気がして立ったまま迷っていると書生さんは箱を抱えて立ち上りがけに躊躇しいしい又云った。

「……いいでしょう……それに……すこしお頼みしたいことも……ありますから」

 私は思い切って下駄を脱いだ。書生さんは私を玄関の横の、もと応接間だったらしい押し入れのない室へやへ連れ込んだ。見ると八畳の間一パイに新聞や小説や雑誌の類が柳行李やなぎこうりや何かと一緒に散らばっていて、真中の鉄瓶のかかった瀬戸物の大火鉢のまわりすこしばかりしか坐るところがない。書生さんはそこいらに散らばっている茶器を押し除のけて、奥から座布団を持って来て私にあてがうと、

「私は妻木つまきというものです。鶴原の甥です」

 と挨拶をした。

 さてはこの人がそうかと思いながら私は改めて頭を下げていると、妻木君はその物ごしのやさしいのにも似ず、私が見ている前で杉折りをグッと引き寄せるとポツンと水引を引き切った。オヤと思ううちに蓋をあけて中にある風月のモナカを一つ抓つまんで自分の口に入れてから私のほうにズイと押し進めた。

「いかがです」

 私は少々度胆を抜かれた。しかしそのうちに妻木君の唇の両端が豆腐のように白く爛ただれているのに気が付くと、やっとわかった。妻木君は甘い物中毒で始終こんなことをやっているのだ。そのために胃をメチャメチャに壊しているのだ。そうして、かかり合いにするつもりで私を呼び上げたものらしい。用事とはこの事かと思うと私は急にこの青年と心安くなったような気がしてすすめられるままに手を出した。

 ところが妻木君の喰い方の荒っぽいのには又流石さすがの私も舌を捲かれた。初めに四つ五つ私を追い越して喰っているばかりでなく、私が三つ喰ううちに四つか五つの割りで頬張って飲み込むので、見る見るうちに箱の半分以上が空っぽになってしまった。

 私はとうとう兜かぶとを抜いで茶を一パイ飲んだ。すると妻木君はあと二つばかり口に入れてから、うしろの書物の間から古新聞を出して、その中に残ったモナカの二十ばかりをザラザラとあけてグルグルと包んで書物のうしろに深く隠した。それから杉折りを取り上げるとペキンペキンと押し割って薪まきのように一束にして、戒名と一緒に奉書の紙に包んだ上から黒水引きでグルグル巻きに縛った。

「どうも済みませんが……」と妻木君はそれを私の前に差し出した。

「これをお帰りの時にどこかへ棄ててくれませんか」

 それを私が微笑しながら受け取ると、妻木君の顔が小児こどものように輝やいた。そうして前よりも一層丁寧に云った。

「それからですね。ほんとに済みませんけどもこの事はお宅の先生へも秘密にしてくれませんか」

 私は思わず吹き出すところであった。

「ええええ大丈夫です。僕からもお願いしたい位です」

「有り難う御座います。御恩は死んでも忘れません」

 と云いつつ妻木君は不意に両手をついて頭を畳にすりつけた。

 その様子があまり馬鹿丁寧で大袈裟なので私は又変な気もちになった。鶴原子爵は狂気きちがいで死んだというがこの青年も何だか様子が変である。ことによるとやっぱり「あやかしの鼓」に呪われているのじゃないかと思った。

 しかしそう思うと同時に又「あやかしの鼓」が見たくてたまらなくなって来た。しかもそれを見るのには今が一番いい機会じゃないかというような気がしはじめた。

「この人に頼んだらことに依ると『あやかしの鼓』を見せてくれるかも知れない。今がちょうどいいキッカケだ。そうして今よりほかにその時機がないのだ。この家うちに又来ることがあるかないかはわからないのだから」

 と考えたが一方に何だか恐ろしく気が咎とがめるようにもあるので、心の中で躊躇しいしい妻木君の顔を見ていると、妻木君も黒い眼鏡越しに私の顔をジッと見ている。そうして何の意味もないらしい微笑をフッと唇のふちに浮かべた。私はその笑顔に釣り込まれたようにポツンと口を利いた。

「『あやかしの鼓』というのがこちらにおありになるそうですが……」

 妻木君の笑顔がフッと消えた。私は勇を鼓して又云った。

「すみませんが内密で僕にその鼓を見せて頂けないでしょうか」

「……………」

 妻木君は返事をしないで又も私の顔をシゲシゲと見ていたが、やがて今までよりも一層静かな声で云った。

「およしなさい。つまらないですよあの鼓は……変な云い伝えがあるのでね、鼓の好きな人の中には見たがっている人もあるようですがね……」

「ヘエ」と私は半ば失望しながら云った。こんな書生っぽに何がわかるものかと思いながら……すると妻木君は私をなだめるように、いくらか勿体ぶって云った。

「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持ち主の名が綾姫といったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』などと一緒にして捏でっち上げた碌ろくでもない伝説なんです。根も葉もないことです」

「そうじゃないように聞いているんですが」

「そうなんです。あの鼓は昔身分のある者のお嫁入りの時に使ったお飾りの道具でね。音ねが出ないものですから皆怪しんでいろんなことを……」

 私はここまで聞くと落ち付いて微笑しながら妻木君の言葉を押し止めた。

「ちょっと……そのお話は知っています。それはこちらの奥さんが或る鼓の職人から欺だまされていらっしゃるのです。その職人はこの家うちのおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」

 と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカの潰つぶし餡あんのくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。

 私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。

 けれどもそれはほんの一寸ちょっとの間まのことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕を拱くんでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。

「承知しました。お眼にかけましょう」

「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居いずまいを直した。

「けれども今日は駄目ですよ」

「いつでも結構です」

「その前にお尋ねしたいことがあります」

「ハイ……何でも」

「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」

 私はこの時どんな表情かおつきをしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。

「……どうして……それを……」

 妻木君は深くうなずいた。悄然しょうぜんとしていった。

「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのお家うちの若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」

 私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。

「……若先生は伯母おばからあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……この家うちへ来られてその鼓を打たれたんです。それからこの家うちを出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」

「若先生は生きておられるのですか」

 と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。それから静かに云った。

「……この鼓に呪われて……生きた死骸とおんなじになって……しかしそれを深く恥じながら……自分を知っているものに会わないようにどこにか……姿をかくしておられます」

「あなたはどうしてそれがおわかりになりますか」

「……私は若先生にお眼にかかりました……私にこの事だけ云って行かれたのです。そうして……私の後継ぎにはやはり音丸という子供が来ると……」

 私は思わずカッと耳まで赤くなった。若先生にまで見込まれていたのかと思うと空恐ろしくなったので……。

 それと一緒に眼の前に居る妻木という書生さんがまるで違ったえらい人に思われて来た。若先生がそんなことまで打ち明けられる人ならば、よほど芸の出来た人に違いないからである。私はすぐにも頭を下げたい位に思いながら恭うやうやしく聞いた。

「それからあなたは……どうなさいましたか」

 妻木君も私と一緒に心持ち赤くなっていたようであったが、それでも前より勢い込んで話し出した。

「私はこの事をきくと腹が立ちました。高たかの知れた鼓一梃が人の一生を葬るような音ねを立てるなんて怪けしからぬ。鼓というものはその人の気持ちによって、いろんな音色を出すもので、鼓の音が人の心を自由にするもんじゃない。どうかしてその鼓を打って見たい。そうしてそのような人を呪うような音色でなく当り前の愉快な調子を打ち出して、若先生の讐かたきを取りたいものだと思っている矢先へ伯母が私を呼び寄せたのです。私は得たり賢しで勉強をやめて此こ家こに来ました」

「……で……その鼓をお打ちになりましたか」

 と私は胸を躍らしてきいた。しかし妻木君は妙な冷やかな顔をしてニヤニヤ笑った切り返事をしない。私は自烈度じれったくなって又問うた。

「その鼓はどんな恰好でしたか」

 妻木君はやはり妙な顔をしていたが、やがて力なく投げ出すように云った。

「僕はまだその鼓を見ないのです」

「エッ……まだ」と私は呆気あっけにとられて云った。

「エエ。伯母が僕に隠してどうしても見せないんです」

「それは何故ですか」と私は失望と憤慨とを一緒にして問うた。妻木君は気の毒そうに説明をした。

「伯母は若先生が打たれた『あやかしの鼓』の音をきいてから、自分でもその音が出したくなったのです。そうして音が出るようになったら、それを持ち出して高林家の婦人弟子仲間に見せびらかしてやろうと思っているのです。ですからそれ以来高林へ行かないのです」

「じゃ何故あなたに隠されるのですか」

 と私は矢継早やつぎばやに問うた。その熱心な口調にいくらか受け太刀だちの気味になった妻木君は苦笑しいしい云った。

「おおかた僕がその鼓を盗みに来たように思っているのでしょう」

「じゃどこに隠してあるかおわかりになりませんか」

 と私の質問はいよいよぶしつけになったので、妻木君の返事は益々受け太刀の気味になった。

「……伯母は毎日出かけますのでその留守中によく探して見ますけれども、どうしても見当らないのです」

「外へ出るたんびに持って出られるのじゃないですか」

「いいえ絶対に……」

「じゃ伯母さんは……奥さんはいつその鼓を打たれるのですか」

 この質問は妻木君をギックリさせたらしく心持ち羞恥はにかんだ表情をしたが、やがて口籠くちごもりながら弁解をするように云った。

「私は毎晩不眠症にかかっていますので睡眠薬を服のんで寝るのです。その睡眠薬は伯母が調合をして飲ませますので私が睡ったのを見届けてから伯母は寝るのです。その時に打つらしいのです」

「ヘエ……途中で眼のさめるようなことはおありになりませんか」

「ええ。ありません……伯母はだんだん薬を増すのですから……けれどもいつかは利かなくなるだろうと、それを楽しみに待っているのです。もう今年で七年になります」

 と云うと妻木君は悄然しょんぼりとうなだれた。

「七年……」と口の中で繰り返して私は額に手を当てた、この家中に充ち満ちている不思議さ……怪しさ……気味わるさ……が一時に私に襲いかかって頭の中で風車かざぐるまのように回転し初めたからである。この家中のすべてが「あやかしの鼓」に呪われているばかりでなく、私もどうやら呪われかけているような……。

 しかし又この青年の根気の強さも人並ではない。そんな眼に会いながら七年も辛抱するとは何という恐ろしい執念であろう。しかもそうした青年をこれ程までにいじめつけて鼓を吾が物にしようとする鶴原夫人の残忍さ……それを通じてわかる「あやかしの鼓」の魅力……この世の事でないと思うと私は頸すじが粟立つのを感じた。

 私は殆んど最後の勇気を出してきいた。

「じゃ全くわからないのですね」

「わかりません。わかれば持って逃げます」

 と妻木君は冷やかに笑った。私は私の愚問を恥じて又赤面した。

「こっちへお出いでなさい。家うちの中をお眼にかけましょう。そうすれば伯母がどんな性格の女だかおわかりになりましょう。ことによると違った人の眼で見たら鼓の隠してあるところがわかるかも知れません」

 と云ううちに妻木君は立ち上った。私は鼓のことを殆んど諦めながらも、云い知れぬ好奇心に満たされて室へやを出た。

 応接間を出ると左は玄関と、以前人力車を入れたらしいタタキの間まがある。妻木君は右へ曲って私を台所へ連れ込んだ。

 それは電気と瓦斯ガスを引いた新式の台所で、手入れの届いた板の間がピカピカ光っている。そこの袋戸棚から竈かまどの下とその向う側、洗面所の上下の袋戸、物置の炭俵や漬物桶の間、湯殿と台所との間の壁の厚さ、女中部屋の空っぽの押入れ、天井裏にかけた提灯ちょうちん箱なぞいうものを、妻木君は如何にも慣れた手付きで調べて見せたが何一つ怪しいところはなかった。

「女中はいないんですか」と私は問うた。

「ええ……みんな逃げて行きます。伯母が八釜やかましいので……」

「じゃお台所は伯母さんがなさるのですね」

「いいえ。僕です」

「ヘエ。あなたが……」

「僕は鼓よりも料理の方が名人なのですよ。拭き掃除も一切自分でやります。この通りです」

 と妻木君は両手を広げて見せた。成る程今まで気が附かなかったがかなり荒れている。

 ボンヤリとその手を見ている私を引っ立てて妻木君は台所を出た。右手の日本風のお庭に向かって一面に硝子障子ガラスしょうじがはまった廊下へ出て、左側の取っ付きの西洋間の白い扉ドアを開くと妻木君は先に立って這入った。私も続いて這入った。

 初めはあまり立派なものばかりなので何の室へやだかわからなかったが、やがてそれが広い化粧部屋だということがわかった。うっかりすると辷すべり倒れそうなゴム引きの床の半分は美事な絨毯じゅうたんが敷いてある。深緑のカアテンをかけた窓のほかは白い壁にも扉ドアの内側にも一面に鏡が仕掛けてあって、室中へやのものが涯はてしもなく向うまで並び続いているように見える──西洋式の白い浴槽ゆぶね、黒い木に黄金色きんの金具を打ちつけた美事な化粧台、着物かけ、タオルかけ、歯医者の手術室にあるような硝子ガラス戸棚、その中に並んだ様々な化粧道具や薬品らしいもの、室へやの隅の電気ストーブ、向うの窓際の大きな長椅子、天井から下った切り子細工の電燈の笠──。

 妻木君はその中に這入って先ず化粧台の下からあらため初めた。しかし私はその時鼓を探すということよりもかなり年増になっている筈の鶴原未亡人が、こんな女優のいそうな室でお化粧をしている気持ちを考えながら眼を丸くしていた。

「この室も不思議なことはないんです」

 と妻木君は私の顔を見い見い微笑して扉ドアを閉じた。そうして次に今一つある西洋間の青い扉ドアの前を素通りにして一番向うの廊下の端にある日本間の障子に手をかけた。

「この室は……」と私は立ち止まって青い扉ドアを指した。

「その室は問題じゃないんです。一面にタタキになって真中に鉄の寝台が一つあるきりです。問題じゃありません」

 と妻木君は何だかイマイマしいような口つきで云った。

「ヘエ……」

 と云いながら私はわれ知らず鍵穴に眼を近づけて内部なかをのぞいた。

 青黒く地並になった漆喰しっくいの床と白い古びた土壁が向うに見える。あかり窓はずっと左の方に小さいのがあるらしく、その陰気で淋しいことまるで貧乏病院の手術室である。隣の化粧室と比べるととても同じ家の中に並んで在る室とは思えない。

「その室に僕は毎晩寝るのです。監獄みたいでしょう」

 妻木君は冷笑あざわらっているらしかったが、その時は私の眼に妙なものが見えた。それは正面の壁にかかっている一本の短かい革製の鞭で、初め私は壁の汚染しみかと思っていたものだった。

「その室で伯父おじは死んだのです。」

 という声がうしろから聞こえると同時に私はゾッとして鍵穴から眼を退のけた。同時に妻木君の顔一面に浮んだ青白い笑いを見ると身体からだがシャンと固こわばるように感じた。むろん今の鞭の事なぞ尋ねる勇気はなかった。

「こっちへお這入りなさい。この室で伯母は鼓を打つらしいのです」

 私はほっと溜め息をして奥の座敷に這入った──この家うちにはこれ切りしか室がないのだ──と思いながら……。

 奥の一室ひとまの新しい畳を踏むと、私は今まで張り詰めていた気分が見る見る弛ゆるんで来るように思った。

 青々とした八畳敷の向うに月見窓がある。外には梅でも植えてありそうに見える。

 その下に脚の細い黒塗りの机があって、草色の座布団と華奢きゃしゃな桐の角火鉢とが行儀よく並んでいる。その左の桐の箪笥たんすの上には大小の本箱が二つと、大きな硝子ガラス箱入りのお河童かっぱさんの人形が美しい振り袖を着て立っている。

 右手には机に近く茶器を並べた水屋みずやと水棚があって、壁から出ている水道の口の下に菜種なたねと蓮華草れんげそうの束が白糸で結ゆわえて置いてある。その右手は四尺の床の間と四尺の違い棚になっているが床の間には唐美人の絵をかけて前に水晶の香炉を置き、違い棚には画帖らしいものが一冊と鼓の箱が四ツ行儀よく並べてある。その上下の袋戸と左側の二間一面の押し入れに立てられた新しい芭蕉布の襖ふすまや、つつましやかな恰好の銀色の引き手や、天井の真中から下っている黒枠に黄絹張りの電燈の笠まで何一つとして上品でないものはない。

 私は思わず今一度溜め息をさせられた。

「これが伯母の居間です」

 といううちに妻木君は左側の押し入れの襖を無造作にあけて、青白い二本の手を突込んで中のものを放り出し初めた……縮緬ちりめんの夜具、緞子どんすの座布団、麻のシーツ、派手なお召の掻かい巻まき、美事な朱総しゅぶさのついた括くくり枕まくらと塗り枕、墨絵を描いた白地の蚊帳かや……。

「ええ……もう結構です……」

 と私は妙に気が退ひけて押し止めた。しかし妻木君はきかなかった。放り出した夜具類を、もとの通りに片付けると今度は隣り側の襖を開いて内部一面に切り組んである衣装棚を引き出し初めた。

「イヤ。わかりました。わかりました。あなたがお調べになったのなら間違いありません」

「そうですか……それじゃ箪笥を……」

「もう……もう本当に結構です」

「じゃ御参考に鼓だけお眼にかけておきましょう」

 と云ううちに右手の違い棚から一つ宛ずつ四ツの鼓箱を取り下した。私はそれを受け取って室へやの真中に置いた。

 箱から取り出された四ツの仕掛け鼓が私の前に並んだ時私は何となく胸が躍った。この中に「あやかしの鼓」が隠れていそうな気がしたからである。

 この道にすこしでも這入った人は皆知っている通り、鼓の胴と皮とは人間でいえば夫婦のようなもので、元来別々に出来ていて皮には皮の性しょうがあり胴には胴の性がある。その二つの性が合って始めて一つの音色が出るので、仮令たといどんな名器同志の皮と胴でも、性が合わなければなかなか鳴らない。調子皮を貼って性を合わせたにしても、今までとは全く違った音色が出るので、今ここに四ツの皮と胴とがあるとすれば、鳴る鳴らぬに拘かかわらず総計で十六通りの音色が出るわけである。鶴原未亡人はそれを知っていて、ふだん胴と皮とをかけ換えているのではないか……。

 しかしこの考えが浅墓あさはかであることは間もなくわかった。妻木君は私と向い合って坐るとすぐに云った。

「私はこの四つの胴と皮とをいろいろにかけ換えてみました。けれどもどれもうまく合いませんでやっぱりもとの通りが一番いい事になります」

「つまりこの通りなんですね」

「そうです」

「みんなよく鳴りますか」

「ええ。みんな伯母が自慢のものです。胴の模様もこの通り春の桜、夏の波、秋の紅葉もみじ、冬の雪となっていて、その時候に打つと特別によく鳴るのです。打って御覧なさい」

「伯母さまがお帰りになりはしませんか」

「大丈夫です。今三時ですから。帰るのはいつも五時か六時頃です」

「じゃ御免下さい」と一礼して羽織を脱いだ。妻木君も居住居いずまいを直した。

 私は手近の松に雪の模様の鼓から順々に打って行ったが、九段にいる時と違って一パイに出す調子を妻木君は身じろぎもせずに聞いてくれた。

「結構なものばかりですね」

 と御挨拶なしに賞めつつ私は秋の鼓、夏の鼓と打って来て、最後に桜の模様の鼓を取り上げたが、その時何となく胸がドキンとした。ほかの鼓の胴は皆塗りが古いのに、この胴だけは新らしかった。大方この鼓だけ蒔絵まきえの模様が時候と合わないために、春の模様に塗りかえさしたものであろうが、その前の模様はもしや「宝づくし」ではなかったろうか。

 私はまだ打たぬうちに妻木君に問うた。

「この鼓はいつ頃お求めになったのでしょうか」

「サア。よく知りませんが」

「ちょっと胴を拝見してもいいでしょうか」

「エエ。どうぞ」と妻木君は変にカスレた声で云った。

 私は黄色くなりかけている古ぼけた調緒しらべをゆるめて胴を外はずして、乳袋ちぶくろの内側を一眼見るとハッと息を詰めた。

久能張くのうばりのサミダレになった鉋目かんなめがまだ新しく見える胴の内側には、蛇の鱗ソックリに綾取った赤樫の木目が目を刺すようにイライラと顕あらわれていたからである。私の両手は本物の蛇を掴んだあとのようにわななき出して思わず胴を取り落した。胴はコロコロと私の膝の上から転がり落ちて、横に坐っている妻木君の膝にコツンとぶつかった。

「アッハッハッハッハッ」

 と不意に妻木君が笑い出した。たまらなくコミ上げて来る笑いと一緒に、身体からだをよじって腹を押えて、しまいには畳の上にたおれてノタ打ちまわりながら、ヒステリー患者のように笑いつづけた。

「アッハッハッハッハハハハハ、とうとう一パイ喰いましたね……ヒッヒッホッホッホホハハハハハ。ヒッヒッヒッヒッ……」

 私は歯の根も合わぬ位ふるえ出した。恐ろしいのか気味悪いのか、それとも腹立たしいのかわからぬまま、妻木君の黒い眼鏡を見つめて戦おののいていたが、やがてその笑いが静まって来ると私の心持ちもそれにつれて不思議に落ち付いて来た。あとには只頭の毛がザワザワするのを感ずるばかりになった。

 妻木君は涙を拭い拭い笑い止んだ。

「ああ可笑おかしい。ああ面白かった。アハ……アハ……。御免なさい音丸君……じゃない高林君。僕は君を欺だましたんです。本当にこの鼓の伝説を知っておられるかどうか試して見たんです。さっきから僕が家うちの中を案内なんかしたりしたものだから、君は本当に僕がこの鼓を知らないものと思ったのです。ここに鼓があろうとは思わなかったんです……アハ……アハ……眠り薬の話なんかみんな嘘ですよ。僕は毎日伯母と二人でこの鼓を打っているのですよ……」

 私は開いた口が閉ふさがらなかった。茫然と妻木君の顔を見ていた。

「君は失敬ですけれど正直な立派な方です。そうして本当にこの鼓の事を知って来られたんです……」

「それがどうしたんですか」

 と私は急に腹が立ったように感じて云った。こんなに真剣になっているのに笑うなんてあんまりだと思って……。すると妻木君は眼鏡の下から涙を拭き拭き坐り直したが、今度は全く真面目になってあやまった。

「失敬失敬。憤おこらないでくれ給えね。僕は君を馬鹿にしたんじゃないんです。出来るならこの鼓を絶対に見つからないことにして諦らめてもらって、君をこの鼓の呪いから遠ざけようとしたのです。ですから疑わぬ先にと思ってこの鼓をお眼にかけたのです。けれども見事に失敗しました。この胴の木目のことまで御存じとすれば君は、君のお父さんから本当に遺言をきいて来られたに違いありません。君はこの鼓を手に入れて打ち壊してしまいたいと思っているのでしょう」

 青天の霹靂へきれき……私は全身の血が頭にのぼった。……と思う間もなく冷汗がタラタラと腋わきの下を流れると、手足の力が抜けてガックリとうなだれつつ畳の上に手を支つかえた。

「今まで隠していたが……」と妻木君は黒い眼鏡を外しながら怪しくかすれた声で云った「僕は七年前に高林家を出た靖二郎……ですよ」

「アッ。若先生……」

「……………」

 二人の手はいつの間にかシッカリと握り合っていた。年の割に老ふけた若先生の近眼らしい眼から涙がポロリと落ちた。

「会いとう御座いました……」

 と私はその膝に泣き伏した。それと一緒に誰一人肉親のものを持たぬ私の淋しさがヒシヒシと身に迫って来て、いうにいわれぬ悲しさがあとからあとからこみ上げて来た。

 若先生も私の背中に両手を置きながら暫く泣いておられるようであったが、やがて切れ切れに云われた。

「よく来た……と云いたいが……僕は……君が……高林家に引き取られたときいた時から……心配していた。もしや……ここへ来はしまいかと……」

 私は父の遺言を思い出した。──鼓をいじるとだんだんいい道具が欲しくなる。そうしておしまいにはきっと「あやかしの鼓」に引きつけられるようになる──といった運命の力強さをマザマザと思い知ることが出来た。けれどもそれと同時に若先生と私の膝の前に転がっている「あやかしの鼓」の胴が何でもない木の片はしのように思われて来たのは、あとから考えても実に不思議であった。

 そのうちに若先生は私をソッと膝から離して改めて私の顔を見られた。

「何もかもすっかりわかったでしょう」

「わかりました。……只一つ……」と私は涙を拭いて云った。

「若先生は……あなたはなぜこの鼓を持って高林家へお帰りにならないのですか」

 若先生の眉の間に何ともいえぬ痛々しい色が漂った。

「わかりませんか君は……」

「わかりません」と私は真面目にかしこまった。若先生は細いため息を一つされた。

「それではこの次に君が来られる時自然にわかるようにして上げよう。そうしてこの鼓も正当に君のものになるようにして上げよう」

「エ……僕のものに……」

「ああ。その時に君の手でこの鼓を二度と役に立たないように壊してくれ給え。君の御先祖の遺言通りに……」

「僕の手で……」

「そうだ。僕は精神上肉体上の敗残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」

 と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て独言ひとりごとのように云われた。

「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」

 私はうな垂れて鶴原家の門を出た。

 この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんな家うちが世の中にあろうとは私は夢にも思い付かなかった。何もかも夢の中の出来事のように変梃へんてこなことばかりでありながらその一つ一つが夢以上に気味わるく、恐ろしく、嬉しく、悲しかった。

 恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生──それを甥おいだと偽って吾が家に封じこめて女中同様にコキ使っているらしい鶴原子爵未亡人……そうしてあの美しい化粧室、あの薄気味のわるい病室、皮革かわの鞭、「あやかしの鼓」──何という謎のような世界であろう。何というトンチンカンな家庭であろう。眼で見ていながら信ずる事が出来ない──。

 こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ち止とどまった。

 向うも立ち止まって顔を上げた。

 それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに白襟しろえりをかけていたが芝居に出て来る女のように恰好がよかった。手に何か持っていたようであるがその時はわからなかった。

 私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。

 私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと笄橋こうがいばしの袂たもとまで来ると、不意に左手の坂から俥くるまが駆け降りて来て私とすれ違った。私はその拍子にチラリとふり向いた。

 黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。

 私は逃げるように横町に外それた。

この間は失礼しました。

私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。

二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお出いでが願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。

今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、且かつ不可思議な事実であろうことを信じます。

しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非左様さよう願いたいと思います。

二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお出いでになればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。

あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。

  三月十七日
高林靖二郎

 音丸久弥様

 私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。

 眼の前の硝子ガラス板に私の姿が映ってユラユラと揺れている。

 三越の番頭が見立ててくれた青い色の袷あわせに縫紋ぬいもん、白の博多帯、黄色く光る袴はかま、紫がかった羽織、白足袋にフェルト草履ぞうり、上品な紺羅紗こんらしゃのマントに同じ色の白リボンの中折れという馬鹿馬鹿しくニヤケた服装が、不思議に似合って神妙な遊芸の若先生に見えた。ふだんなら吹き出したかも知れないがこの時はそれどころではなかった。

 私はこの数日間のなやみに窶やつれた頬を両手で押えながら、運転手のうしろの硝子板に顔を近寄せて見た。頭を刈って顔を剃ったばかりなのに年が二つ位老ふけたような気がする。赤かった頬の色もすっかり消え失せているようである。

 自動車が鶴原家に着くと若先生……ではない妻木君が、この間の通りの紺飛白こんがすりの姿のまま色眼鏡をかけないで出て来て三つ指を突いた。水仕事をしていたらしく真赤になった両手をさし出して、運転手が持って来た私の古着の包みを受け取って横の書生部屋にそっと入れた。それから今一つ塩瀬しおせの菓子折の包みを受け取ると、わざとらしく丁寧に一礼して先に立った。私は詐欺か何かの玉に使われているような気になって磨き上げた廊下をあるいて行った。

 奥の座敷は香木の香かがみちみちてムッとする程あたたかかった。しかし未亡人は居なかったので私は何やら安心したようにホッとして程よい処に坐った。

室へやの様子がまるで違ったように思われたが、あとから考えるとあまり違っていなかった。それは室の真中に吊された電燈の笠の黄色いのが取り除のけられて華やかな紫色にかわったせいであろう。真中に鉄色のふっくりした座布団が二つ、金蒔絵をした桐の丸胴の火鉢、床の間には白孔雀くじゃくの掛け物と大きな白牡丹ぼたんの花活はないけがしてあって、丸い青銅の電気ストーブが私の背後うしろに真赤になっていた。

 しずかに妻木君が這入って来て眼くばせ一つせずにお茶を酌んで出した。私も固くなってお辞儀をした。何だか裁判官の出廷を待つ罪人のような気もちになった。

 私は妻木君が出てゆくのを待ちかねて違い棚の上に露出むきだしに並んでいる四ツの鼓を見た。何だかそれが今夜私を死刑にする道具のように見えたからである。──「四ツの鼓は世の中に世の中に。恋という事も。恨うらみということも」──という謡曲の文句を思い出しながら私は気を押し鎮めた。

 うしろの障子しょうじが音もなく開いて鶴原未亡人が這入って来た気はいがした。

 私はこの間のように眩惑されまいと努力しながら出来るだけしとやかに席を辷すべった。

「ま……どうぞ……」と澄み通った気品のある声で会釈しながら、未亡人は私の真向いに来てほの紅い両手の指を揃えた。

 私の決心は見る間に崩れた。あおぎ見ることも出来ないで畳にひれ伏しつつ、今までとはまるで違った調子に高まって行く自分の胸の動悸をきいているうちに、この間の得えもいわれぬ床しい芳香が私の全身に襲いかかって来た。

「初めまして……ようこそ……又只今は……御噂はかねて」

 なぞ次から次へきこえる言葉を夢心地できいているうちに、私は気もちがだんだん落ち付いて来るように思った。そうして「まあどうぞ……おつき遊ばして……それではあの……」という言葉をきくと間もなく顔を上げる事が出来た。その時にはじめて鶴原未亡人の姿をまともに見る事が出来た。

艶々つやつやした丸髷まるまげ。切れ目の長い一重ひとえまぶた。ほんのりした肉づきのいい頬。丸い腮あごから恰好のいい首すじへかけて透きとおるように白い……それが水色の着物に同じ色の羽織を着て黒い帯を締めて魂のない人形のように美しく気高く見えた。

 私はこの間からあこがれていた姿とはまるで違った感じに打たれて暫くの間ボンヤリしていた。ハテナ。自分は何の用でこの婦人に会いに来たのか知らんとさえ思った。

 その時未亡人は前の言葉の続きらしく静かに云った。

「それで私は甥を叱ったので御座います。なぜおかえし申したかって申しましてね……若先生が音丸家の御血統で、あの鼓を御覧になりたいとおっしゃったならばこんないい機会おりは……」

 さては私はまだ鼓を見ないことになっているのだな……と思って未亡人の顔を見た。けれどもその長い眉と黒く澄んだ眼の気品に打たれて又伏し眼になった。

「……なぜお眼にかけなかったのか。こんないい幸いなことはないではありませんか。この年月としつき二人で打っていながら一度もそのシンミリとその呪いの音をきいた事がないではありませんか。あの鼓を打ってホントの音色をお出しになるほどのお方ならば私はいつでもあの鼓をお譲りしますと……」

 私は又顔を上げないわけに行かなかった。すると今度は未亡人の方が淋しい恰好で伏眼になっている。

「……そう申しますと甥が申しますには、それなら今からお手紙を差し上げよう。いま一度お運びをお願いしようと申します。そんなぶしつけなことをと申しますと、それはきっとお出で下さるにちがいない。まだあの鼓をお打ちにならないからだと申します……オホ……ほんとに失礼なことばかり……」

 未亡人は赤面して私の顔を見た。私もその時急に耳まで火照ほてって来るのを感じつつ苦笑した──モナカの事件も存じております──と云われそうな気がして……。

「けれども私もすこし考えが御座いましたので、甥に筆を執とらせましてあのような手紙を差し上げさせましたので……まことに申訳もうしわけ……」と未亡人は頭を下げた。

「どう致しまして……」

 と私もやっとの思いで初めて口を利くと慌てて袂からハンカチを出して顔を拭いた。途端に頭の上の電燈が眩しく紫色に灯ともった。

「何か御用で……」と妻木が顔を出した。未亡人はいつの間にか呼鈴ベルを押したらしい。

「お前用事が済んだのかえ」と云いつつ未亡人はジロリと妻木君を見据えたが、その一瞬間に未亡人の眼が、冷たいというよりも寧むしろ残忍な光りを帯びたのを私はありありと見た。私の神経は急に緊張した。嘗てきいていた「美人の凄さ」が一時に私の眼に閃めき込んだからである。そうして同時にその「美しい凄さ」にさながら奴隷のように支配されている妻木君──若先生の姿がこの上なくミジメに瘠せて見えたからである。

「ハイ。すっかり……」と妻木君は女のように、しとやかに三つ指を支ついた。

「……じゃこちらへお這入り。失礼して……あとを締めて……それから、その鼓を四ツともここへ……」

 その言葉の通りに妻木君は影のように動いて四ツの鼓を未亡人と私の間に並べ終ると、その傍かたえにすこし離れてかしこまった。

 未亡人は無言のまま四ツの鼓を一渡り見まわしたが、やがてその中の一つにジッと眼を注いだ──と思うとその頬の色は見る見る白く血の気が失せて、唇の色までなくなったように見えた。

 私たち二人も固唾かたずを呑んで眼を瞠みはった。

 いい知れぬ鬼気がウッスリと室へやに満ちた。

 突然かすかな戦慄が未亡人の肩を伝わったと思うと、未亡人はいつの間にか手にしていた絹のハンカチで眼を押えた。

 私はハッとした。妻木君も驚いたらしい瞬まばたきを三ツ四ツした。そのまま未亡人は二分か三分の間ヒソヒソと咽むせび泣いたが、やがてハンカチの下から乱れた眉と睫まつげを見せた。それから小さな咳を一つすると繊細かぼそい……けれども厳おごそかな口調で云った。

「わたくしはこんな時機の来るのを待っておりました。こうして私とこの鼓との間に結ばれました因縁を断ち切って頂こうと思ったので御座います」

「因縁……」と私は思わず口走った。

「それはどういう……」

「それは私が私の身の上に就ついて一口申し上ぐれば、おわかりになるので御座います」

「あなたの……」

「ハイ……しかし只今は、わざとそれを申し上げません。押しつけがましゅう御座いますけれども、それは私の生命いのちにも換えられませぬお恥ずかしい秘密で御座いますから、この四ツの鼓の中から『あやかしの鼓』をお選より出し下すって、物語りに伝わっております通りの音色をお出し下さるのを承わった上で御座いませぬと……まことに相済みませぬが、只今それをお願い申し上げたいので御座いますが……」

 未亡人の言葉の中には婦人でなければ持ち得ぬ根強い……けれども柔らかい力が籠っていた。三人の間には更に緊張した深い静けさが流れた。

 不意にある眼に見えぬ力に打たれたように恭うやうやしく一礼しながら私はスラリと座布団を辷り降りて羽織を脱いだ。そうしてイキナリ眼の前の桜の蒔絵まきえの鼓に手をかけると、ハッと驚いて唇をふるわしている未亡人を尻目にかけた。そうして武士が白刃の立ち合いをする気持ちで引き寄せて身構えた。

「あやかしの鼓」の皮は、しめやかな春の夜よの気はいと、室へやに充ち満ちた暖かさのために処女の肌のように和やわらいでいるのを指が触わると同時に感じた。その表皮と裏皮に、さらに心を籠めた息を吐きかけると、やおら肩に当てて打ち出した。……これを最後の精神をひそめて……。

 初めは低く暗い余韻のない──お寺の森の暗やみに啼なく梟ふくろうの声に似た音色が出た。喜びも悲しみもない……只淋しく低く……ポ……ポ……と。

 けれども打ち続いて出るその音が私の手の指になずんでシンミリとなるにつれて、私は眼を伏せ息を詰めてその音色の奥底に含まれている、或るものをきくべく一心に耳を澄ました。

 ポ……ポ……という音の底にどことなく聞こゆる余韻……。

 私は身体からだ中の毛穴が自然おのずと引き緊しまるように感じた。

 私の先祖の音丸久能おとまるくのうは如何にも鼓作りの名人であった。けれどもこの鼓を作り上げた時に自分が思っている以外の気もちがまじっているのに心づかなかった。

 久能は云った。──私は恋にやぶれて生きた死骸になった心持ちだけをこの鼓に籠めた。私の淋しい空からになった心持ちだけをこの鼓の音ねにあらわした。怨うらむ心なぞは微塵みじんもなかった──と……。

 しかしそれはあやまっていた。

 久能が自分の気持ちソックリに作ったというこの鼓の死んだような音色……その力なさ……陰気さの底には永劫えいごうに消えることのない怨みの響きが残っている。人間の力では打ち消す事の出来ない悲しい執念の情調こころがこもっている。それは恐らく久能自身にも心付かなかったであろう。無間むげん地獄の底に堕ちながら死のうとして死に得ぬ魂魄のなげき……八万奈落の涯をさまよいつつ浮ぼうとして浮び得ぬ幽鬼の声……これが恋に破れたものの呪いの声でなくて何であろう。久能の無念の響きでなくて何であろう。

 百年前の、ある月の、ある日、綾姫はこの鼓を打って、この音をきいた。そうして眼にも見えず耳にも止まり難にくい久能の心の奥の奥の呪いが、云い知れぬ深い怨みをこめてシミジミ自分の心に伝わって来るのを只独り感じたのであろう。死ぬよりほかにこの呪いから逃れるすべがない事をくり返しくり返し思い知らせられたであろう。

 ……そうして百年後の今日只今……

 ……私の額から冷たい汗が流れ初めた。室中の暖か味が少しも身体に感じなくなった。背中がゾクゾクして来ると共に肩から手足の力が抜けて鼓を取り落しそうになった。眼の前が青白く真暗くなりそうになって力なく鼓を膝の上におろした。わななく手でハンカチを掴んで額の汗を拭いた。

 妻木君が慌てて羽織を着せた。鶴原未亡人は立ち上って袋戸棚から洋酒の小瓶を取り出して来てふるえる手で私に小さなグラスを持たした。そうして私に火のような酒を一杯グッと飲み干させると今一杯すすめた。

 私は手を振りながらフーッと燃えるような息を吐ついた。

「大丈夫で御座いますか……御気分は……」

 と未亡人は私の顔をのぞいた。妻木も私の顔を心配そうに見ている。私は微笑して肩を大きくゆすりながら羽織の紐ひもをかけた。飲み慣れぬアルコール分のおかげで血のめぐりがズンズンよくなるのを感じながら……。

「まあ……ほんとに雪のように真白におなり遊ばして……今はもうよほど何ですけれど……」

 と未亡人は魘おびえた声で云った。妻木君はホッとため息をした。

「けれどもまあ……何というかわった音色で御座いましょう。そうして又何というお手の冴えよう……私は髪の毛を引き締められるようにゾッと致しましたよ……」

 と感激にふるえるような声で云いつつ未亡人は立ち上って洋酒の瓶を仕舞うと又座に帰ったが、やがてふと思い出したように黒い眼で私の顔をジッと見ると、両手を畳に支えて身を退けながらひれ伏した。

「まことに有り難う存じました。私はおかげ様で生れて初めてこの鼓の音色を本当にうかがうことが出来ました。あなた様は正まさしく名人のお血すじをお享うけ遊ばしたお方に違い御座いません。この上は私も包まずに申し上げます。私こそ……」

 と云いさして未亡人は両手の間に頭を一層深く下げた。

「私こそ……今大路の……綾姫の血すじを……受けましたもので御座います」

「アッ」

 と私は思わず声を立てて妻木君をかえり見た。しかし妻木君は知っているのかいないのかジッと未亡人の水々しい丸髷を見下したまま身じろぎ一つしなかった。未亡人は両手の間に顔を埋めたまま言葉を続けた。

「申すもお恥かしい事ばかりで御座いますが、今大路家は御維新後零落致しまして一粒種の私は大阪へある賤いやしい稼業に売られようと致しましたのを、こちらの主人に救われましたので御座います。申すまでもなくこの家にこの鼓が……」

 とやおら顔を上げて鼓から二人の顔へ眼を移した。曇った顔をして曇った声で云った。

「……この家にこの鼓が御座いますことは、とっくに承わっておりましたが、その鼓に呪われてこのような淋しい身の上になりまして……その上にこのような不思議な……御縁になりましょうとは……」

「わかりました」と私は自分の感情に堪え得ないで、それを打ち切るように云った。

「よくわかりました。サ。お顔をお上げ下さい。つまるところこの三人はこの鼓に呪われたものなのです。呪われてここに集まったものなのです。けれども今日限りその因縁はなくなります。もしあなたがお許し下されば、私はこの鼓を打ち砕いて私たちの先祖の罪と呪いをこの世から消し去ります。そうしてあんな陰気臭い伝説にまつわられない明るい自由な世界に出ようではありませんか」

「ま嬉しい」

 と未亡人は涙に濡れた顔を上げて不意に私の手を執って握り締めた。その瞬間私の全身の血は今までとはまるで違っためぐり方をし初めた。未亡人は両手に云い知れぬ力を籠めて云った。

「マア何というお勇ましいお言葉でしょう。そのお言葉こそ私がお待ちしていたお言葉です。それで私はきょうこの鼓と別れるお祝いにつまらないものを差し上げたいと思いまして……」

「アッ……それは……」と私は腰を浮かした。しかし未亡人の手はしっかりと引き止めた。

「いいえ……いけません……」

「でもそれは又別に……」

「いいえ……今日只今でなければその時は御座いません……サ……お前早くあれを……」

 と妻木君をかえり見た。

 妻木君は追い立てられるように室を出た。

 あとを見送った未亡人はやっと私の手を離してニッコリした。

 私は最前の洋酒の酔いがズンズンまわって来るのを感じながら両手で頬と眼を押えた。

 頭が痛い……と思いながら私は眼を閉じて夜具を頭から引き冠った。すると今まで着た事のない絹夜具の肌ざわりを感ずると共に、得えならぬ芳香がフワリと鼻を撲うったのがわかった。

 私は全く眼が醒さめた。けれども起き上る前にシクシクと痛む頭の中から無理に記憶を呼び起していた──さっきあれからどうしたか──。

 眼の前に御馳走の幻影が浮んだ。それは皆珍しいものばかりで贅沢を極めたものであった。そのお膳や椀には桐の御紋が附いていた。

 その次には晴れやかな鶴原未亡人の笑顔がまぼろしとなって現われた。

「あやかしの鼓とお別れのお祝いですから」

 というので無理に盃をすすめられたことを思い出した。

「もうお一つ……」

 とニッコリ白い歯を見せた未亡人の眼に含まれた媚こび……それをどうしても飲まぬと云い張った時、飲まされた「酔いざまし」の水薬の冷たくてお美味いしかったこと……。

 それから先の私の記憶は全く消え失せている。只あおむけに寝ながらジッと見詰めていた電燈の炭素線のうねりが不思議にはっきりと眼に残っている。

 私は酔いたおれて鶴原家に寝ているのだ。

「失策しまった」と私は眼を開いて夜具の襟から顔を出した。

 さっきの未亡人の室へやに違いない。只電燈に桃色のカバーがかかっているだけが最前と違う。耳を澄ますとあたりは森閑しんかんとして物音一つない。

「ホホホホホホホホホ」

 と不意に枕元で女の笑い声がした。私は驚いて起きようとしたが、その瞬間に白い手が二本サッと出て来て夜着の上からソッと押え附けた。同時にホンノリと赤い鶴原未亡人の顔が上からのぞいてニッタリと笑った。溶けそうな媚を含んだ眼で私を見据えながら、仄ほのかに酒臭い息を吐いて云った。

「駄目よ。もう遅いわよ……諦らめて寝ていらっしゃいオホホホホホホホ」

錐きりで揉もむような痛みを感じて私は又頭を枕に落ち付けた。そうして何事も考えられぬ苦しさのため息をホッと吐ついた。

 コトリコトリと音がする。私の枕元で未亡人が何か飲んでいるらしく、やがて小さなオクビが聞えた。同時に滑らかな声がし初めた。

「とうとうあなたは引っかかったのね。オホホホホ……ほんとに可愛い坊ちゃん。あたしすっかり惚れちゃったのよ。オホホホホ」

 私は頭の痛いのを忘れてガバとはね起きた。見れば私は新しい更紗模様の長繻絆じゅばん一つになってビッショリと汗をかいている。

 未亡人も友禅模様の長繻絆をしどけなく着て私の枕元に横坐りをしている。前には銀色の大きなお盆の上に、何やら洋酒を二、三本並べて薄いガラスのコップで飲んでいたが、私が起きたのを見ると酔いしれた眼で秋波しゅうはを送りながら空からのグラスをさしつけた。私は払い除のけた。

「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」

「エッ……」

「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼が眩くらみそうになって枕の上に突伏した。

「あのね……」

 と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。

「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命いのちにかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか」

「覚悟とは……」

 と私は突然に起き直って問うた。けれども未亡人の燃え立つような美しさと、その眼に籠めた情火に打たれて意気地なくうなだれた。

「覚悟ったって何でもないんです。私は妻木に飽きちゃったんです。血の気のない影法師みたいな男がイヤになったんです。あんな死人みたいな男はあたし大嫌いなんです……」

 と云ううちに未亡人は一番大きなコップに並々と金茶色の酒を注つぐと半分ばかり一息に呑み干した。それから真赤な唇をチョッと嘗なめて言葉をつづけた。

「だけどあなたは無垢な生き生きした坊ちゃんでした。だから妾わたしは好きになっちゃったんです。あたしは、あたしの云う通りになる男に飽きたんです。あの鼓の音にそそられて、そんな男をオモチャにするのに飽きていたんです。私の顔ばかり見ないで気もちを見てくれる人を探していたんです。その時にあなたに会ったんです。私は前の主人の墓参りの帰りにあなたにお眼にかかったのを何かの因縁だと思うのよ。私はもうあなたの純な愛をたよりに生きるよりほかに道がなくなったのよ」

 と云いつつ未亡人は両手をあげて心持ち歪ゆがんだ丸髷を直し初めた。私は人に捕えられた蜘蛛くものように身を縮めた。

「ですから私は今日までのうちにすっかり財産を始末して、現金に換えられるだけ換えて押し入れの革鞄カバンに入れてしまいました。みんなあなたに上げるのです。明日あした死に別れるかも知れないのを覚悟してですよ。そんなにまで私の気持ちは純になっているのですよ……只あの『あやかしの鼓』だけは置いて行きます……可哀そうな妻木敏郎のオモチャに……敏郎はあれを私と思って抱き締めながら行きたいところへ行くでしょう」

 私は両手を顔に当てた。

「もう追つけ三時です。四時には自動車が来る筈です。敏郎は夜中過ぎからグッスリ睡りますからなかなか眼を醒ましますまい」

 私は両手を顔に当てたまま頭を強く左右に振った。

「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」

 と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。

「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」

 と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない長繻絆の裾と、解けかかった伊達巻だてまきと、それからしなやかにわなないている黒い革の鞭と……私は驚いてうしろ手を突いたまま石のように固くなった。

 未亡人はほつれかかる鬢びんの毛を白い指で掻き上げながら唇を噛んで私をキッと見下した。そのこの世ならぬ美しさ……烈しい異様な情熱を籠めた眼の光りのもの凄さ……私は瞬まばたき一つせずその顔を見上げた。

 未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。

「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたように音おとなしくなったんです。その上にあなたはどうです。この『あやかしの鼓』を作って私の先祖の綾姫を呪い殺した久能の子孫ではありませんか。あなたはその罪ほろぼしの意味からでも私を満足さしてくれなければならないではありませんか。この鼓を見にここへ来たのは取り返しのつかない運命の力だとお思いなさい。よござんすか。それとも嫌だと云いますか。この鞭で私の力を……その運命の罰を思い知りたいですか」

 私の呼吸は次第に荒くなった。正まさしく綾姫の霊に乗り移られた鶴原未亡人の姿を仰いでひたすらに喘あえぎに喘いだ。百年前の先祖の作った罪の報いの恐ろしさをヒシヒシと感じながら……。

「サ……しょうちしますか……しませんか」

 と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔に颯さっと閃くと、しなやかな手に持たれたしなやかな黒い鞭がわなわなと波打った。

「ああ……わたくしが悪う御座いました」

 と云いながら私は又両手を顔に当てた。

 ……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。

 ガチャリと硝子ガラスの壊れる音がして不意に冷たい手が私の両手を払い除のけた……と思う間もなく眼を閉じた私の顔の上に烈しい接吻が乱れ落ちた。酒臭い呼吸。女の香か、お白粉おしろいの香、髪の香、香水の香──そのようなものが死ぬ程せつなく私に襲いかかった。

「許して……許して……下さい」

 と私は身を悶えて立ち上ろうとした。

「奥さん……奥さん奥さん」

 と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にポーッと燃え上る火影ほかげが二人でふり返って見ている障子にゆらめいて又消えた。

「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。

 未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ち塞ふさがった。

「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えて空くうに身を反そらすとよろよろと夜具の上を逃げて来たが、私の眼の前にバッタリとうつ向けに倒れて苦しそうに身を縮めた。私は廊下に突立っている妻木君の姿と、たおれている未亡人の姿を何の意味もなく見比べながら坐っていた。

 妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。

「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで此女こいつの変態性慾の犠牲になるところだった。こいつは鶴原子爵を殺し、僕を殺して、今度は君に手をかけようとしたのだ。これを見たまえ」

 と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その肋骨あばらから背中へかけて痛々しい鞭の瘢痕あとが薄赤く又薄黒く引き散らされていた。

「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって斯様こんな眼に会わされるのが気持よく感ずる迄に堕落してしまったんだ。けれども此女こいつはそれで満足出来なくなった。今度はおれを失恋させておいて、そいつを見ながら楽しむつもりでお前を引っぱり込んだ。おれが起きているのを承知で巫山戯ふざけて見せた。……けれどもおれが此女こいつを殺したのは嫉妬じゃない。もうお前がいけないと思ったからこの力が出たんだ。お前を助けるためだったんだ」

「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。

「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」

 と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。

 私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄──兄──若先生──妻木君──と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。

 その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。

「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」

 兄の眼から又新しい涙が湧いた。

「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこの家うちの全財産でお前が今しがた此女こいつから貰ったものだ。あとは引き受ける。決してお前の罪にはしないから。只老先生へだけこの事を話してくれ。そうしておれたちのあとを……弔とむらって……」

 兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。

 そのうちに未亡人の身体からだが眼に見えてブルブルと震え始めた。

「ウ──ムムム」

 という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。

「す……み……ませ……ん」

 とすきとおるような声で云いながら、枕元にある銀の水注みずさしの方へ力なく手を伸ばした。私は思わず手を添えて持ち上げてやったが、未亡人の白い指からその銀瓶の把手ハンドルに黒い血の影が移ったのを見ると又ハッと手を引込めた。

 未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水が迸ほとばしり流れた。

 未亡人はガックリとなった。

「サ……ヨ……ナ……ラ……」

 と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。

 兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。

 自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。

「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。

 私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。

 東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに国府津こうづ駅で降りて何の意味もなしに駅前の待合所に這入って、飲めもしない酒を誂あつらえて、グイグイと飲むとすぐに床を取ってもらって寝た。

 夕方になって眼が醒めたがその時初めて御飯を食べると、何の意味もなしに又西行きの汽車に乗った。その時に待合所の女中か何かが見覚えのない小さな鞄を持って来たのを、

「おれのじゃない」

 と押し問答したあげく、やっと昨夜ゆうべ鶴原家を出がけに兄が自動車の中に入れてくれたものであることを思い出して受け取った。同時にその中に紙幣が一パイ詰まっていることも思い出したが、その時はそれをどうしようという気も起らなかったようである。

 汽車が動き出してから気が付くと私の傍かたえに東京の夕刊が二枚落ちている。それを拾って見ているうちに「鶴原子爵未亡人」という大きな活字が眼についた。

▲きょうの午前十時に美人と淫蕩で有名な鶴原子爵未亡人ツル子(三一)が一人の青年と共に麻布あざぶ笄町こうがいちょうの自宅で焼け死んだ。その表面は心中と見えるが実は他殺である。その証拠に焼け爛れた短刀の中味は二人の枕元から発見されたにも拘わらず、その鞘さやの口金くちがねはそこから数間を隔てた廊下の隅から探し出された。

▲未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前から金かねに換えていたがその金は焼失していないらしい。

▲未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎(二七)という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。

▲当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。

 そんな事を未亡人の生前の不行跡と一緒に長々と書き並べてある。それを見ているうちにあくびがいくつも出て来たので、私は窓に倚よりかかったままウトウトと居眠りをはじめた。

 あくる朝京都で降りると私はどこを当てともなくあるきまわった。すこし閑静なところへ来ると通りがかりの人を捕まえて、

「ここいらに鶴原卿の屋敷跡はありませんでしょうか」

 ときいた。その人は妙な顔をして返事もせずに行ってしまった。それから今大路家や音丸家のあとも一々尋ねて見たがみんな無駄骨折りにおわった。そこに行ってどうするというつもりもなかったけれども只何となく自烈度じれったかった。

 夕方になって祇園の通りへ出たが、そこの町々の美しいあかりを見ると私はたまらなくなつかしくなった。何だか赤ん坊になって生れ故郷へ帰ったような気持ちになってボンヤリ立っていると向うから綺麗な舞い妓こが二人連れ立って来た。その右側の妓この眼鼻立ちが鶴原の未亡人にソックリのように見えたので、私は思わず微笑しながら近付いて名前をきいたら右側のは「美千代」、左側のは「玉代」といった。「うちは?」ときいたら美千代が向うの角を指した。その手に名刺を渡しながら、

「どこかで僕とお話ししてくれませんか」

 というと二人で名刺をのぞいていたが眼を丸くしてうなずき合って私の顔を見ながらニッコリするとすこし先の「鶴羽つるば」という家うちに案内した。そうして二人共一度出て行くと間もなく美千代一人が着物を着かえて這入って来たので私は奇蹟を見るような気持ちになった。

 その時仲居なかいは「高林先生」とか「若先生」とか云って無暗にチヤホヤした。私は気になって「本当の名前は久弥」と云ったら「それでは御苗字は」ときいたから、

「音丸」と答えたら美千代が腹を抱えて笑った。私も東京を出て初めて大きな声で笑った。

 それから後のち私は鶴原未亡人に似た女ばかり探した。芸妓げいしゃ。舞妓。カフェーの女給。女優なぞ……しまいには只鼻の恰好とか、眼付きとか、うしろ姿だけでも似ておればいいようになった。それから大阪に行った。

 大阪から別府、博多、長崎、そのほか名ある津々浦々を飲んでは酔い、酔うては女を探してまわった。昨夜ゆうべ鶴原未亡人に丸うつしと思ったのが、あくる朝は似ても似つかぬ顔になっていたこともあった。その時私は潜々さめざめと泣き出して女に笑われた。

 酔わない時は小説や講談を読んで寝ころんでいた。そうしてもしや自分に似た恋をしたものがいはしまいか。いたらどうするだろうと思って探したが、生憎あいにく一人もそんなのは見付からなかった。

 そのうちに二年経つと東京の大地震の騒ぎを伊予の道後できいたが、九段が無事ときいたので東京へ帰るのをやめて又あるきまわった。けれども今度は長く続かなかった。私の懐中ふところが次第に乏しくなると共に私の身体からだも弱って来た。ずっと以前から犯されていた肺尖がいよいよ本物になったからである。

 久し振りに、なつかしい箱根を越えて小田原に来たのはその翌年の春の初めであった。そこで暖くなるのを待っているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、菜種なたね畠の上にはあとからあとから雲雀ひばりがあがった。

 その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰を卸おろすと不意に眼がクラクラして喀血かっけつした。その土の上にかたまった血に大空の太陽がキラキラと反射するのを見て私は額に手を当てた。そうしてすべてを考えた。

 私は東京を出てから丸三年目にやっと本性ほんしょうに帰ったのであった。懐中を調べて見ると二円七十何銭しかない。私は畠の横の草原に寝て青い大空を仰いで「チチババチバチバ」という可愛らしい雲雀の声をいつまでもいつまでも見詰めていた。

 東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。

 なつかしい檜ひのきのカブキ門が向うに見えると、私は黒い鳥打帽を眉深まぶかくして往来の石に腰をかけた。その時暁星学校の生徒が二人通りかかったが、私の姿を見ると除よけて通りながら「若い立ちん坊だよ」と囁ささやき合って行った。青褪めて鬚を生やして、塵埃ちりまみれの草履ぞうりを穿いた吾が姿を見て私は笑うことも出来なかった。

 その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。

 私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓の音ねもその日は盛んにきこえたけれども老先生の鼓は一つも聞えなかった。

 私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。

「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」

 と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。

「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。

「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って明日あすの夜中過ぎ一時頃にわたしの室へやにお出で。小潜りと裏二階の下の雨戸を開けておくから。内緒ないしょだよ」

 と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。

 その夜は曇ってあたたかかった。

 植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッと跼しゃがんで時刻が来るのを待った。雨らしいものがスッと頬をかすめた。

 ……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生の室へやから起った。

 私はハッと息を呑んだ。

「失策しまった。あの鼓が焼けずにいる。兄が老先生に送ったのだ。イヤあとから小包で私へ宛てて送り出したのを、老先生が受け取られたのかな……飛んでもない事をした」

 と思いつつ私は耳を傾けた。

 鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。

 陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓の音ねがいつとなく陽気な嬉し気な響を帯びて来たからである。それは地獄の底深く一切を怨んで沈んで行った魂が、有り難いみ仏の手で成仏して、次第次第にこの世に浮かみ上って来るような感じであった。

 みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓の音ねになった。しかも日本晴れに晴れ渡った青空のように澄み切った音にかわってしまった。

「イヤア……△タ……ハア……○ポ……ハアッ○ポ……○ポ○ポ」

 それは名曲『翁おきな』の鼓の手であった。

「とう──とうたらりたらりらア──。所ところ千代ちよまでおわしませエ──。吾等も千秋せんしゅう侍さむらおう──。鶴と亀との齢よわいにてエ──。幸い心にまかせたりイ──。とう──とうたらりたらりらア……」

 と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。

 やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。

 私は前の雨戸に手をかけた。スーッと音もなく開いたので私は新しいゴム靴を脱いで買い立ての靴下の塵を払って、微塵も音を立てずに思い出の多い裏二階の梯子を登り切って、板の間に片手を支えながら襖ふすまをソロソロと開いた。

 ……………………

 私はこのあとのことを書くに忍びない。只順序だけつないでおく。

 私は老先生の死骸を電気の紐から外して、敷いてあった床の中に寝かした。

 室の隅の仏壇にあった私の両親と兄の位牌を取って来て、老先生の枕元に並べて線香を上げて一緒に拝んだ。

 それから暫くして「あやかしの鼓」を箱ごと抱えて高林家を出た。ザアザア降る雨の中を四ツ谷の木賃宿へ帰った。

 あくる日は幸いと天気が上ったので宿の連中は皆出払ったが、私一人は加減が悪いといって寝残った。そうして人気ひとけがなくなった頃起き上って鼓箱を開いて見ると、鼓の外に遺書かきおき一通と白紙に包んだ札の束が出た。その遺書には宛名も署名もしてなかったが、まがいもない老先生の手蹟でこう書いてあった。

 これは私の臍へそくりだからお前に上げる。この鼓を持って遠方へ行ってまめに暮してくれ。そうして見込みのある者を一人でも二人でもいいからこの世に残してくれ。あやかしの鼓にこもった霊魂たましいの迷いを晴らす道はもうわかったろうから。

 私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。

 私は死ぬかと思う程泣かされた。この御恩を報ずる生命いのちが私にないのかと思うと私は蒲団を掴み破り、畳をかきむしり、老先生の遺書かきおきを噛みしだいてノタ打ちまわった。

 しかしまだ私の業ごうは尽きなかった。

 私は鼓を抱えて、その夜の夜汽車で東京を出て伊香保いかほに来た。

 温泉宿に落ちついて翌日であったか、東京の新聞が来たのに高林家の事が大きく出ていた。その一番初めに載っていたのはなつかしい老先生の写真であったが、一番おしまいに出ているのは私が見も知らぬ人であるのにその下に「稀代の怪賊高林久弥事旧名音丸久弥」と書いてあったのには驚いた。その本文にはこんなことが書き並べてあった。

▲今から丸三年前大正十年の春鶴原未亡人の変死事件というのがあった。右に就て当局のその後の調べに依ると同未亡人を甥の妻木という青年と一緒にその旅立ちの前夜に殺害して大金を奪って去ったものは九段高林家の後嗣あとつぎで旧名音丸久弥といった屈強の青年であることがわかった。

▲然るにその後久弥はその金を費つかい果たしたものか、昨夜突然高林家に忍び入って恩師を縊くびり殺してその臍繰りと名器の鼓を奪って逃げた。

▲彼は数日前から高林家の門前に乞食体ていを装うて来て様子を伺い、恩師高林弥九郎氏が何かの必要のため貯金全部を引き出して来たのを見済ましてこの兇行に及んだものらしく、三年前の事件と共に実に功妙周到且つ迅速を極めたものである。

▲尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。

 これを読んでしまった時、私はどう考えても免れようのない犯人であることに気が付いた。この鼓が犯人だと云っても誰が本当にしよう。世の中というものはこんな奇妙なものかと思い続けながらこの遺書を書いた。そうして今やっとここまで書き上げた。

 私は今からこの鼓を打ち砕いて死にたいと思う。私の先祖音丸久能の怨みはもうこの間老先生の手で晴らされている。この怨みの脱け殻の鼓とその血統は今日を限りにこの世から消え失せるのだ。思い残すことは一つもない。

 しかし私はこんな一片の因縁話を残すために生れて来たのかと思うと夢のような気もちにもなる。

底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店

   1998(平成10)年4月10日初版発行

初出:「新青年」博文館

   1926(大正15)年10月

※このファイルは、ディスクマガジン『電脳倶楽部』に収録されたものをもとにしています。

入力:上村光治

校正:浜野 智

1998年11月10日公開

2003年10月15日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

爆弾太平記

夢野久作

 ……ああ……酔うた酔うた。

 ……どうだ斎木さいき……モ一つ行こう。脊髄癆カリエスぐらい酒を飲めば癒るよ。ちょっとも酔わんじゃないか君は……。

 ナニ……恐ろしい暴風雨しけだ?……。

 ウン。近来珍らしい二百二十日かだよ。夜半よなか過ぎたら風速四十米突メートルを越すかも知れん。……おまけにここは朝鮮最南端の絶影島まきのしまだ。玄海灘と釜山ふざんの港内を七分三分に見下ろした巌角がんかくの上の一軒家と来ているんだからね。一層風当りがヒドイ訳だよ。……世界の涯に来たような気がする……ハハハ。しかしこの家うちなら大丈夫だよ。その覚悟で建てた赤煉瓦れんがの温突おんどる式だからね。憚はばかりながら酒樽と米だけは、ちゃんとストックして在るんだ。十日や十五日シケ続けたって驚かないよ。ハハハ……。

 イヤ。よく来てくれた。吾輩の竹馬の友といったら、今では君一人なんだからね。もう一人居た福岡県知事の佐々木が、ツイこの間死んでしまったからね……ウン。太っ腹ないい男だったが、可愛相な事をしたよ。何でも視察旅行の途中で、自動車もろ共、谷へ落ちたというんだが、人間、何で死ぬか知れたもんじゃないね。……しかも、その跡に残ったタッタ一人の君が二十年振りに、貴重な静養休暇を利用して、この天涯の素浪人、轟雷雄とどろきなるおの隠れ家を叩きに来ようとは思わなかったよ。

 イヤ……実に意外だった。君の顔を見た瞬間に、故郷の禿山はげやまが彷彿ほうふつとして眼前に浮んだね。イヤ。禿はげているから云うんじゃない……アハハハ。今夜はこの風を肴さかなに飲み明かそうじゃないか。お互いに「頭禿げてもお酒は止まぬ」組だったじゃないか。ハッハッハッ。風が凪ないだら一つ東莱とうらい温泉へ案内しよう。あすこでモウ一度俗腸ぞくちょうを洗って、大いに天下国家を……。

 ナニ……吾輩が首になった原因を話せと云うのか……。

 ハハハハ。それあ話しても宜ええ。吾輩としては俯仰ふぎょう天地に愧はじない事件で首を飛ばされたんだから、イクラ話しても構わんには構わんが、しかしだ。君はホントウに吾輩の云う事を事実と信じて聞いてくれるかね。エエ……?……。

 イヤ。失敬失敬。それはわかっとる。重々わかっとる。君が吾輩を信じてくれる事はトコトンまで疑わんが、しかしそれでも吾輩の休職の裏面に潜む事件の真相なるものが、到底、常識では信ぜられんくらい悽愴せいそう、惨憺さんたん、醜怪、非道を極めたものがあるから、特に念を押す訳だよ。

 手早い話が、吾輩の首をフッ飛ばした事件の真相を突込んで行くと一つのスバラシイ復讐事件にブツカッて来るんだ。しかもその事件の主人公というのは、吹けば飛ぶような貧乏老爺おやじに過ぎないのに、その相手というと南朝鮮各道の検事、判事、警察署長、その他の有力者六十余名というのだから容易じゃないだろう。……のみならず、その復讐事件の真相なるものをモウ一つ奥の方へ手繰たぐって行くと、現在、内地朝鮮の官界、政界、実業界に根強い勢力を張り廻わしている巨頭株の首を珠数じゅず繋ぎにしなければならぬという、日本空前の大疑獄が持ち上って来る事、請合いだ。……しかもソイツが又、全国の爆薬取締に関する重大秘密から、社会主義者、不逞鮮人の策動に引っかかって行く。もしくは張作霖ちょうさくりん、段祺瑞だんきずいを中心とする満洲、支那政局の根本動力にまで影響するかも知れんという……実に売国奴以上に戦慄すべき彼等、巨頭株連中の非国家的行為が、真正面から蜂の巣を突っついたように、曝露ばくろして来るかも知れないんだが……それでも構わんか……君は……。

 もちろんこれは吾輩一流の酔った紛れの大風呂敷じゃないんだぜ。相手が普通の人間なら兎も角だ。農商務大臣と製鉄所長官の首を一度に絞めて、前内閣を引っくり返した堅田かただ検事総長から、懐刀ふところがたなと頼まれている斎木検事正のお耳に、この話が這入はいったとなると問題だろう。メッタにお聞き棄てにならん事を、知って知り抜いて饒舌しゃべりよるのじゃが宜ええか。

 アッハッハッハッハッ。イヤ。決してオベッカじゃないよ。持ち上げよるでも何でもない。シラ真剣の打明け話だ。……フウン。多分ソンナ事じゃろうと思うてワザワザ訪ねて来た……ウンウン。流石さすがは商売人だけある。アハハハ。イヤ。馬鹿にしとる訳じゃない。そんなら尚の事、話し甲斐がいがあるんだ。……実は吾輩もこの問題に就ついては千秋の遺恨を含んでいるんだからね。今云った朝野の巨頭連は、馬鹿正直な吾輩一人を蹴落して、自分等の不正事実を蔽い隠そうと試みているのだ。吾輩の事業の隠れたる後援者であった山内正俊閣下が、去年の十一月に物故されて以来、吾輩が木から落ちた猿同然、手も足も出なくなっている事を、彼奴あいつ等はチャンと知っていやがるんだ。彼奴きゃつ等の肉を裂き、骨をしゃぶっても飽き足りない思いを抱きながら吾輩は、この釜山港口、絶影島まきのしまの一角に隠れて、自分の食う魚を釣っていたんだ。

 ナニ……何だって。君の今度の旅行は、そのための秘密調査が目的だ……? 温泉巡りとは真赤な偽り……脊髄カリエスの静養休暇は検事総長と打合わせた芝居に過ぎん……?

 ……エエッ……何という。ホントウかいそれあ。ヘエ──ッ……。

 こいつは一番、驚いたね。いくら何でも、チイット炯眼けいがん過ぎやせんか……それは……。

 何を隠そう吾輩は現在、この事件に関する詳細な報告書をあの机の上に書きかけとるんだ。しかしこれほどの怪事件はチョイトほかに類例が無いし、問題が又ドエラク大きいもんだから、あの報告書が出来上っても、どこへ出したら宜ええかチョット見当が附かんで困っておったところだが……まさかソコを探知して受取りに来たんじゃあるまいな……君は……。

 フウン。そうだろう。そこまでは知らなかった筈だ。

 ……フウン……しかし奇怪な投書が検事総長の処へ来ている……ヘエ。どんな投書だ……。

 何だ。持って来ているのか。ドレドレ見せ給え……。

 ……ヤッ……これは血書じゃないか。しかも立派な美濃紙が十枚以上在る。大変な努力だぞ。これは……投函局が佐賀県の呼子よぶこか……おかしいな。あすこにも吾輩の乾児こぶんが居るには居るが……大正九年八月十五日……憂国の一青年より……堅田検事総長閣下……フーム。無論、吾輩が書いたんじゃないよ。書体を見ればわかる。……ウーム……と……。

「私ハ貴官ノ正シイ御心ヲ信ジテコノ手紙ヲ書キマス。

 水産翁、轟雷雄先生ガ免職ニナリマシタ裡面ニハ、国家ノタメニナラヌ重大秘密ガアリマス。大正八年十月十四日ノ午後一時カラ二時ノ間ニ、××デ警察署長ガ三人ト、判事ヤ検事ガ四人ト、松島見番けんばんノ芸妓げいしゃ二名ガ殺サレタ事件ノ原因ヲ調ベテ下サイ。貴官ノホカニ、コノ真相ヲ調ベ切ル人ハアリマセン。

 貴官ガコノ事件ヲ、本気デ調査サレタ事ガワカリマシタラ私ガ貴官ノ御宅ニ出頭シテ、真相ヲオ話シシマス。何トナレバ右ノ九人ノ人間ガ死ンダ事件ノ裏面ニ潜ム恐ロシイ爆弾売買ノ真相ヲオ話シ出来ルモノハ、私一人シカ居リマセンカラ。

 モシ貴官ガ今年一パイ、コノ問題ヲ調ベズニ打チ棄テテオカレタナラバ、貴官モ爆弾売リノ仲間ト認メマス。ソウシテ私ハ別ノ手段デ、モットモット皆サンニ、思イ知ラセマス。ドウゾドウゾ国家ノタメニ御調ベヲ願イマス」

 ウーム。検事総長を威嚇した訳だな。

 ……成る程……この投書は二十歳内外の不規則な学問をした青年が、字引引き引き一生懸命に書いたものらしいという見込だね。ウム。「芸妓」とか「爆弾」とかいう難しい文字が特に、活字の通りに正しく書いてあるので推定した……成る程なあ。感心なもんだな。ウーム……それからタッタ一語だけ使ってある「調べ切る」という言葉が「調べ得る」という意味で使った九州北部の方言であるところから察すると、この青年は国家問題に昂奮し易い福岡県下の出身かも知れぬと云うんだね。……賛成だ。吾輩双手もろてを挙げて賛成するね。お互いに福岡生れだから、こうした青年の気持ちがよくわかるんだよ。とにかく生命いのちがけのスゴイ奴に違いない。そこでこの投書を信用して、君が出張して来たという訳か、吾輩の心当りを探るべく……。

 何……まだ話がある……。ハハア……書いた奴の詮索は後廻しか。事実の有無が何より先に問題だと云うんだね。如何にも如何にも……そこで朝鮮総督府へ公文書で問合わせた。成る程……そういった司法官や芸妓が同月、同日の殆んど同時刻に死傷する程の事件ならば、総督府でも知らない筈はないからな。面白い面白い……そうしたらドンナ回答が来た……。ナニ……。

「管轄違いだ。返答の限りに非あらず」

 と突放して来た。怪けしからんじゃないか。……回答した奴は何者だ。フウン。わからんというのか。ただ総督府の太鼓判がベッタリと捺おしてあるだけだ。……いよいよ以もって怪しからんじゃないか。

 ハハア。その手が例の「朝鮮モンロー主義」だというのか。ハッハッ。「朝鮮モンロー主義」はよかったね。……フーン……朝鮮の奴等はそんなに威張るのかなあ。燈台下もと暗しで知らなかった。……フーン……内地の官庁から朝鮮に這入って来たものは、いつもこの式で、書類でも人間でもピンピン撥ね付ける。事務上の連絡が全く取れないが、総督府が独立した官制になっているのだからドウにも手のつけようがない……ヘエー……そうかなあ。……吾輩なんかは絶対にソンナ方針じゃなかったよ。内地から来たものは特に優遇する方針だったから、チットモ気が付かなかったがね……だから首になったんだ……成る程。そうかも知れん。ハッハッハッ……。

 それあ君等としちゃ癪しゃくに触さわったろう。特に司法関係の仕事は内鮮ないせんに跨またがった問題が多いんだからね。一々その手で撥ねられちゃあ遣り切れないだろうよ。成る程。……債券や紙幣の偽造が、朝鮮に逃げ込むと捕まらなくなるのはそのためだ。遺恨骨髄に徹している……成る程。それあそうだろう。

 そこでこっちもグ──ッと来たから、

「内地に於ける銃砲火薬類取締上、調査の必要あり。至急回答ありたし」

 と当てズッポーで威おどかしてやったら、今度は方向を違えた釜山警察署から報告が来た。……ハハア……総督府の奴、物騒と見て取って責任を回避しおったな。卑怯な奴だ。……その報告書がコレか……成る程。総督府宛の内容のものを、そのままコッピーにして送って来た訳だな。ウンウン。朱線を引いた処が要点か。

「……如何なる方面より風聞せられしものなるや判明せざれど、右類似の事件は当署管内に於て確かに発生せし事有之これあり……」

 ……いかにも、コイツは多少名文らしいね。チョイト絡んで来たところが気に入ったよ。

「去る大正八年十月十四日、午後一時頃、釜山公会堂に於て、轟総督府技師の「爆弾漁業」に関する講演中、同技師が見本として提出したる二個の漁業用爆弾が過って炸裂し、傍聴者たりし判検事、署長等(氏名を略す)七名の死者を出したる事件あり。(芸妓げいしゃ二名の死傷は訛伝かでん也)……」

 プッ……馬鹿な。朝鮮官吏の低能と来たら底が知れない。コンナ事でお茶が濁せたらお慰みだ。警察の発表なら誰でも信用すると思っているんだから恐ろしい。そこで……と……。

「……右は前記轟技師の不注意より起りしものなりしと同時に、当局の威信に関する事故なりしを以て、秘密裡に善後の処置を為なし、轟技師の休職を以て万事の落着を見たり。……右御回答申上候」

 アッハッハッハッハッ。イヤ巧たくんだり拵こしらえたり。インチキ、ペテン、ヨタも亦また、甚しい。朝鮮官吏の腐敗堕落が、ここまで甚しかろうとは……ナニ。そんな事情もアラカタ察していた。なるほど……総督府が、釜山署と慣れ合いで事実を隠蔽すると同時に、責任を回避しているものと睨にらんだ……従ってこの事件は、総督府にもコタエル程度の重大事件だったに相違ない……その通りその通り。命中率、正まさに百二十パアセントだよ。朝鮮モンロー主義をギューといわせる事この一挙に在りか。ハハハハ。愉快愉快。そう来なくちゃ面白くない。

 そこで直ぐに君の部下を釜山に密行さした。ウムウム。その部下が釜山に着くと、何よりも先に松島遊廓に上って散財した。ハハハハ。ナカナカ洒落しゃれとるじゃないか……成る程。それからその翌あくる日、帰りしなに、コッソリ公会堂に立寄って、内部の様子を一眼見ると、その朝の連絡船で東京に引返して、釜山署の報告はインチキに相違なしという復命をした……ヘエッ……こいつは驚いた。どうしてわかったんだ。タッタそれだけの仕事で……。

 ハハア。その男の調査によると松島見番けんばんで二人の芸妓げいしゃが変死したのは事実だった……正にその通りだ。それを警察が強制して失綜届を出させている。葬式も法事も許さない。芸妓屋おきやと親元は泣きの涙で怨んでいるが、泣く児こと地頭じとうに勝たれない。ソレッキリの千秋楽になっている……ソイツも正にその通りだ。……のみならず問題の公会堂を覗いてみると建った時のまんま修理した形跡が無い。十人近くの人間が爆死する位なら建物の損害が出ない筈はなかろう……というのか。

 ……ウム。エライッ……。

豪えらいもんだなあ。そんなにも頭が違うものかなあ内地の役人は……そこで検事総長と打合わせた結果、極ごく秘密裡に君が遣って来て、直接、吾輩の口から真相を聴く段取りになった……ウムッ。有難いっ。痛快だっ。イヤ多謝コウマブソ……多謝コウマブソ……とりあえず一杯献いこう。

 君の着眼は正に金的きんてきだったよ。

 朝鮮モンロー主義……売国巨頭株の一掃……手に唾して俟つべしだ。とりあえず前祝まえいわいに大白たいはくを挙げるんだ。

 ナニ……その売国巨頭株の姓名を具体的に云ってくれ……よし云おう。ビックリするな。

 貴族院議員、正四位、勲三等、子爵、赤沢事嗣あかざわことつぐ……これが金毛九尾の古狐で、今度の事件の一番奥から糸を操っている黒頭巾くろずきんだ。君等がよく取逃がす呑舟どんしゅうの魚うおという奴だ。……ハッハッ知らなかったろう。彼奴きゃつの若い時は例の郡司大尉の隠れたる後援者で、東洋切っての漁業通だという事を、誰にも感付かせないように、極力警戒しているんだからね。北洋工船、黒潮漁業の両会社は彼奴あいつの臍繰へそくり金がねで動いていると云っていい位だ。……その次が現在大阪で底曳大尽そこひきだいじんと謳うたわれている荒巻珍蔵あらまきちんぞう……発動機船底曳網の総元締だ。知っているだろう。それから京城の鶏林けいりん朝報社長、林逞策りんていさく。あれで巨万の富豪なんだよ。代議士恋塚こいづか佐六郎……三保の松原に宏大な別荘を構えている……アレだ。お次は大連たいれんの貿易商で満鉄の大株主股旅由高またたびよしたか。それから最後の大物が、現民友会の幹事長、兼、弗箱どるばこと呼ばれている釜松秀五郎かままつひでごろう、逓信次官、雲田融くもたとおる……と……まあザットこれ位にしておこう。どうだい。驚いたか。

 こいつ等の仕事の正体かね。無論、話すとも。話さなくてどうするもんか。君は吾輩唯一の竹馬の友だ。廃物同様の吾輩の話が、君等の仕事の参考になるのは、吾輩の無上の光栄とし、且つ欣快とするところだ。況いわんや君の手によって、極度の乱脈に陥っている現下の銃砲火薬取締が廓清されると同時に、今云った連中にこの遺恨を報ずる事が出来たとすれば、吾輩の本懐、何をかこれに加えんだ。吾輩の一身なんかドウなったって構わない。

 ウンウン。実にお誂向あつらいむきのところに来てくれたよ。註文したって無い大暴風雨おおしけに取巻かれた一軒屋だ。聴いている者は飯爨めしたきの林りんだけだ。ウン。あの若い朝鮮人だよ。彼奴あいつなら聴いても差支えないどころか、吾輩の話のタッタ一人の証人なんだ。吾輩が死んでも、彼奴あいつの報告を聞けば一目瞭然なんだ。年は若いが、生なまやさしい奴じゃないんだよ彼奴あいつは……追々おいおいわかるがね……ウン。

 ところでドウダイ。モウ一パイ……ウン話すから飲め。脊髄癆カリエスなんてヨタを飛ばした罰ばちだ。落ち付いてくれなくちゃ話が出来ん。

「酒を酌んで君に与う君自ら寛ゆるうせよ

 人情の翻覆はんぷく波瀾に似たり」

 だろう……お得意の詩吟はどうしたい。ハハハハ。お互いに水産講習所時代は面白かったナア……。

 ウン面白かった。

 しかし君は途中で法律畑へ転じたもんだから、吾輩がタッタ一人、頑張って水産界へ深入りした。……少々脱線するようだがここから話さないと筋道が通らないからね……しかも内地の近海漁業は二千五百年来発達し過ぎる位発達して、極度の人口過剰に陥っている。残っている仕事はお互い同志の漁場の争奪以外に無いというのが、維新後の水産界の状態だった。

然しかるにこれに反して朝鮮はどうだ。南鮮沿海の到る処が処女漁場で取巻かれているじゃないか。況んや露領沿海州えんかいしゅうに於てをやだ。……これに進出しないでドウなるものか。日本内地三千万の人口過剰を如何いかんせん……というのが吾輩の在学当時からの持論だったが……ウン。君も散々さんざん聞かされた……そこで卒業と同時に、火の玉のようになって日本を飛び出して朝鮮に渡ったのが、ちょうど水産調査所官制が公布された明治二十六年の春だったが、その時の吾輩の資本というのが、牛乳配達をして貯蓄した十二円なにがしと、千金丹せんきんたん二百枚の油紙包みと来ているんだから、正に押川春浪おしかわしゅんろうの冒険小説だろう。

 ……ウン……そこでモウ一つ脱線するが、その頃の朝鮮人が千金丹を珍重する事といったら非常なものだった。君は千金丹を記憶しているだろう。甘草かんぞうに、肉桂粉にっけいふんに薄荷はっかといったようなものを二寸四方位の板に練り固めて、縦横十文字に切り型を入れて金粉や銀粉がタタキ付けてある。無害無効の清涼剤だが、その一枚を三十か四十かに割った三角の一片を出せば、かなりの富豪が三拝九拝して一晩泊めてくれる。一枚の三分の一でも呉れようもんなら、その頃の郡守といって、県知事以上の権威を持った大名役人が、逆立ちをしながら沿岸を案内してくれるというのだから、まるでお伽話とぎばなしだろう。おまけに吾輩は内地の騎兵軍曹の古服を着て、山高帽に長靴、赤毛布ゲットに仕込杖しこみづえ……笑っちゃいけない。ちょうどその頃、先輩の玄洋社連が、大院君を遣付やっつけるべく、烏帽子えぼし直垂ひたたれで驢馬ろばに乗って、京城に乗込んでいるんだぜ。……その吾輩が長髯ちょうぜんを扱しごきながら名刺を突き出すと、ハガキ位の金縁を取った厚紙に……日本帝国政府視察官、医典博士、勲三等、轟雷雄チョツデヨンウウン……と一号活字で印刷してある。意訳すると豪胆、勇壮、この上なしの偉人という名前なんだから、大抵の奴が眼を眩まわしたね。最小限華族ヤンパンぐらいには、到る処で買冠かいかぶられたもんだ。

 この勢いで北は図満江とまんこうの鮭から、南は対州つしまの鰤ぶりに到るまで、透きとおるように調べ上げる事十年間……今度は内地に帰って、水産講習所長の紹介状を一本、大上段に振り冠かぶりながら、沿海の各県庁、水産試験場、著名の漁場漁港を巡廻し、三寸不爛ふらんの舌頭ぜっとうを以て朝鮮出漁を絶叫する事、又、十二年間……折しもあれ日韓合併の事成るや、大河の決するが如き勢をもって朝鮮に移住する漁民りょうみんだけが、前後を通じて五十万という盛況を見つつ今日こんにちに及んだ。歴代の統監、総督の中でも山内正俊大将閣下は、特に吾輩の功績を認めて、一躍、総督府の技師に抜擢ばってきし、大佐相当官の礼遇を賜う事になった。苟いやしくも事、朝鮮の産業に関する限り、米原まいばら物産伯爵、浦上水産翁と雖いえども、一応は必ず、吾輩、轟技師に伺いを立てなければ、物を云う事が出来ないという……吾輩の得意想うべしだったね。

 ところでここまではよかった。ここまではトントン拍子に事が運んだが、これから先が大変な事になった。引くに引かれぬ鞘当さやあてから、日本全国を潜行する無量無辺の不正ダイナマイトを正面に廻わして、アアリャジャンジャンと斬結きりむすぶ事になった。しかもソイツが結局、吾輩タッタ一人の死物狂い的白熱戦になって来たんだから遣り切れない。

 或は吾輩一流の野性が祟たたったのかも知れないがね。

 そのソモソモの狃なれ初そめというのは、実につまらないキッカケからだった。

 今も云う通り吾輩は、総督府のお役人になってしまった。一介の漁師としては正に位、人臣を極めるところまで舞い上って来た訳だが、サテ、そうなってみるとドウモ調子が面白くない。朝鮮緘おどしの金モール燦然さんぜんたる飴売あめうり服や、四角八面のフロックコートを一着に及んで、左様さよう然らばの勲何等風かぜを吹かせるのが、どう考えても吾輩の性に合わなかったんだね。正直正銘のところ山内閣下から轟……轟といって可愛がらるよりも、五十万の荒くれ漁夫りょうしどもから「おやじおやじ」と呼び付けられる方が、ドレ位嬉しいかわからない。この心境は知る人ぞ知るだ。トウトウ思い切ってこうした心事を、山内さんの前で露骨に白状したら、山内さんあのビリケン頭に汗を掻いて大笑おおわらいしたよ。……あんなに笑ったのを見た事が無いと、同席の藁塚わらづか産業課長が云っておったがね。

 その結果、現官のままの吾輩を中心にして東洋水産組合というものが認可されて本拠を釜山ふざんの魚市場に近い岩角がんかくの上に置いた。費用は五十万の漁民りょうみんから一戸当り毎年二十銭ずつ、各道の官庁から切ってもらって、半官半民的に漁民の指導保護、福利増進に資すると同時に北は露領沿海州から、西は大連たいれん沖、支那海まで進出して宜しいという鼻息を、総督から内々ないないで吹き込まれた……というと実に素晴らしい、堂々たる事業に相違ない。吾輩の生命いのちの棄て処が出来たというので、躍り上って喜んだものだが、サテ実際に仕事を初めてみると、何より先に驚ろかされたのは組合費が集まらない事だった。

 アタジケナイ話だが、一年の一戸当りがタッタ二十銭とはいうものの、税金と違って罰則が無い。おまけに遣りっ放しの海上生活者が相手なんだから徴収困難は最初てんから覚悟していたが、半分以下に見て七千円の予算が、その又半分も覚束おぼつかない。吾輩の本俸手当を全部タタキ込んでも建物の家賃と、タッタ一人の事務員の月給と、小使の給料に足りないのだから屁古垂へこたれたよ……実際……。

 ところが一方に吾輩が総督府を飛出して、水産組合を作ったという評判は、忽たちまちの中に全鮮へ伝わったらしいんだね。到る処から「おやじおやじ」の引張り凧だこだ。……行ってみると漁場りょうばの争奪、漁師の喧嘩、発動機船底曳そこひき網の横暴取締り、魚市場の揉め事、税金の陳情なぞ、あらん限りのイザコザを持ち掛けて来る上に、序ついでだからというので子供の名附親から、嫁取り、婿取りの相談、養子の橋渡し、船の命名進水式、金比羅こんぴら様、恵比須えびす様の御勧請ごかんじょうに到るまで、押すな押すなで殺到して来る。その忙せわしい事といったらお話にならない。

 しかし吾輩は嬉しかった。何をいうにも内地から遥々はるばるの海上を吾輩が自身に水先案内パイロテージして、それぞれの漁場に居付かせてやった、吾児わがこ同然の荒くれ漁師どもだ。その可愛さといったら何ともいえない。経費なんかはどうでもなれという気になって、東奔西走しているうちに妙なものだね。到る処の漁村の背後に青々せいせい、渺茫びょうぼうたる水田が拡がって行った。同時に漁獲がメキメキと増加して、総督府の統計に上る鯖さばだけでも、年額七百万円を超過するという勢いだ。その又一方に組合費の納入成績はグングン下落して、何とも云いもしないのに、タッタ一人の事務員が尻に帆をかけるという奇現象を呈する事になったが、それでも吾輩喜んだね。鮮海漁業の充実期して待つべし……更に金鞭きんべんを挙げて沿海州に向うべし……というので大白を挙げて万歳を三唱しているところへ、思いもかけないドエライ騒動が持ち上って来た。ウッカリすると折角せっかく、根を張りかけた鮮海の漁業をドン底までタタキ付けられるかも知れない大暴風おおあらしが北九州の一角から吹き初めたもんだ。

 ……というのはほかでもない。海上の大秘密……爆弾漁業の横行だった。

 ところで又一つ脱線するが、ここいらで所謂いわゆる、漁業界の魔王、爆弾漁業の正体と、その横行の真原因を明らかにしておかないと困るのだ。世間に知られていない……永いこと官憲の手によって暗やみから暗やみに葬られて来た事実だが、実は今夜の話の興味の全部を裏書する重大問題だからね。

 何だ……大いに遣ってくれ。非常に参考になる……ウン遣るよ。徹底的にやるよ。君なんか無論初耳だろうが、実に戦慄すべき国家問題だからね。

 由来海上の仕事には神秘とか、秘密とかいう奴が、滅法矢鱈めっぽうやたらに多いものだが、その中でもこの爆弾漁業という奴は、超特級のスゴモノなんだ。

 何故かというと一般社会ではこの爆弾漁業横行の原因を、利益が大きいから……とか何とかいう単純な、唯物的な理由でもってアッサリ片づけているようだが、永年、漁夫りょうしの中を転がりまわって、半風子しらみを分け合った吾輩の眼から見ると、その奥にモウ一つ深い心理的な理由があるのだ。すなわち一言にして蔽おおうと、この爆弾漁業なるものこそ、吾が日本の国民性に最も適合した漁業法……怪けしからんと云ったって事実なんだから仕方がない。イザ戦争となると直ぐに肉弾をブッ付ける。海では水雷艇の突撃戦に血を湧かしたがる。油断すると爆薬を積んだ飛行機を敵艦にブッ付けようかという、万事、極端まで行かなければ虫が納まらないのを、大和魂やまとだましいの精髄と心得ている日本人だ。……最初は九州の炭坑地方の河川で、慰み半分に工業用ダイナマイトを使って極く内々で遣っていた奴が、こいつは面白いというので玄海洋なだに乗り出すと、見る見る非常な勢いで氾濫し始めた。

 君等は気が付かなかったかも知れんが、明治四十年前後まで、関西の市場に大勢力を占めていた対州鰤たいしゅうぶりという奴が在った。魚市場せりばへ行ってみると、黒い背甲せこうを擦剥すりむいて赤身を露だした奴がズラリと並んで飛ぶように売れて行ったものだが、これは春先から対州たいしゅうの沿岸を洗い初める暖流に乗って来た鰤の大群が、沿岸一面に盛り上る程、押合いヘシ合いしたために出来たコスリ傷だ。いわば対州鰤の一つの特徴になっていたくらい盛んなものだった。

 ところが、それほど盛大を極めていた鰤の周遊が、爆弾漁業の進出以来、五六年の中うちに絶滅してしまった。勿論、対州の官憲が、在住漁民と協力して極力取締を励行したものだが、何をいうにも相手が爆弾を持っている連中だから厄介だ。間誤間誤まごまごすると鰤の代りに、こっちの胴体が飛ばされてしまう。殉職した警官や、藻屑もくずになった漁民りょうみんが何人あるかわからない……といった状態で、アレヨアレヨといううちに、対州鰤をアトカタもなくタタキ付けた連中が、今度は鋒先を転じて南鮮沿海の鯖を逐おいまわし始めた。

彼奴きゃつ等が乗っている船は、どれもこれも申合わせたように一丈かそこらの木こッ葉船ぱぶねだ。一挺の櫓と一枚か二枚の継つぎ矧はぎ帆ほで、自由自在に三十六灘なだを突破しながら、「絶海遥かにめぐる赤間関」と来る。そこで眼ざす鯖の群れが青海原に見えて来ると、一人は艫ともにまわって潮銹しおさびの付いた一挺櫓を押す。一人は手製の爆弾と巻線香を持って舳先へさきに立ち上るのだ。このバッテリーの呼吸がうまく合わないと、生命いのちがけのファインプレイが出来ないのだ。

 手製の爆弾というのは何でもない。炭坑夫が使うダイナマイト……俗にハッパという奴だ。ビンツケみたいにネバネバした奴を二三本握り固めて、麻糸でギリギリギリと巻き立てて手鞠てまりぐらいの大きさになったら、それで出来上りだ。ここまでは誰でも出来るが、そいつを左手に持ちながら立ち上って、波の下に渦巻く魚群を見い見い導火線くちびを切る。この導火線くちびの寸法なるものが又、彼奴きゃつ等の永年の熟練から来ているので、所謂、教化別伝の秘術という奴だろう。魚群の巨大おおきさや深さによって咄嗟とっさの間に見計みはからいを付けるのだからナカナカ難かしい。……その導火線くちびを差込んだ爆薬を右手に持ち換えて……左利きの奴も時々居るそうだが……片手に火を付けた巻線香を持ちながら、両方の切り口を唇に近付ける。背後うしろを振り返って、

「ソロソロ漕げ……ソロソロ……ソロソロ……」

 と呼吸を計はかっているうちに、鯖の群れ工合を見て導火線くちびの切口と、線香の火をクッ付けて……フッ……と吹く。……シュッシュッと……来た奴をモウ一度、見計らって一気に投げる。はるかの水面に落ちて泡を引きながらグングン沈む。水面下に大渦を巻いている鯖の大群の中心に来たと思う頃、ビシイインという震動が船に来て、波の間から電光形の潮飛沫しおしぶきが迸ほとばしる。……ソレッ……というので漕ぎ付けるとサア浮くわ浮くわ。何しろ何十万ともわからない魚群の中心で破裂するんだからタマラない。五六間四方ぐらいは背骨が切れる。臓腑が吹き出す。十四五間四方ぐらいは急激脳震盪のうしんとうを起して引っくり返る。その外側の二十間四方ぐらいの奴は眼をまわして、あとからあとから海面が真白になる程浮き上る。その中を漕ぎまわる。掬すくう。漕ぐ。掬う。瞬くうちに船一パイになったら、残余あとはソレキリ打っちゃらかしだ。勿体もったいないが惜しい事はない。タカダカ三円か五円ソコラの一発だからね。マゴマゴして巡邏船じゅんらせんにでも見付かったら面倒だ。

 それあ危険な事といったら日本一だろう。その導火線を切り損ねて、手足や頭を飛ばした奴が又、何百何千居るか知れないんだが、そんなのは公々然と治療も出来なければ葬式も出せない。十中八九は水葬礼だが、これとても惜しい生命いのちじゃないらしい。

 論より証拠……春鯖から秋鯖の時季にかけて、南朝鮮の津々浦々をまわって見たまえ。到る処に白首しらくびの店が、押すな押すなで軒を並べて、弦歌げんかの声、湧くが如しだ。男も女も、老爺じじいも若造わかぞうも、手拍子を揃えて歌っているんだ。

「百円紙幣さつがア  浮いて来たア

 百円紙幣さつがア  浮いて来たア

 ドオンと一発  掴み取りイ

 浮いたア浮いたア  エッサッサア

 浮いたア浮いたア  エッサッサア

 お前が抱かれて くれるならア

 片手や片足   何のそのオー

 首でも胴でも  スットコトン

明日あすの生命いのちが  スットコトン

 スットコスットコスットコトン

 浮いたア浮いたア  エッサッサア

 百円紙幣さつがア  浮いて来たア……」

 と来るんだ。どうだい……コイツが止やめられるかどうか考えてみたまえ。

 こうして財布の底までハタイてしまうと、明日あすは又「一葉の扁舟へんしゅう、万里の風」だ。「海上の明月、潮うしおと共に生ず」だ。彼等の鴨緑江節おうりょっこうぶしを聞き給え……。

「朝鮮とオ──

 内地ざかいのアノ日本海イ──

 揚げたア──片帆がア──アノよけれエ──ど──もオ──。ヨイショ……

 月は涯はてし──も──ヨッコラ波枕ヨオ──いつか又ア──女郎衆のオ──膝枕ア──」

 と来るんだから遣り切れないだろう。海国男児の真骨頂だね。

 そのうちに又、ドオンと来る。五千、一万の鯖が船一パイに盛り上る。コイツを発動機船の沖買いが一尾ぴき二三銭か四五銭ぐらいの現金ナマで引取って、持って来る処が下関の彦島ひこしまか六連島むつれあたりだ。そこで一尾ぴき七八銭当りで上陸して、汽車に乗って大阪へ着くとドンナに安くても十四五銭以下では泳がない。君等は二十銭以下の大鯖を喰った事があるかい。無いだろう。どの位儲かるかは、この一事を以て推して知るべしだよ。

 ところでサア……こうなると所謂いわゆる、資本家連中が棄てておかない。今でも××の海岸にズラリと軒を並べている〓(「┐」を全角大とした)友かねともとか○金まるきんとかいう網元へ船を漕ぎ付けた漁師が、仕事をさしてくれと頼むかね……そうすると店の番頭か手代みたような奴が、物蔭へ引っぱり込んで、片手で投げるような真似をしながら「遣るか」と訊く。そこで手を振って「飛んでもない……そんな事は……」とか何とか云おうものなら、文句なしに追払いだ。誰一人雇い手が無いというのだから凄いだろう。

 そればかりじゃない。そうした各地の網元の背景には皆それぞれの金権、政権が動いているのだ。その頭株が最初に云ったような連中だが、その配下に到っては数限りもない。みんなこの爆薬の密売買だの爆弾漁業だので産を成した輩てあいばかりだ。しかも彼等が爆弾漁業者……略して「ドン」と云うが、そのドン連中に渡すダイナマイトというのが、一本残らず小石川の砲兵工廠から出たものだ。梅や、桜や、松、鶴、亀の刻印を打ったパリパリなんだから舌を捲くだろう。

 どこから手に入れるかって君、聞くだけ野暮やぼだよ。強あながちに北九州ばかりとは云わない。全国各地の炭山、金山、鉱山の中に、本気で試掘を出願しているのがドレ位あると思う。些すくなくとも半分以上はこの「ドン」欲しさの試掘願いだと云っても過言じゃない。しかもその願書の裏を手繰たぐって行くと又一つ残らず、最初に云った巨頭連中の中の、どれかに引っかかって行く事は、吾輩が首を賭けて保証していいのだ。……同時に彼等巨頭連が、こうした非合法手段で巨万の富を作りつつ、一方に極力、不正漁業を奨励して天与の産業を破壊している事その事が、如何に赤い主義者や、不逞鮮人の兇悪運動を庇護、助長しているか。日本民族の将来の発展に対して、如何に甚しい障害を与えているか……という事実は、吾輩が改めて説明する迄もないだろう。

 ところが今云った巨頭連中は、そんな事なんかテンデ問題にしていないのだ。……勅令……内務省令、糞くそを啖くらえだ。いよいよ団結を固くして、益々大資本を集中しつつ、全国的に鋭敏な爆薬取引網を作って行く。それが現在、ドレ位の大きさと深さを持っているかはあの報告書を引っぱり出す迄もない。吾輩の話だけでもアラカタ見当が付くだろう。

 そこで、こんな風に爆弾漁業が大仕掛になって横行し始めると、何よりも先にタマラないのは、云う迄もなく南鮮沿海五十万の普通漁民だ。

 しかも絶滅して行くのは鯖ばかりじゃない。全然爆薬の音を聞かされた事のない、ほかの魚群までもが、テンキリ一匹も岸に寄付かなくなるんだから事、重大だろう。

 ……ウン……それあ実際、不思議な現象なんだ。専門の漁師に聞いたって、この重大現象の理由はわからない。魚同志が沖で知らせ合うんだろう……ぐらいの説明で片附けている……いわば海洋の神秘作用と云ってもいい怪現象なんだが、コイツを科学的に研究してみると何でもない。頗すこぶる簡単な理由なんだ。

 そもそも鯖とか、鰯いわしとかいう廻游魚類が、沿岸に寄って来る理由はタッタ一つ……その沿岸の水中一面に発生するプランクトンといって、寒冷紗かんれいしゃの目にヤット引っかかる程度の原生虫、幼虫、緑草、珪草、虫藻むしもなぞいう微生物を喰いに来るのが目的なんだ。

 だからその寄って来る魚群を温柔おとなしく網で引いて取ればプランクトンはいつまでもいつまでも居残ってあとからあとから魚群を迎える事になる。発動機船の底曳網でも、かなり徹底的に、沿海の魚獲を引泄ひきさらって行くには行くが、それでもプランクトンだけは確実に残して行くのだ。

 ところが爆漁ドンと来ると正反対だ。あっちでもズドン、こっちでもビシンと爆発して、生き残った魚群の神経に猛烈な印象をタタキ込むばかりでない。そこいらの水とおんなじ位に微弱なプランクトンの一粒一粒を、そのショックの伝わる限りステキに遠い処までも一ペンに死滅させて行くんだからタマラない。……対州が何よりのお手本だ。……餌の無い海に用はないというので、魚群は年々、陸地から遠ざかって行くばかり……朝鮮海峡をサッサと素通りするようになる。年額七百万円の鯖が五百万、二百万と見る見るうちにタタキ下げられて行く。税金が納められないどころの騒ぎじゃない。小網元の倒産が踵くびすを接して陸続りくぞくする。吾輩が植え付けた五十万の漁民が、眼の前でバタバタと飢死して行くのだ。

 ここに於て吾輩は猛然として立上った。実際、臓腑はらわたのドン底から慄ふるえ上ってしまったのだ。……爆弾漁業、殲滅せんめつすべし。鮮海五十万の漁民を救わざるべからず……というので、第一着に総督府の諒解を得て、各道の司法当局に檄げきを飛ばした。続いて東京の各省の諒解の下に、北九州、山陰、山陽の各県水産試験場、南鮮の各重要諸港で、十二節ノット以上の発動機船を準備してもらった奴に、武装警官を乗組ませて、ドン船と見たら容赦なく銃口を向けさせる。これは対州の警察が嘗めさせられた苦い経験から割出した最後手段だ。一方にその頃まだ鎮海ちんかい湾に居た水雷艇隊を動かしてもらって、南鮮沿海を櫛の歯で梳すくように一掃してもらう事になった。……というのは吾輩が、司令官の武重たけしげ中将を膝詰談判で動かした結果だったがね。

 とにかくコンナ調子で、爆弾漁業を本気で掃蕩し始めたのはこの時が最初だったものだから、その騒動といったらなかったよ。南鮮沿海に煮えくり返るような評判だった。

 ところがここに、お恥かしい事には、吾輩、元来、漁師向きに生れ附いただけあって、頭が単純に出来ているんだね。そんな風に吾輩の弁力のあらん限りを動員して、爆弾漁業と青眼に切り結んだところは立派だったが、その当の相手の爆弾漁業者ドンの背景に、どんな大きな力が隠れているか……彼等が何故に砲兵工廠の「花スタンプ」附きの爆薬ハッパを使っているか……なぞいう事を、その頃まで夢にも念頭に置いていなかったんだから何にもならない……。要するに単純な、無鉄砲な漁師どものアバズレ仕事とばかり思い込んでいたものだから、一気に片付けるつもりで追いまわしてみると、どうしてどうして。水雷艇や巡邏船が百艘や二百艘かかったってビクともしない相手である事が、一二年経つうちに、だんだんと判明わかって来たもんだ。

 第一に驚かされたのは彼奴きゃつ等の船の数だった。石川や浜の真砂まさごどころではない。慶南、慶北沿海の警察の留置場が、満員するほど引っ捕えても、どこをドウしたかわからないくらい夥しい船が、抜けつ潜りつ荒しまわる。朝鮮名物の蠅と同様、南鮮沿海に鉄条網でも張り廻わさなければ防ぎ切れそうに見えないのだ。

 それから第二に手を焼いたのは、その密漁手段の巧妙なことだ。「ドーン」という音を聞き付けた見張りの水雷艇が、テッキリあの舟だというので乗付けて見ると、果せるかなビチビチした鯖を満載している。そこで「この鯖をドウして獲とったか」と詰問すると澄ましたものだ。古ぼけた一本釣の道具を出して「ちょうど大群むれに行き当りましたので……」という。「しかしタッタ今聞えたのは確かに爆薬ダイナマイトの音だ。ほかに船が居ないから貴様達に違いあるまい」と睨み付けると頭を掻かいてセセラ笑いながら「そんなら舟を陸に着けますから一つ調べておくんなさい」と来る。そこで云う通りにしてみると成る程、巻線香のカケラも見当らないから……ナアーンダイ……というので釈放する。

 実に張合いのない話だが、しかし考えてみると無理もないだろう。水兵や警官は漁師じゃないんだからね。爆弾船ドンぶねの連中が持っている一本釣の道具が、本物かそれとも胡麻化ごまかし用の役に立たないものかといったような鑑別が一眼で出来よう筈がない。とりあえず糸テグスを引切ひっきってみればタッタ今まで使ったものかどうかは吾々の眼に一目瞭然なんだが……爆弾船ドンぶねに無くてはならぬ巻線香だって、イザという時に海に投げ込めばアトカタもない。もっとも生命いのちから二番目のダイナマイトはなかなか手離さないが、その隠匿かくしどころが亦、実に、驚ろくべく巧妙なものなんだ。帆柱を立てる腕木を刳くり抜いたり、船の底から丈夫な糸で吊したり、沢庵漬たくあんづけの肉を抉えぐって詰め込んだり、飯櫃めしびつの底を二重にしていたりする。そのほか、狭い舟の中でアラユル巧妙な細工をしている上に、万一あぶないとなれば鼻の先で手を洗う振りをしながらソッと水の中に落し込む。その大胆巧妙さといったら実に舌を捲くばかりで、天勝てんかつの手品以上の手練を持っているんだからトテモ生なまやさしい事で捕まるものでない。何しろ彼奴きゃつ等は対州鰤たいしゅうぶり時代に手厳しい体験を潜って来ているのだからね。……そこで吾輩はモウ一度、引返して、各道の判検事や警察官に、爆弾船ドンぶねの検挙、裁判方法を講演してまわるという狼狽のし方だ。泥棒を見て縄を綯なうのじゃない。追っかけながら藁わらを打つんだから、およそ醜態といってもコレ位の醜態はなかったね。

 ところがここで又一つ……一番最後に驚ろかされたのは、吾輩のそうした講演を聞きに来ている警察官や、判検事連中の態度だ。先生方がお役目半分に、渋々しぶしぶ聞きに来ている態度はまあいいとして、その大部分が本当に気乗りがしていないばかりじゃない。何となく吾輩の演説を冷笑的な気分で聞いている事が、最初から吾輩の頭にピインと来たもんだ。これは演壇に慣れた人間に特有の直感だがね……のみならず中には反抗的な態度や、嘲笑的な語気でもって質問を浴びせて来る奴が居る。しかもその質問というのが十人が十人紋切型もんきりがただ。

「一体、爆弾漁業というものは違法なものでしょうか。……巾着網きんちゃくあみよりも底曳そこひき網の方が有利だ……底曳網よりも爆弾漁業の方が多量の収穫を挙げる……というだけの話で、要するに比較的収益が多いというだけのものじゃないですか。……だからこれを犯罪とせずに正当の漁業として認可したら却かえって国益になりはしまいか。これを禁止するのは炭坑夫にダイナマイトを使うな……というのと、おなじ意味になるのじゃないですか」

 と云うのだ。……どうも法律屋の議論というものは吾輩に苦手なんでね。吾々みたいな粗笨あらっぽい頭では、どこに虚構おちが在るか見当が附かないんだ。そこで止むを得ず受太刀うけだちにまわって、南鮮沿海の漁民五十万の死活に関する所以ゆえんを懇々と説明すると、

「それならばその普通漁民も、ほかの方法で鯖を獲とる方針にしたらいいでしょう。朝鮮沿海に魚が居なくなったら、露領へでも南洋にでも進出したらいいじゃないですか」

 と漁業通を通り越したような無茶を云い出す。ドウセ無責任と無智をサラケ出した逃げ口上だがね。そこで吾輩が躍起やっきとなって、

「それでも銃砲火薬類の取締上、由ゆ々ゆしき問題ではないか」

 と逆襲すると、

「それは内地の司法当局の仕事で吾々に責任はありません」

 と逃げる。実に腸はらわたが煮えくり返るようだが、何を云うにもソウいう相手にお願いしなければ取締りが出来ないのだから止むを得ない。情なく情なく頭を下げて、

「とにかくソンナ事情わけですから、折角定着しかけた五十万の南鮮漁民を助けると思って、何分の御声援を……」

 と頼み入ると、彼等は冷然たるもので、

「それはまあ、総督府の命令なら遣って見ましょうが、何しろ吾々は陸上の仕事だけでも手が足りないのですからね」

 といったような棄科白すてぜりふでサッサと引上げてしまう。怪しからんといったってコレ位、怪しからん話はない。無念……残念……と思いながら彼奴きゃつ等の退場する背後うしろ姿を、壇上から睨み付けた事が何度あったかわからないが、思えばこの時の吾輩こそ、大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったのだね。

 こんな事実が度重たびかさなるうちに……吾輩ヤット気が付いたもんだ。君だってここまで聞いて来れば大抵、感付いているだろう。……ウンウン。その通りなんだ。明言したって構わない。爆弾密売買の元締連中の手が朝鮮の司法関係にまで行きまわっているんだ。何しろその当時の朝鮮の官吏と来たら、総督府の官制が発布されたばかりの殖民地気分のホヤホヤ時代だからね。月給の高価たかいのを目標に集まって来たような連中ばかりだから、内地の官吏よりもズット素質が落ちていたのは止むを得ないだろう。……それと気が付いた吾輩は、それこそ地団太じだんだを踏んで口惜しがったものだ。地団太の踏み方がチットばかり遅かったが仕方がない。

 そこでボンヤリながらもそうと気が付くと同時に吾輩は、ピッタリと講演を止めてしまって、爆弾漁業の本拠探さぐりに没頭したもんだ。先まず手頃の人間で吾輩のスパイになってくれる者は居ないか……と頻しきりに近まわりの人間を物色してみたが、それにしてもウッカリした奴にこの大事は明かせない。何しろ五十万人の死活問題を背負って立つだけの器量と、覚悟を持った奴でなければならない上に、ドンの背景となっている連中が又、ドレ位の大物なのか見当が付かないのだから、とりあえず佐倉宗五郎以上の鉄石心てっせきしんが必要だ。もちろん組合の費用は全部、費消つかっても構わない覚悟はきめていた訳だがそれでも多寡たかは知れている。それを承知で活躍する人間といったら、当然、吾輩以上の道楽気けが無くちゃならんだろう……ハテ……そんな素晴らしい変り者が、この世界に居るか知らんと、眼を皿のようにして見廻わしているところへ、天なる哉かな、命なる哉。思いもかけない風来坊が吾輩の懐中ふところへ転がり込んで来る段取りになった。

 ……ところでドウダイもう一パイ……相手をしてくれんと吾輩が飲めん。飲まんと舌が縺もつれるというアル中患者だから止むを得んだろう……取調べの一手ひとてにソンナのが在りやせんか……アッハッハッ……。

 ナニ。この三杯酢かい。こいつは大丈夫だよ。林りん青年の手料理だが、新鮮無類の「北枕」……一名ナメラという一番スゴイ鰒ふぐの赤肝あかぎもだ。御覧の通り雁皮がんぴみたいに薄切りした奴を、二時間以上も谷川の水でサラシた斯界極上しかいごくじょうの珍味なんだ。コイツを味わわなければ共に鰒を語るに足らずという……どうだい……ステキだろう。ハハハ……酒の味が違って来るだろう。

 いよいよこれから吾輩が、林はやしの親仁おやじを使って爆弾漁業退治に取りかかる一幕だ。サア返杯……。

 ナニ。林はやしのおやじ……? ウン。あの若い朝鮮人……林りんの親父おやじだよ。まだ話さなかったっけな……アハハハ。少々酔ったと見えて話が先走ったわい。

 何を隠そうあの林りんという青年は朝鮮人じゃないんだ。林友吉はやしともきちという爆弾漁業者ドンの一人息子で、友太郎という立派な日本人だ。彼奴あいつの一身上の事を話すと、優に一篇の哀史が出来上るんだが、要するに彼奴あいつのおやじの林友吉というのは筑後柳河やながわの漁師だった。ところが若いうちに、自分の嬶かかあと、その間男まおとこをした界隈切っての無頼漢ゴロツキを叩き斬って、八ツになる友太郎を一人引っ抱えたまま、着のみ着のままで故郷を飛出して爆弾漁業者ドンの群に飛び込んだという熱血漢だ。

 ところがこの友吉という親仁おやじが、持って生れた利かぬ気の上に、一種の鋭い直感力を持っていたらしいんだね。いつの間にか爆薬密売買ドンヤの手筋を呑み込んでしまって、独力で格安な品物を仕入れては仲間に売る。彼等仲間で云う「抜け玉」とか「コボレ」とかいう奴だ。そうかと思うと沖買いの呼吸コツを握り込んで「売るなら買おう」「買うなら売るぞ」「捕るなら腕で来い」といったスゴイ調子で南鮮沿海を荒しまわる事五年間……忰せがれの友太郎も十歳とおの年から櫓柄ろづかに掴まって玄海の荒浪を押し切った。……親父おやじと一所に料理屋へも上った……というんだから相当のシロモノだろう。

 然るにコイツが、ほかの爆弾ドン連中の気に入らなかった……というよりも、彼等の背後から統制している巨頭連の眼障めざわりになって来た……と云った方が適切だろう。

 忘れもしない明治四十五年の九月の五日だった。吾輩がこの絶影島まきのしまの裏手の方へ、タッタ一人で一本釣に出た帰り途みちにフト見ると、遥かの海岸の浪に包まれた岩の上に、打ち上げられたような人間一人横たわっている。その上に十二三ぐらいの子供が取り縋すがって泣いている様子だから、可怪おかしいと思い思い、危険を冒おかして近寄ってみると、倒れているのは瘠せコケた中年男だが、全身紫色になった血まみれ姿だ。そこでいよいよ驚きながら、何はともあれ子供と一所いっしょに舟へ収容して、シクシク泣いている奴に様子を聞いてみると、こんな話だ。

「……ウチの父さんが昨日きのう、この向うでドンをやっていたら、どこからか望遠鏡で覗いていた水雷艇に捕まって、釜山の警察に引っぱって行かれた。……その時にウチはメチャクチャに泣き出して、父とっさんの頸にカジリ付いて、イクラ叱られても離れなかった。……そうしたら警察の奥の方から出て来た紋付袴もんつきはかまの立派な人が、ウチ達をジロジロ見て、警部さんに許してやれと云うたので、タッタ一晩、警察に寝かされただけで、きょうの正午ひる過ぎに釈放はなされた上に、舟まで返してもろうた。父とっさんは大層喜んで、お前の手柄だと云って賞めてくれた。

 ……そうしたら又……釜山の南浜から船に乗って、絶影島まきのしまを廻ると間もなく、荒くれ男を大勢載せた、正体のわからない発動機船ポンポンが一艘、どこからか出て来て、父とっさんを捉まえて踏んだり蹴ったりしたから、ウチもその中の一人の向う脛に噛み付いてやったら、一気に海へ蹴込けこまれてしもうた。……ウチの父とっさんは、平生いつもから小型ちいさな、鱶捕ふかどりの短導火線弾ハヤクチを四ツ五ツと、舶来の器械燐寸まっちを準備よういしていた。これさえ在れば発動機船ポンポンの一艘二艘、物は言わせんと云うとったのに、釜山の警察で取上げられてしもうたお蔭で負けてしもうた。それが残念で残念で仕様がない。

 ……そのうちに発動機船ポンポンは、父とっさんの身体からだを海に投込んでウチ達の舟を曳いたまま、どこかへ行ってしもうた。その時に波の間を泳いでいたウチは直ぐに父とっさんの身体からだに取り付いて、頭を抱えながら仰向き泳ぎをして、一生懸命であの岩の上まで来たけれど、向うが絶壁きりぎしで登りようがない。そのうちに汐しおがさして来て、岩の上が狭くなったから、どこかへ泳いで行くつもりで、父とっさんの耳に口を当て、「待っておいで……讐敵かたきを取ってやるから」と云うていた。そうしたら先生が来て助けてくれた。……ウチは今年十二になる。ドンは怖くない。面白い……」

 というのだ。ウン。とてもシッカリした奴なんだ。第一そういう面魂つらだましいが尋常じゃなかったよ。お乳母日傘んばひがさでハトポッポーなんていった奴とは育ちが違うんだからね……。

 ……ウンウン。そうなんだ。つまり彼等仲間の所謂「私刑ノメシ」に処せられた訳だ。その紋付袴の男が誰だったか、今だに調べてもいないが、むろん調べる迄もない。林友吉の頭脳あたまと仕事ぶりを警戒していた、釜山の有力者の一人に相違ないのだ。そいつが友吉親子の顔を見知っていたので、それとなく貰い下げて追い放した奴を、外海そとうみで待伏せていた配下の奴が殺やったものに違いないね。……もっとも友吉おやじがその筋の手にかかったのはこの時が皮切りだったから、或あるいは余計な事でも饒舌しゃべられては困る……という算段つもりだったかも知れないがね……。

 とにかく、そんな訳で舟を漕ぎ漕ぎ友太郎の話を聞いて行くうちにアラカタの事情ようすがわかると吾輩大いに考えたよ。……待て待て……この子供を育て上げて、この復讐心を利用しながら爆薬漁業の裏道を探らせたら、存外面白い成績が上がるかも知れん。かなり気の永い話だが五年や十年で絶滅する不正爆薬ではあるまいし、急がば廻われという事もある。それにはこの死骸を極ごく秘密裡に片付けて、忰を日蔭物ひかげものにしないようにしなければならぬ。普通の墓地に葬って墓を建ててやらねばならぬが、何とか名案は無いものか……と色々考えまわしているうちに釜山港に這入った。そこで夕暗ゆうやみに紛れて本町一丁目の魚市場の蔭に舟を寄せると、吾輩の麦稈帽むぎわらぼうを眉深まぶかに冠せた友吉の屍体を、西洋手拭で頬冠りした吾輩の背中に帯で括くくり付けた。片手に友太郎の手を索ひいて、程近い渡船場際ぎわの医者の家へ辿り付いたものだが、その苦心といったらなかったよ。夕方になると市が立って、朝鮮人がゾロゾロ出て来る処だからね。

 ところで又、その医者というのが吾輩の親友で、鶴髪かくはつ、童顔、白髯はくぜんという立派な風采の先生だったが、トテモ仕様のない泥酔漢のんだくれの貧乏老爺おやじなんだ。そいつが吾輩と同様独身者ひとりものの晩酌で、羽化登仙うかとうせんしかけているところへ、友吉の屍体を担かつぎ込んで、何でもいいから黙って死亡診断書を書いてくれと云うと、鶴髪童顔先生フラフラの大ニコニコで念入りに診察していたが、そのうちに大声で笑い出したものだ。

「……アッハッハッハッ。折角持って来なすったが、これは死亡診断を書く訳にいかんわい。まだ脈が在るようじゃ。アッハッハッハッハッ……」

 という御託宣だ。……馬鹿馬鹿しい。何を吐ぬかす……とは思ったが、忰が飛び上って喜ぶし、呑兵衛のんべえドクトルも、

「……拙者が請合って預かろう。行くか行かんか注射をしてみたい……」

 と云うから、どうでもなれと思って勝手にさしておいたら……ドウダイ。二日目の朝になったら眼を開いて口を利くようになった。

 傷口も処々乾いて来た。熱も最早もう引き加減……という報告じゃないか。呑兵衛先生、案外の名医だったんだね。おまけに忰の友太郎が又、古今無双の親孝行者で、二晩の間ツラリともしない介抱ぶりには、流石さすがのワシも泣かされた……という老医師ドクトルの涙語りだ。

 そこで吾輩もヤット安心して、組合の仕事に没頭しているうちに、忘れるともなく忘れていると、二三週間経つうちに、それまでチョイチョイ吾輩の処へ飲みに来ていた老医師ドクトルがパッタリと来なくなった。……ハテ。可笑おかしい……もしや患者の容態が変ったのじゃないか知らん。それとも呑兵衛先生御自身が、中気ちゅうきにでもかかったのじゃないか知らん……考えているうちに、急に心配になって来たから、チットばかりの金かねを懐中ふところに入れて、医院せんせいの門口かどぐちから覗き込んでみると、開いた口が三十分ばかり塞がらなかった。

鬚ひげだらけの脱獄囚みたいな友吉おやじと、鶴髪童顔、長髯の神仙じみた老ドクトルが、グラグラ煮立にえたった味噌汁と虎鰒とらふぐの鉢を真中に、片肌脱ぎか何かの差向いで、熱燗あつかんのコップを交換しているじゃないか。おまけに酌をしている忰の友太郎を捕まえて、

「……野郎。この事を轟の親方に告口つげぐちしやがったらタラバ蟹がにの中へタタキ込むぞ」

 と怒鳴っているのには腰を抜かしたよ。医者が医者なら病人も病人だ。世の中にはドンナ豪傑がいるか知れたものじゃない。……むろん吾輩の方から低頭平身して仲間に入れてもらったが、その席上で友吉おやじは吾輩の前に両手を突いて涙を流した。

「……もうもうドン商売は思い切りました。これを御縁に貴方の乾児こぶんにして、小使でも何でもいい一生を飼殺しにして下さい。忰を一人前の人間に仕立てて下さい。給金なんぞは思いも寄らぬ。生命いのちでも何でも差出します」

 という誠意満面の頼みだ。

 吾輩が、そこで大呑込みに呑込んだのは云うまでもない。

 そこで今まで使っていた鮮人に暇を出して、鬚だらけの友吉おやじを追い使う事になったが、そのうちに機会を見て、吾輩の胸中を打明けてみると、友吉おやじ驚くかと思いの外ほか平気の平左でアザ笑ったものだ。

「……へへへ……そのお話なら私がスパイになるまでも御座いません。とりあえず私が存じておりますだけ饒舌しゃべってみましょう。それで足りなければ探っても見ましょうが……」

 と云うのでベラベラ遣り出したのを聞いている中うちに吾輩ふるえ上ってしまったよ。この貧乏な瘠せおやじが、天下無双の爆薬密売買とドン漁業通の上に、所謂、千里眼、順風耳じゅんぷうじの所有者だという事をこの時がこの時まで知らなかったんだからね。

 とりあえず匕首あいくちを咽喉のど元に突付けられたような気がしたのは、対州から朝鮮に亘るドン漁業の十数年来の根拠地が、吾輩の足元の釜山絶影島まきのしまだという事実だった。

「……それが虚構うそだと云わっしゃるなら、この窓の処へ来て見さっせえ。あの向うに見える絶影島のズット右手に立派な西洋館が建っておりましょう。あの御屋敷は、先生の御親友で釜山一番の乾物問屋の親方さんのお屋敷と思いますが、あの西洋館の地下室に詰まっている乾物の中味をお調べになった事がありますかね」

 と来たもんだ。

 燈台下もと暗しにも何にも、吾輩はその親友と前の晩に千芳閣で痛飲したばかりのところだったから、言句ことばも出ずに赤面させられてしまった。

「……お気に障さわったら御免なさいですが、林友吉は決してお座なりは申しまっせん。日本内地から爆薬ハッパを、一番安く踏み倒おして買うのが、あのお屋敷なんです。アラカタ一本七十五銭平均ぐらいにしか当りますまい。お顔と財産が利いている上に現金払いですから、安全な事はこの上なしですがね。

 ……爆弾ハッパの出先は何といっても九州の炭坑やまが第一です。一本十銭か十五銭ぐらいで坑夫に売るのですが、その本数を事務所で誤間化ごまかして一本三十銭から五十銭で売り出す……ズット以前の取引ですと手頃の柳行李やなぎこうりに一パイ詰めた奴を、どこかの横路次で、顔のわからない夕方に出会った鳥打帽子のインバネス同志が右から左に、無言だんまりで現金げんナマと引き換える……だから揚げられても相手の顔は判然わからん判然らんで突張り通したものですが、今ではソンナ苦労はしません。電車や汽車の中で大ビラに鞄かばんを交換するのです。……売る奴は大抵炭坑関係かその地方の人間で、買う奴は専門の仲買いか、各地の網元の手先です。そんな連中の鞄の持ち方は、仲間に這入っていると直ぐにわかりますからね。以心伝心で、傍に寄って来て鞄を並べておいてから、平気な顔で煙草の火を借りる。一所いっしょに食堂に行って話をきめる。途中の廊下で金を渡して、駅に着いてから相手の鞄を片手に……左様さようなら……と来るのが紋切型もんきりがたです。三等車で遣ってもおなじ事ですが、決して間違いはありません。一度でもインチキを遣った奴は、永い日の目を見た例ためしがありませんからね。

 ……そんな仲買連中は若松や福岡にもポツリポツリ居るには居ります。しかしそんな爆薬のホントウに集まる根城というのが、四国の土佐海岸だという事は、いかな轟とどろき先生でも御存じなかったでしょう。今の貴族院の議員になって御座る赤沢という華族様の生れ故郷と申上げたら、おわかりになりましょうが、昔から爆弾ドン村と云われた処で、今の赤沢様が、その総元締をして御座るのです。その又、総元締の配下になって御座る大元締というのが、やはり日本でも指折りの豪えらい人達ばっかりですが、その人達の手から爆弾ドン村へ集まって来た爆薬が、チッポケな帆舟ほまえに乗って宇和島をまわって、周防灘から関門海峡をノホホンで通り抜けます。昨日きのうの朝の西南風にしばえなら一先ず六連沖むつれおきへ出て、日本海にマギリ込みましょう。それから今朝けさの北東風きたこちに片尻をかけて、ちょうど今時分、釜山沖へかかる順序ですが……ホーラ御覧なさい。あの馬山ばさん通いの背後うしろから一艘、二艘……そのアトから追付いて来る足の速いのも……アノ三艘の片帆の中で、どれでもええから捕まえて、船頭と話して御覧なさい。四国訛なまりじゃったら舟の中に、一梱こりや二梱こりの爆薬ハッパは請合います。松魚かつおの荷に作ってあるかも知れませんが、あの乾物屋さんに宛てた送り状なら税関でも大ビラでしょう。荷物を跟つけてみたら一ぺんにわかる事です。

 ……そのほかに爆薬ハッパの出る処は、大連たいれんと上海シャンハイですが、上海のは大きい代りに滅多に出ません。おまけに英国か仏蘭西製フランスできの上等品で、高価たかい上に使い勝手が違うのが疵きずです。大連のはやはり日本の桜印か松印ですが、これは大連から逆戻りして来る分量よりも、奥地へ這入る分量の方がヨッポド大きい。……どこへ落ち付くのか用が無いから探っても見ませんが、大連、営口えいこうから、満洲の奥地へ這入る爆薬ハッパは大変なものです。その中の一箱か二箱がタマに抜け出して朝鮮へ来るので、ドウカすると内地のものより安い事があります。これは支那の兵隊か役人が盗んで来たものだそうですが、それだけに油断も出来ません。非道ひどい奴になると玉蜀黍とうもろこしの喰い殻に油を浸したした奴を、柳行李一パイ百円ぐらいで掴まされた事があるそうです。

 ……ところでイヨイヨ朝鮮内地に来ますと、ソンナ爆薬ハッパの集まる処が、この釜山の外に二三箇所あります。

 ……慶北の九龍浦きゅうりゅうほは何といっても釜山の次でしょう。もっとも釜山に来た爆薬ハッパは、あのお屋敷の地下室に這入るだけですが、九龍浦の方はチット乱暴で、人里離れた海岸の砂の中に埋めて在るのです。私が今度、こんな目に会いましたのも、多分、この案内を嗅ぎ付けた事を知って、釜山の方へ手ズキをまわしたのでしょう。

 ……それから九龍浦の次は浦項ほこうと江口こうこうで、ここは将来有力な爆薬ハッパの根拠地たまりになる見込みがあります。この三個所は釜山と違って、巡査か警部補ぐらいが駐在している処ですから、丸め込むにしても大した手数はかからんでしょう。裁判所の連中でも、みんな美味うまい事をしておりますので、その地方地方での一番の有力者が皆、爆薬ドンの元締になっているのですから世話が焼けません。……そのほか四五月頃の巨文島きょぶんとう、五、六、七月頃の巨済島きょさいとう入佐村いりさむら、九、十、十一月の釜山、方魚津ほうぎょしん、甘浦かんぽ、九龍浦、浦項、元山げんざん方面へ行って御覧なさい。先生のように爆薬漁業ドンを不正漁業なんて云っている役人は一人も居りませんよ。ドン大明神様々というので、駐在巡査でも一身代ひとしんだい作っている者が居る位です。尋常に巾着きんちゃく網や、長瀬ながせ網を引いている奴は、馬鹿みたようなもんで……ヘエ……。

 ……そのほかに爆薬の出て来る処は無いか……と仰言おっしゃるのですか。ヘエ。それあ在るという噂は確かに聞いておりますが、本当か虚構うそかは私も保証出来ません。つまりそこ、ここの火薬庫の主任が、一生一代の大きなサバを読んで渡すことがあるそうで、古い話ですが大阪や、目黒の火薬庫の爆発はその帳尻を誤魔化ごまかすために遣ったものだとも云います。そのほか大勢で火薬庫を襲撃した事件も在ると申しますがドンナものでしょうか。新聞には出ていたそうですが……。

 ……そんな大物の捌はけ口が、ドン方面ばっかりで無い事は保証出来ます。露西亜ロシアや、支那に売込んで行く様子も、この眼で見たんですからいつでも現場に御案内致しますが、しかし値段のところはちょっと見当が付きかねます。何でも長城ちょうじょうから哈爾賓ハルピンを越えると爆薬ハッパの値段が二倍になる。露西亜境の黒龍江こくりゅうこうを渡ると四倍になるんだそうですが、これは拳銃ピストルでも何でも、禁制品やかましいものはミンナ同じ事でしょう。売国行為だか何だか存じませんが、儲かる事は請合いで……エヘヘヘヘヘヘ……」

 黙って聞いていた吾輩は、この笑い声を聞くと同時に横ッ腹からゾーッとして来たよ。話の内容がアンマリ凄いのと、思い切りヒネクレた友吉親仁おやじの、平気な話ぶりに打たれたんだね。吾輩はその時にドッカリと椅子にヘタバリ込んだ。腕を組んで瞑目沈思したもんだ。気を落付けようとしたが武者振いが出て仕様がなかったもんだ。

 しかしその中うちに机テーブルを一つドカンと敲たたいて決心を据えると吾輩は、友吉親子を連れてコッソリと××を脱け出した。何よりも先に対岸の福岡県に馳け付けて旧友の佐々木知事を説伏ときふせて、出来たばっかりの警備船、袖港丸しゅうこうまるを試運転の名目で借り出した。速力十六節ノットという優秀な密漁船の追跡用だったが、まだ乗組員も何も定きまっていなかった。こいつに油と食糧を積込んで、友吉親子に操縦法を仕込みながら西は大連、営口から南は巨済島、巨文島、北は元山、清津せいしん、豆満江とまんこうから、露領沿海州に到るまで要所要所を視察してまわること半年余り……いかな太っ腹の佐々木知事も内心大いに心配していたというが、それはその筈だ。電報一本、葉書一枚行く先から出さないのだからね。大いに謝罪あやまってガチャガチャになった船を返すと、その足で釜山に引返して、友吉親子もろ共に山内閣下にお目にかかった。むろん官邸の一室で、十時過すぎに勝手口から案内されたもんだが、思いもかけない藁塚わらづか産業課長が同席して、吾輩と友吉おやじの視察談を、夜通しがかりに聞き取ってくれたのには感謝したよ。友吉親子一代の光栄だね。

 その結果、藁塚産業課長が急遽きゅうきょ上京して、内務省、司法省、農商務省、陸海軍省と重要な打合わせをする。その結果、朝鮮各道の警察、裁判所に厳重な達示が廻わって、銃砲火薬類取締の粛正、不正漁業徹底殲滅せんめつの指令が下る。しかも総督府から指導のために出張した検事正や、警視連の指ゆびさす処が一々不思議なほど図星ずぼしに中あたる。各地の有力者が続々と検挙される。その留守宅の床下や地下室、所有漁場の海岸の砂ッ原、岩穴の奥、又は妾宅の天井裏や泉水の底なぞから、続々証拠物件が引上げられるという、実に疾風迅雷式の手配りだ。ここいらが山内式のスゴ味だったかも知れないがね。

 それあ嬉しかったとも……吹けば飛ぶような吾々の報告が物をいい過ぎる位、いったんだからね。

 しかしソンナ事はオクビにも出せない。むろん総督府の方でも御同様だったに違いないが、その代りに今後、爆薬漁業の取締に就ついて、万事、漁業組合長、轟技師の指導を受くべし……といったような命令が、各道の官庁にまわったらしい。吾輩の講演を依頼する向きがソレ以来、激増して来たのには面喰った。一時は、お座敷がブツカリ合って遣り繰りが付かないほどの盛況を逞たくましゅうしたもんだ。流石さすがのドン様ドン様連中も、最早もはやイケナイと覚悟したらしいんだね。実に現金な、浅墓あさはかな話だとは思ったが、しかし悪い気持ちはしなかったよ。とにもかくにもソンナ調子で南鮮沿海からドンの声が消え失せてしまった。それに連れて沿岸から遠ざかっていた鯖の廻遊が、ダンダンと海岸線へ接近し初めたので、漁師連中は喜ぶまいことか……轟様轟様……というので後光がさすような持て方だ。

 吾輩の得意、想うべしだね。「ソレ見ろ」というので友吉おやじと赤い舌を出し合ったが、これというのも要するに、あの呑兵衛老医師ドクトルのお蔭だというので、三人が寄ると触ると、大白たいはくを挙げて万歳を三唱したものだ。

 ハッハッ……その通りその通り。どうも吾輩の癖でね。じきに大白を挙げたくなるから困るんだ。汝なんじ元来一本槍に生れ付いているんだから仕方がない。スッカリ良い気持になって到る処にメートルを上げていたのが不可いけなかった。思いもかけぬ間違いから自分の首をフッ飛ばすような大惨劇にぶつかる事になった。ドン漁業に対する吾輩の認識不足が、骨髄に徹して立証される事になったのだ。

 ……どうしてって君、わからんかね……と……云いたいところだが、そういう吾輩も実をいうと気が付かなかった。朝鮮沿海からドンの音が一掃されたので、最早もはや大願成就……金比羅こんぴら様に願ほどきをしてもよかろう……と思ったのが豈計あにはからんやの油断大敵だった。ドンの音は絶えても、内地の爆弾取締りは依然たる穴だらけだろう。ちっとも取締った形跡が無いのだ。藁塚産業課長の膝詰ひざづめ談判が、今度は「内地モンロー主義」にぶつかっていた事実を、ドンドコドンまで気付かずにいたのだ。

 その証拠というのは外でもない。山内さんが内地へ引上げて内閣を組織されるようになった大正五年以後、折角せっかく、引締まっていた各道の役人の箍たががグングン弛ゆるんで来たものらしい。それから間もなく大正八年の春先になると、一旦、終熄しゅうそくしていた爆弾ドン漁業がモリモリと擡頭して来た。……一度逐おい捲くられた鯖の群れが、岸に寄って来るに連れて、内地から一直線に満洲や咸鏡北道かんきょうほくどうへ抜けていた爆薬が、モウ一度南鮮沿海でドカンドカンと物をいい出すのは当然の帰結だからね。おまけに今度は全体の遣口やりくちが、以前よりもズット合理的になって来たらしく、友吉親仁おやじの千里眼、順風耳じゅんぷうじを以てしてもナカナカ見当が付けにくい。……これは後から判明した話だが、彼奴きゃつ等は一時南鮮の孤島、欲知ほっち島の燈台守を買収してここを爆弾の溜りにしていた事がある。しかも燈台の上から高度の望遠鏡で、水雷艇や巡邏船を監視して、色々な信号を発していた……というのだから、如何にその仕事が統制的で、大仕掛であったかが想像されるだろう。

 然るに、ソンナ程度にまでドン漁業が深刻化しつつ擡頭して来ている事を、夢にも知らなかった吾輩はアタマから呑んでかかったものだ。……懲こり性しょうもない鼠賊チョコマンども……俺が居るのを知らないか。来るなら来い。タッタ一ヒネリだぞ……というので、腕に縒よりを掛けて釜山一帯の当局連中を鞭撻にかかったものだが、その手初めとして取りあえず慶尚南道けいしょうなんどうの有志、役人、司法当局四十余名を釜山公会堂に召集して、爆弾漁業勦滅そうめつの大講演会を開く事になった。これに各地方の有力者二十余名、臨時傍聴者三百余名を加えた有力この上もない聴衆を向うに廻わして吾輩が、連続二日間の爆弾演説をこころみる……というのだから、吾輩の意気、応まさに衝天しょうてんの概がいがあったね。

 大正八年……昨年の十月十四日……そうだ。山内さんが死なれる前の月の出来事だ。その第一日じつの午前十時から「爆弾漁業の弊害」という題下に、堂々三時間に亘った概論を終ると、満場、割るるが如き大喝采だ。そのアトから各地の有力者の中うちでも代表的な五六名が、吾輩の休憩室に押掛けて来て頗すこぶる非常附きの持上げ方だ。

「……イヤ感佩かんぱい致しました。聴衆の感動は非常なものです。先生の御熱誠の力でしょう。三時間もの大演説がホンノちょっとの間まにしか感じられませんでした。当局連中もスッカリ感激してしまって、今更のように切歯扼腕せっしやくわんしているような次第で……私共も一度はドンで年貢を納めさせられた前科者ナッポンサラミンばかりですが、今日の御演説を承りまして初めて眼が醒めました。何でもカンでも轟先生が朝鮮に御座る間は悪い事は出来んなア……とタッタ今も話しながらこっちへ参りましたような事で……アハハハ……イヤ、恐れ入ります。……ところでここに一つ無理な御相談がありますが御承諾願えますまいか。……というのは、ほかでもありません。本日集まっている当局連中の中には、先生の御講演を一度以上拝聴している者が多いのです。……ですから取締方法なぞを詳しく承わっているにはいるのですが、しかし遺憾ながら爆弾漁業なるものの遣り方を実際に見た者が生憎あいにく、一人も居ないのです。そのために先生の御高説を拝聴しましても、何となく机上の空論といったような感じに陥り易い。……何とかしてその遣り方を実地に見せて頂きながら、御講演を承る事が出来たら……ちょうど先生が海の上で、水産学校の卒業生を捉つかまえて御指導になるような塩梅あんばい式にですね……お願い出来たら、それこそ本格にピッタリと来るだろう。将来どれ位、実地の参考になるか知れん……という註文を受けましたものですから、まことに道理もっとも千万と思いまして、実は御相談に伺った次第ですが……如何いかがでしょうか。ちょうど申分のない凪なぎ続きですし、明日あすの上天気も万に一つ外れませんし……乗船は御承知の博多通いで甲板デッキの広い慶北丸が、船渠ドックを出たばかりで遊んでおりますから、万一御許しが願えましたら、私共が引受けて万般の準備を整えたい考えでおります。……それから実演をする人間ですが、これは只今、釜山署に四人ばかり現行犯がブチ込んで在りますから、あの連中に遣れと云ったら、遣らんとは申しますまい……その方が聴き手の方でも身が入りはしますまいか」

 という辞令の妙をつくした懇談だ。

 ところで吾輩もこの相談にはチョッコン面喰めんくらったね。コンナ計劃が違法か、違法でないかは、希望者が司法官連中と来ているんだから、先ず先ず別問題としても、そうした思い附きの奇抜さ加減には取敢とりあえず度肝どぎもを抜かれたよ。殺人犯を捕える参考のために、人殺しの実演を遣らせるようなもんだからね。……しかし何をいうにもこの談判委員を承った連中というのが、人を丸める事にかけては専門の一流揃いと来ているんだ。如何にも研究熱の旺盛な余りに出たらしい脂切あぶらぎった口調で、柔らかく、固く持もちかけて来たもんだから吾輩ウッカリ乗せられてしまった。……少々演説が利き過ぎたかな……ぐらいの自惚うぬぼれ半分で、文句なしに頭を縦に振らせられてしまったが……しかし……というので吾輩の方からも一つの条件を持ち出したもんだ。

「……というのは、ほかの問題でもない。その爆弾漁業の実演者についてこっちにも一つ心当りがあるのだ。その人間はズット以前にドンを遣っていた経験のある人間だが、当局の諸君は勿論の事、一般の漁業関係の諸君が、その人間の過去を絶対に問わない約束をするなら、その生命いのちがけの仕事に推薦してみよう。現在ではスッカリ改心して、実直な仕事をしているばかりでなく、素敵もない爆弾漁業通だから将来共に、君等のお役に立つ人間じゃないかと思うが……」

 と切り出してみた。これはかねてから日蔭者ひかげものでいた林友吉を、どうかして大手を振って歩けるようにして遣りたいと思っていた矢先だったから、絶好の機会チャンスと思って提案した訳だったがね。

 するとこの計略が図に当って、忽たちまちのうちに警察、裁判所連の諒解を得た。……それは一体どんな人間だ……と好奇の眼を光らせる連中もいるという調子だったから、吾輩、手を揉み合わせて喜んだね。早速横ッ飛びに本町の事務室に帰って来て、小使部屋を覗いてみると、友吉親仁おやじは忰と差向いでヘボ将棋を指している。そいつを捕まえてこの事を相談すると、喜ぶかと思いのほか、案外極まる不機嫌な面つらを膨ふくらましたもんだ。

「それはドウモ困ります。私は日蔭者で沢山なので、先生のために生命いのちを棄てるよりほかに何の望みもない人間です。あんなヘッポコ役人の御機嫌を取って、罪を赦ゆるしてもらう位いなら、モウ一度、玄海灘で褌ふんどしの洗濯をします。まあ御免蒙りまっしょう」

 というニベもない挨拶だ。将棋盤から顔も上げようとしない。このおやじがコンナ調子になったら梃てこでも動かない前例があるから弱ったよ。

「しかし俺が承知したんだから遣ってくれなくちゃ困るじゃないか。今更、そんな人間はいなかったとは云えんじゃないか」

 とハラハラしながら高飛車をかけて見ると、おやじはイヨイヨ面つらを膨らました。

「それだから先生は困るというのです。アノ飲み助のお医者さんも云い御座った。先生は演説病に取付かれて御座るから世間の事はチョットもわからん。しかしあの病気ばっかりは薬の盛りようがないと云って御座ったがマッタクじゃ。……一体先生は、アイツ等が本気で爆漁実演ドンを見たがっていると思うていなさるのですか」

 と手駒を放り出して突っかかって来た。イヤ。受太刀うけたちにも何にも吾輩、返事に詰まってしまったよ。実をいうと二日間の講演をタッタ三時間に値切られてしまった不平が、まだどこかにコビリ付いていたんだからね。こう云われると頭が妙に混線してしまった。そのまま眼をパチパチさせていると、おやじはイヨイヨ勢い込んで突っかかって来る。

「……先生は駄目だよ。演説バッカリ上手で、カンが働らかんからダメだ。その役人連中の云い草一つで、チャンと向うの腹が見え透いているじゃありませんか。……ツイこの間も云うたでしょう。今度初まった爆弾漁業ドンの仕事ぶりが、どうも私の腑ふに落ちんところがある。この前のドン退治の時と違うて検挙の数がまことに少ないし、評判もサッパリ立たん。その癖に、下関しものせきから上がる鯖の模様を船頭連中に問うてみるとトテモ大層なものじゃ……昔の何層倍に当るかわからんという。値段も五六年前の半分か、三分の一というから生やさしい景気じゃない。不思議な事もあればあるもの……理屈がサッパリわからんと思うとったが、わからんも道理じゃ。彼奴きゃつ等はこの前に懲こりて、用心に用心を踏んで仕事に掛かってケツカル。朝鮮中の役所という役所の当り当りにスッカリ手を廻わして、仲間外れの抜け漁業ドンばっかりを検挙させよるから、吾々の眼に止まらんです。……今来ているそこ、ここの有力者というのは、一人残らずそのドン仲間の親分株で、役人連中は皆、薬のまわっとるテレンキューばっかりに違いありません。そいつ等らが、先生に睨まれんように、わざと頬冠りをして聞きに来とるに違いないのです。それじゃケニ先生の演説が聞きともないバッカリに、そげな桁行けたはずれの註文を出しよったのです。……それが先生にはわかりませんか……」

 と眼の色を変えて腕を捲くったもんだ。

 今から考えるとこの時に、このおやじの云う事を聞いていたら、コンナ眼にも会わずに済んだんだね。……このおやじの千里眼、順風耳じゅんぷうじのモノスゴサを今となって身ぶるいするほど思い知らされたものだが、しかしこの時には所謂いわゆる、騎虎きこの勢いという奴だった。そういう友吉おやじを頭から笑殺してしまったものだ。

「アハハハ。馬鹿な。それは貴様一流の曲り根性というものだ。お前は役人とか金持ちとかいうと、直ぐに白い眼で見る癖があるから不可いかん。……よしんば貴様の云うのが事実としても尚更の事じゃないか。知らん顔をして註文通りにして遣った方が、こっちの腹を見透かされんで、ええじゃないか。……アトは又アトの考えだ。……とにかく今度の仕事は俺に任せて云う事を聴け。承知しろ承知しろ……」

 と詭弁まじりに押付けたが、そうなると又、無学おやじだけに吾輩よりも単純だ。云う事を云ってしまった形でションボリとなって、

「それあ先生が是非にという命令なら遣らんとは云いません。腕におぼえも在りますから……」

 と承知した。するとその時に廿歳はたちになっていた忰せがれの友太郎も、親父おやじが行くならというので艫櫓ともろを受持ってくれたから吾輩、ホッと安心したよ。友太郎はその時分まで、南浜なんひん鉄工所に出て、発動機の修繕工つくろいを遣る傍かたわら、大学の講義録を取って勉強していたもんだが、それでも櫓柄ろつかを握らしたらそこいらの船頭は敵かなわなかった。よく吾輩の釣のお供を申付けて見せびらかしていた位だったからね。

 そこでこの二人を連れて、釜山公会堂に引返して、判事や検事連に紹介したが見覚えている者は一人も居なかった。……断っておくが友吉おやじは、再生以来スッカリ天窓テッペンが禿げ上ってムクムク肥っていた上に、ゴマ塩の山羊髯やぎひげを生やしていたものだから、昔の面影はアトカタも無かったのだ。又忰の友太郎も十二の年から八年も経っていたのだから釜山署で泣いた顔なぞ記憶している奴が居よう筈はない。そこで釜山署に押収しておった不正ダイナマイトを十本ばかり受取った友吉親子は早速準備に取りかかる。吾輩も、午後の講演をやめて明日の実地講演の腹案にかかった。……先ずドンを実演させて、捕った魚の被害状態をそれぞれ程度分けにして見せる。これは魚市場から間接にドン犯人を検挙するために必要欠くべからざる智識なんだ。それから爆薬製作の実地見学という、つまり逆の順序プログラムだったが、実をいうと吾輩もドン漁業の実際を見るのは、生れて初めてだったから、細かいプログラムは作れない。臨機応変でやっつける方針にきめていた。

 一方に各地の有志連は慶北丸をチャーターして万般の準備を整える。一方に吾輩を千芳閣に招待して御機嫌を取ったりしているうちに、その日は註文通りの静かな金茶色に暮れてしまった。

 ところが翌あくる朝になってみると又、驚いた。勿論、新聞記事には一行も書いて無かったが、向うの本桟橋の突端に横付けしている慶北丸が新しい万国旗で満艦飾をしている。五百噸トン足らずのチッポケな船だったが、まるで見違えてしまっている上に、デッキの上は丸で宴会場だ。手摺てすりからマストまで紅白の布で巻き立てて、毛氈もうせんや絨壇じゅうたんを敷き詰めた上に、珍味佳肴かこうが山積して在る。それに乗込んだ一行五十余名と一所いっしょに、地元の釜山はいうに及ばず、東莱とうらい、馬山ばさんから狩り集めた、芸妓げいしゃ、お酌、仲居なかいの類いが十四五名入り交って足の踏む処もない……皆、船に強い奴ばかりを選よりすぐったものらしく、十時の出帆前から弦歌の声、湧くが如しだ。

 友吉親子が漕いで行く小舟に乗って、近づいて行った吾輩は、この体態ていたらくを見て一種の義憤を感じたよ。……何とも知れない馬鹿にされたような気持ちになったもんだが、しかし今更、後へ引く訳には行かない。不承不承にタラップへ乗附けると忽たちまち歓呼の声湧くが如き歓迎ぶりだ。すぐに甲板デッキへ引っぱり上げられて先ず一杯、先ず一杯と盃責めにされる。モトヨリ内兜うちかぶとを見せる吾輩ではなかったので、引つぎ引つぎ傾けているうちに、忘れるともなく友吉親子の事を忘れていた。

 そのうちに慶北丸はソロリソロリと沖合いに出る。美事な日本晴れの朝凪あさなぎで、さしもの玄海灘が内海うちうみか外海そとうみかわからない。絶影島まきのしまを中心に左右へ引きはえる山影、岩角がんかくは宛然たる名画の屏風びょうぶだ。十月だから朝風は相当冷めたかったが、船の中はモウ十二分に酒がまわって、処々ところどころ乱痴気騒らんちきさわぎが初まっている。吾輩の講演なんかどこへ飛んで行ったか訳がわからない状態だ。……そのうちに吾輩はフト思い出して……一体、友吉親子はドウしているだろうと船尾へまわってみると、船の艫ともから出した長い綱に引かれた小舟の上に、チョコナンと向い合った親子が、揺られながらついて来る。何か二人で議論をしているようにも見えたが、吾輩が、

「オーイ。酒を遣ろうかあア……」

 と怒鳴ると友吉親仁おやじが振り返って手を振った。

「……要りませえん。不要ブウヨウ不要。それよりもこっちへお出いでなさあアイ」

 と手招きをしている。その態度がナカナカ熱心で、親子とも両手をあげて招くのだ。

「いかんいかん。こっちはなア……お前達の仕事を見ながら、講演をしなくちゃならん」

 と怒鳴ったが、コイツがわからなかったらしい。忰の友太郎がグイグイ綱を手繰たぐって船を近寄せると、推進機スクリュウの飛沫しぶきの中から吾輩を振り仰いで怒鳴った。

「……先生……先生……講演なんかお止めなさい。おやめなさい。あんな奴等に講演したって利き目はありません。それよりも御一所ごいっしょに鯖を捕って釜山へ帰りましょう。黙ってこの綱を解けば、いつ離れたかわかりませんから……」

 というその態度がヤハリ尋常じゃなかったが、しかし遺憾ながら、その時の吾輩には気付かれなかった。

「イヤ。ソンナ事は出来ん。向うに誠意がなくとも、こっちには責任があるからなア。……ところで仕事はまだ沖の方で遣るのか」

「ええもうじきです、しかし暫く器械の音を止めてからでないと鯖は浮きません。どっちみち船から見えんくらい遠くに離れて仕事をするんですからこっちへ入らっしゃい。大切だいじな御相談があるのです……どうぞ……先生……お願いですから……」

「馬鹿な事を云うな。行けんと云うたら行けん。それよりもなるべく船の近くで遣るようにしろ。器械の方はいつでも止めさせるから……」

「器械はコチラから止めさせます。どうぞ先生……」

 と云う声を聞き捨てて吾輩は又、甲板デッキに引返して行ったが、この時の友太郎の異様な熱誠ぶりを、知らん顔をしてソッポを向いていた友吉親仁おやじの態度を怪しまなかったのが、吾輩一期いちごの失策だった。或あるいはイクラかお神酒みきがまわっていたせいかも知れないがね。

 ところで甲板デッキに引返してみると船はモウ十四海里も西へ廻っていて、絶影島は山の蔭になってしまっていた。そのうちに機械の音がピッタリと止まったから、扨さてはここから初めるのかな……と思って立上ると、飲んでいる連中も気が附いたと見えて、我勝ちに上甲板や下甲板の舷ふなべりへ雪崩なだれかかって来た。

「どこだどこだ。どこに鯖がいるんだ」

 とキョロキョロする者もいれば、眼の前の山々に猥雑な名前を附けながら活弁マガイの潰れ声で説明するヒョーキン者もいる。中には芸者を舷ふなばたへ押し付けてキャアキャア云わしている者もいた。

 その鼻の先の海面へ、友吉おやじの禿頭はげあたまが、忰に艫櫓ともろを押させながら、悠々と廻わって来た。見ると赤ん坊の頭ぐらいの爆弾と、火を点つけた巻線香を両手に持って、船橋に立っている吾輩の顔を見い見い、何かしら意味ありげにニヤニヤ笑っている。忰の方は向うむきになっていたので良くわからなかったが、吾輩が見下しているうちに二度ばかり袖口で顔を拭いた。泣いているようにも見えたが、多分、潮飛沫しおしぶきでもかかったんだろうと思って、気にも止めずにいたもんだ。

 ……しかし……そのせいでもあるまいが、吾輩はこの時にヤット友吉おやじの態度を、おかしいと思い初めたものだ。

 第一……前にも云った通り吾輩はドンの実地作業を生れて初めて見るのだから、詳しい手順はわからなかったが、それでも友吉おやじの持っている爆弾が、嘗かつて実見した押収品のドンよりもズット大きいように感じられた。……のみならず、まだ魚群も見えないのに巻線香に火を点つけているのが、腑に落ちないと思ったが、しかし何しろ初めて見る仕事だからハッキリした疑いの起しようがない。これが友吉おやじ一流の遣り方かな……ぐらいに考えて一心に看守みまもっているだけの事であった。

 一方、甲板デッキの上では「シッカリ遣れエ」という酔っ払いの怒号や、ハンカチを振りながらキーキー声で声援する芸妓げいしゃ連中の声が入乱れて、トテモ煮えくり返るような景気だ。そのうちに慶北丸の惰力がダンダンと弛ゆるんで来て、小船の方が先に出かかると、友吉おやじは忰に命じて櫓を止めさせた。……と思ううちに、その舳先へさきに仁王立ちになった向う鉢巻の友吉おやじが、巻線香と爆弾を高々と差し上げながら、何やら饒舌しゃべり初めた。

 船の中が忽ちピッタリと静かになった。吾輩も、友吉おやじが吾輩の代りになって講演を初めるのかと思って、ちょっと度肝どぎもを抜かれたが、間もなく非常な興味をもって、皆と一緒に傾聴した。

 友吉おやじの塩辛しおから声は、少々上ずっていたが、よく透った。ことに頭から日光を浴びたその顔色は頗すこぶる平然たるもので、寧むしろ勇気凜々たるものがあった。

「……皆さん……聞いておくんなさい。私はこの爆弾ハッパを投げて、生命いのちがけの芸当をやっつける前に、ちょっと演説の真似方を遣らしてもらいます。白状しますが私は今から十四年ほど前に、柳河で嬶かかあと、嬶の間男まおとこをブチ斬ってズラカッタ林友吉というお尋ね者です。……それから後のち五年ばかりというものこのドン商売に紛れ込みまして、海の上を逃げまわっておりましたが、その間に警察署とか裁判所とか、津々浦々の有志とか、お金持ちとかいう人達が、吾々に生命いのちがけの仕事をさせながら、どんなに美味うまい汁を吸うて御座るかという証拠をピンからキリまで見てまわりました。爆弾ハッパの隠匿かくし処どこなどもアラカタ残らず、探り出してしまったものです。

 ……それが恐ろしかったので御座んしょう。警察と裁判所と、有志の人達が棒組んで、この私を袋ダタキにして絶影島の裏海岸に捨てて下さった御恩バッカリは今でも忘れておりません。そう云うたら思い当んなさる人が皆さんの中にも一人や二人は御座る筈ですが。へへへへへへへへへへ……」

 この笑い声を聞くと同時に、船の中で「キャ──ッ」という弱々しい叫びが起って、一人の仲居なかいが引っくり返った。その拍子に近まわりの者が、ちょっとザワ付いたように見えたが、又もピッタリと静かになった。……友吉の気魄に呑まれた……とでも形容しようか……。相手が恐ろしい爆弾を持っているので、蛇に魅入みいられた蛙かえるみたような心理状態に陥っていたものかも知れない。

 友吉おやじの顔色は、その悲鳴と一所に、益々冷然と冴え返って来た。

「……アンタ方は、ええ気色な人達だ。罪人を捕まえて生命いのちがけの仕事をさせながら、芸者を揚げて酒を飲んで、高見たかみの見物をしているなんて……お役人が聞いて呆れる。私は轟先生の御命令じゃから不承不承にここまで来るには来てみたが、モウモウ堪忍袋の緒が切れた。持って生れたカンシャク玉が承知せん。

 ……アンタ方は日本の役人の面つらよごしだ。……ええかね。……これはアンタ方に絞られたドン仲間の恩返しだよ。コイツを喰らってクタバッてしまえ……」

 と云ううちに爆弾の導火線を悠々と巻線香にクッ付けて、タッタ一吹きフッと吹くとシューシューいう奴を片手に、

「へへへへ……」

 と笑いながら船首の吃水線きっすいせん下に投げ付けた。……トタンに轟然たる振動と、芸者連中の悲鳴が耳も潰れるほど空気を劈つんざいた。それを見上げた友吉おやじは又も、

「へへへへへへへ……」

 と笑いながら、今一つの爆弾を揚板あげいたの下から取出して導火線に火を点つけた。それを頭の上に差し上げて、

「……コレ外道サレッ……」

 と大喝しながら投げ出したと思ったが、その時遅く彼かの時早く、シューシューと火を噴ふく黒い爆弾たまがおやじの手から三尺ばかりも離れたと見るうちに、眼も眩くらむような黄色い閃光がサッと流れた。同時に灰色の煙がムックリと小舟の全体を引っ包んだ中から、友吉おやじの手か、足か、顔か、それとも舷ふなべりか、板子か、何だかわからない黒いものが八方に飛び散ってポチャンポチャンと海へ落ちた。そうしてその煙が消え失せた時には、半分水船みずぶねになった血まみれの小舟が、肉片のヘバリ付いた艫櫓ともろを引きずったまま、のた打ちまわる波紋の中に漂っていた。

 不思議な事に吾輩は、その間じゅう何をしていたか全く記憶していない。危険あぶないとも、恐ろしいとも何とも感じないまま船橋ブリッジの上から見下ろしていたものだ。恐らく側に立っていた船長も同様であったろうと思う。……友吉おやじの演説をハッキリと聞いて、二つの爆弾が炸裂するのを眼の前に見ていながら、一種の催眠術にかかったような気持ちで、両手をポケットに突込んだなりに、棒のように硬直していたように思う。ただ、その石のように握り締めた両手の拳こぶしの間から、生温なまぬるい汗がタラタラと迸ほとばしり流れるのをハッキリと意識していたものだが、「手に汗を握る」という形容はアンナ状態を指したものかも知れん。

 船の甲板デッキは、むろん一瞬間に修羅場しゅらじょうと化していた。今の今まで、抱き合ったり、吸付き合ったりしていた男や女が、先を争って舷側に馳け付けた。そこへ誰だかわからないが非常汽笛を鳴らした者がいたので一層騒ぎが深刻化してしまった。

 船体はいつの間にか十度ばかり左舷に傾いて、まだまだ傾きそうな動揺を見せていたが、そのために酔った連中の足元がイヨイヨ定まらなくなったらしい。折重なって辷すべり倒れる。その上から狼藉ろうぜきしていた杯盤がガラガラガラと雪崩なだれかかる。その中を押し合い、ヘシ合い、突飛ばし合いながら両舷のボートに乗移ろうとする。上から上から這いかかり乗りかかる。怪我けがをする。血を流す。嘔吐はく。気絶する。その上から踏み躙にじる。警官も役人も有志も芸妓げいしゃも有ったもんじゃない。皆血相の変った引歪ひきゆがんだ顔ばかりで、醜態、狼狽、叫喚、大叫喚の活地獄いきじごくだ。その上から非常汽笛が真白く、モノスゴク、途切とぎれ途切れに鳴り響くのだ。

 左右の舷側に吊した四隻のカッター端舟ボートはセイゼイ廿人も乗れる位のもので在ったろうか。一艘そう毎に素早い船員が飛乗って、声を嗄からして制止しているが耳に入れる者なんか一人も居ない。我勝ちに飛乗る、縋すがり付く、オールを振廻すという状態で、あぶなくて操作が出来ない。そのうちに左舷の船尾から猛烈な悲鳴が湧き起ったから、振り返ってみると、今しも人間を山盛りにして降りかけた端舟ボートが、操作を誤って片っ方の吊綱ロープだけ弛ゆるめたために、逆釣さかづりになってブラ下がった。同時に満載していた人間がドブンドブンと海へ落ちてしまったのだ。海の深さはそこいらで十五六尋ひろも在ったろうか……。

 それを見た瞬間に吾輩はヤット我に返った……これは俺の責任……といったような感じにヒドク打たれたように思う。

 傍を見ると船長が吾輩と同じ恰好でボンヤリと突立っている。肩をたたいて見たが、唖然あぜんとして吾輩を振り返るばかりだ。船橋ブリッジの下の光景に気を呑まれていたんだろう。

 吾輩はその横で背広服を脱いで、メリヤスの襯衣シャツとズボン下だけになった。メリヤスを一枚着ていると大抵な冷つめたい海でも凌しのげる事を体験していたからね。それから船橋ブリッジの前にブラ下げて在った浮袋ブイを一個ひとつ引っ抱えて上甲板へ馳け降りた。船尾から落ちた連中を救たすけて水舟に取付かせてやるつもりだった。それからボートの前の連中を整理して狼狽させないようにしようと思い思いモウ一つ下甲板へ馳け降りると、その階段の昇り口の暗い処でバッタリとこの船の運転士に行き会った。よく吾輩の処へ議論を吹っかけに来る江戸ッ子の若造わかぞうで、友吉とも心安い、来島くるしまという柔道家だったが、これも猿股一つになって、真黒な腕に浮袋を抱え込んでいた。

「……あっ……轟先生。ちょうどいい。一所いっしょに来て下さい」

 と云ううちに吾輩を引っぱって、客室の横の階段から廊下伝いに混雑を避けながら、誰も居ない船首へ出た。その時に非常汽笛がパッタリと鳴り止んだので、急に淋しく、モノスゴクなったような気がしたが、そこで改めて来島の顔を見ると、眼に泪なみだを一パイ溜め、青い顔をしている。友太郎の事を考えているのだろうと思ったが、しかし二人とも口には出さなかった。来島は落付いて云った。

「……轟先生……損害は軽いんです。汽笛ふえなんか鳴らしたから不可いけなかったんです。……傾かしいだ原因はまだ判然わかりませんが、船底の銅版あかと、木板いたの境い目二尺に五尺ばかりグザグザに遣られただけなんです。都合よく反対に傾かしいだお蔭で、モウ水面に出かかっているんですから、外から仕事をした方が早いと思うんです。済みませんが先生、この道具袋フクロを持って飛込んでくれませんか。水夫も火夫もみんなポンプに掛り切っていて手が足りないんですから……浮袋ブイを離してはいけませんよ。仕事が出来ませんから……いいですか……」

 吾輩は一も二もなくこの若造の命令に従って海に飛込んだ。イザとなると覚悟のいい奴には敵かなわないね。

 ところが、それから引続いた来島の働らき振りには吾輩イヨイヨ舌を捲かされたもんだよ。溺れている人間なんか見向きもしない。一生懸命で、上からブラ下げた綱に縋すがりながら、船の横っ腹に取付いて、穴の周囲にポンポンポンと釘を打ち並べると、八番ぐらいの銅線を縦横十文字じゅうおうむじんに引っかけまわした。その上から帆布キャンバスを当てがって、片っ方から順々に大釘で止めて行く……最後に残った一尺四方ばかりの穴から猛烈に走り込む水を、針金に押し当てがった帆布キャンバスで巧みにアシライながら遮り止めてしまった。その上からモウ二枚帆布キャンバスを当てがって、周囲まわりをピッシリ釘付けにして、その上からモウ一つ、流れていた櫂オールを三本並べながら、鎹釘かすがいで頑丈にタタキ付けてしまった。どこで研究したものか知らないが、百人ばかりの生命いのちの親様だ。思わず頭が下がったよ。

 その吾々が仕事をしている二三間げん向うには、端舟ボートの釣綱つりつなが二本、中途から引っ切れたままブラ下がっていた。切れ落ちたボートは人間を満載したまま一度デングリ返しを打った奴が、十間ばかり離れた処に漂流していたが、その周囲には人間の手が、干大根ほしだいこんを並べたようにビッシリと取付いている。……にも拘わらず、その尻の切れた二本の綱には、上から上から取付いてブラ下がって来る人間が、重なり重なり繋がり合っているのだ。芸者、紳士、警官、お酌、判事、検事、等々々といった順序に重なり合った珍妙極まる人間の数珠玉じゅずだまなんだ。しかもその一つ一つが「助けてくれ助けてくれ」と五色ごしきの悲鳴をあげているのだから、平生なら抱腹絶倒の奇観なんだが、この時はドウシテ……その一人一人が絶体絶命の真剣なんだから遣り切れない。巡査の握り拳こぶしの上に芸者のお尻がノシかかって来る。仲居なかいの股倉が有志の肩に馬乗りになる。「降りちゃ不可いかん降りちゃ不可ん」と下から怒鳴っているんだから堪たまらない。ズルリズルリと下がって来るうちに、見る見る綱が詰まって来てポチャンポチャンと海へ陥おち込む。そのまま、

「……アアッ……ああッ……」

 と藻掻もがき狂いながらブクブクブクと沈んで行く。その表情のムゴタラシサ……それを上から見い見いブラ下がっている連中の悲鳴のモノスゴサといったらなかったよ。

 そんな光景を見殺しにしながら仕事をしていた吾輩は、仕事が済むとモウ矢も楯たてもたまらない。道具袋を海にタタッ込んで、抜手を切って沖合いの小舟に泳ぎ付いた。血だらけの櫓柄ろづかを洗って、臍へそに引っかけると水舟のまま漕ぎ戻して、そこいらのブクブク連中をアラカタ舷ふなべりの周囲に取付かせてしまったので、とりあえずホッとしたもんだ。

 その間に来島は本船に上って、帆布キャンバスで塞いだ穴の内側から、本式にピッタリと板を打付けた。一層馬力ばりきをかけて水を汲み出す一方に、在あらん限りの品物を海に投込む。ボートの連中を艙口ハッチから収容すると、今度は船員が漕ぎながら人間を拾い集める。綱を持った水夫を飛込ましてブカブカ遣っている連中を拾い集める。上って来た奴は片かたっ端ぱしから二等室に担ぎ込んで水を吐かせる。摩擦する。人工呼吸を施すなどして、ヤットの事で取止めた頭数を勘定してみると、警官、役人、有志、人夫を合わせて、七名の人間が死んでいる。そのほかに芸妓げいしゃ二名の行方がわからない……という事が判明した。これは男連中が腕力に任せて先を争った結果で、同時に女を見殺しにした事実を雄弁に物語っているのだ。お酌や仲居が一人も飛込まないで助かったのは、お客や姉さん等に対して遠慮勝ちな彼等の平生の癖が、コンナ場合にも出たんじゃないかと思うがね。イヤ。冗談じゃないんだ。危急の場合に限って平生の習慣が一番よく出るもんだからね。

 ところがその中うちに西寄りの北風が吹き初めて、急に寒くなったせいでもあったろうか。死骸を並べた二等室の広間に青い顔をして固まり合っていた、生き残りの連中が騒ぎ初めた。当てもないのに立ち上りながら異口いく同音に、

「……帰ろう帰ろう。風邪を引きそうだ……」

「船長を呼べ船長を呼べ……」

 とワメキ出したのには呆れ返ったよ。イクラ現金でもアンマリ露骨過ぎる話だからね。片隅で屍体の世話を焼いていた丸裸の来島運転士も、これを聞くと顔色を変えて立上ったもんだ。あらん限りの醜態を見せ付けられてジリジリしていたんだからね。

「……何ですって……帰るんですって……いけませんいけません。まだ仕事があるんです」

「……ナンダ……何だ貴様は……水夫か……」

「この船の運転士です。……船の修繕はもうスッカリ出来上っているんですから、済みませんがモウ暫く落付いていて下さい。これから屍体の捜索にかかろうというところですからね」

「……探してわかるのか……」

「……わからなくたって仕方がありません。行方不明の屍体を打っちゃらかして、日の暮れないうちに帰ったら、貴方がたの責任問題になるんじゃないですか。……モウ一度探しに来るったって、この広ッパじゃ見当が付きませんよ」

 と詰め寄ったが、裁判所や、警察連中は、何を憤おこっているのか、白い眼をして吾輩と来島の顔を見比べているばかりであった。すると又その中うちに大勢の背後うしろの方で、

「……アア寒い寒い……」

 と大きな声を出しながら、四合瓶ごうびんの喇叭ラッパを吹いていた一人が、ヒョロヒョロと前に出て来た。トロンとした眼を据えて、

「……何だ何だ。わからないのは芸妓げいしゃだけじゃないか。芸妓なんぞドウでもいい……」

 とウッカリ口を辷らしたから堪たまらない。隅ッ子の方に固まっていた雛妓おしゃくが「ワッ」と泣き出す……トタンに来島の血相が又も一変して真青になった。

「……何ですか貴方は……芸妓げいしゃなんぞドウでもいいたあ何です」

「……バカア……好色漢すけべえ……そんな事を云うたて雛妓おしゃくは惚れんぞ……」

「……惚れようが惚れまいがこっちの勝手だ。フザケやがって……芸妓げいしゃだって同等の人間じゃねえか。好色漢すけべえがドウしたんだ……手前てめえ等あ役人の癖に……」

 と云いさしたので吾輩は……ハッ……としたが間に合わなかった。二三人の警官と有志らしい男が一人か二人、素早く立上って来島と睨み合った。しかし来島は眉一つ動かさなかった。心持ち笑い顔を冴え返らしただけであった。

「……何だ……貴様は社会主義者か……」

「……篦棒べらぼうめえ人道主義者だ……このまんま帰れあ死体遺棄罪じゃあねえか。不人情もいい加減にするがいい……手前てめえ等あタッタ今までその芸妓げいしゃを……」

「黙れ黙れッ。貴様等の知った事じゃない。吾々が命令するのだ。帰れと云ったら帰れッ……」

「……ヘン……帰らないよ。海員の義務って奴が在るんだ。芸妓げいしゃだろうが何だろうが……」

「……馬鹿ッ……反抗するカッ……」

 と云ううちに前に居た癇癪持ちらしい警官が、来島の横ッ面つらを一つ、平手でピシャリとハタキ付けた。トタンに来島が猛然として飛かかろうとしたから、吾輩が逸早いちはやく遮さえぎり止めて力一パイ睨み付けて鎮しずまらした。来島は柔道三段の腕前だったからね。打棄うっちゃっておくと警官の一人や二人絞め倒おしかねないんだ。

 そのうちに来島は、吾輩の顔を見てヒョッコリと頭を一つ下げた。そのまま火の出るような眼付きで一同を見まわしていたが、突然にクルリと身を飜ひるがえすと、入口の扉ドアをパタンと閉めて飛び出して行った。吾輩もそのアトから、何の意味もなしに飛出して行ったが、来島の影はどこにも見えない。船橋ブリッジに上って見ると船はもう轟々と唸りながら半回転しかけていた。

 その一面に白波を噛み出した曇り空の海上の一点を凝視しているうちに吾輩は、裸体はだかのまんま石のように固くなってしまったよ。吾輩の足下に大波瀾を捲き起して消え失せた友吉親子と、無情つれなく見棄てられた二人の芸妓げいしゃの事を思うと、何ともいえない悽愴たる涙が、滂沱ぼうだとして止とどまるところを知らなかったのだ。……

 ……ドウダイ……これが吾輩の首無し事件の真相だ。君等の耳には最もう、トックの昔に這入っている事と思っていたんだが……秘密にすべく余りに事件が大き過ぎるからね。

 ウンウンその通りその通り。朝鮮の内部で喰い止めて内地へ伝わらないように必死的の運動をしたものに相違ないね。司法官連中にも弱い尻が在るからな。旅費日当を貰って聴きに来た講演をサボって、芸者を揚げて舟遊山ふなゆさんをした……その酒の肴に前科者を雇って、生命いのちがけの不正漁業を実演させたとなったら事が穏やかでないからな。

 ナニ、吾輩に対する嫌疑かい。

 それあ無論かかったとも。……かかったにも何にも、お話にならないヒドイ嫌疑だ。人間の運命が傾き初めると意外な事ばかり続くものらしいね。

 その翌あくる朝の事だ。善後の処置について御相談したい事があるからというので、釜山府尹ふいん官舎の応接間に呼び付けられてみると、どうだい。昨日きのうの事件は吾輩と、友吉おやじと、慶北丸の運転士来島とが腹を合わせた何かの威嚇手段じゃないか。その背後には在鮮五十万の漁民の社会主義的、思想運動の力が動いているのじゃないかというので、根掘り葉掘り訊問されたもんだ。どこから考え付いたものか解からんが馬鹿馬鹿し過ぎて返事も出来ない。よっぽど面喰って、血迷っていたんだね。……しかもその入れ代り立代り訊問する連中の中心に立った人間というのが誰でもない。昨日きのう、イの一番に芸妓げいしゃを突飛ばして船尾のボートに噛かじり付いた釜山の署長と予審判事と検事の三人組と来ているんだ。或は一種の責任問題から、この三人が先鋒に立たされたものかも知れないがね。……その背後には慶北、全南あたりの司法官が五六名、容易ならぬ眼色を光らしている。表面は事件の善後策に関する相談と称しながら、事実は純然たる秘密訊問に相違なかったのだ。

 吾輩は勿論、癪しゃくに障さわったから、都合のいい返事を一つもしてやらなかった。当り前なら法律と算盤そろばんの前には頭を下げる事にきめている吾輩だったが、あの時には、前の日に死んだ友吉おやじのヒネクレ根性が、爆薬の臭気においとゴッチャになって、吾輩の鼻の穴から臓腑へ染しみ渡っていたらしいね。

「吾輩の講演を忌避して、船遊山ふなゆさんを思い立ったのは誰でしたっけね」

 と空っトボケてやったもんだ。

 すると誰だか知らない検事か判事みたような男が背後うしろの方から、

「それでも友吉親子を推薦したのは貴下あなたではなかったか」

 と突込んで来たから、わざとその男の顔を見い見い冷笑してやった。

「……ハハハ……その事ならアンマリ突込まれん方が良くはないですか。実は昨晩、弁護士に調べさせてみますと、友吉の前科はズット以前に時効にかかっていたものだそうです。私は法律を知らないのですが……それでなくとも拘留中の現行犯人を引出して、犯罪の実演をさせるよりは無難だろうと思って、実は、あの男を推薦した次第でしたが……それでも貴方がたの法律眼から御覧になると、現行犯を使った方が合理的な意味になりますかな……」

 と乙おつに絡んで捻ねじ返してくれた。吾れながら感心するくらい頭がヒネクレて来たもんだからね……ところが流石さすがは商売柄だ。これ位の逆襲には凹へこまなかった。

「そんな事を議論しているのじゃない。友吉おやじに、あんな乱暴を働らかした責任は当然ソッチに在る筈だ。その責任を問うているのだ」

 と吾輩の一番痛いところを刺して来た。その時には吾輩、思わずカッとなりかけたもんだ……が、しかしここが大事なところと思ったから、わざと平気な顔で空を嘯うそぶいて見せた。

「……成る程……その責任なら当方で十分十二分に負いましょうよ。……しかし爆弾を投げさせた心理的の動機はこの限りに非あらずだから、そのつもりでおってもらいたいですな。無辜むこの人間に生命いのちがけの不正を働らかせながら、芸妓げいしゃを揚げて高見たかみの見物をしようとした諸君の方が悪いにきまっているのだから……諸君は友吉おやじの最後の演説を記憶しておられるだろう……」

 と云って満座の顔を一つ一つに見廻わしたら、一名残らず眼を白黒させていたよ。

「……しかし……あれは元来……有志連中が計画したもので……」

 と隅の方から苦しそうな弁解をした者がいたので、吾輩は思わず噴飯ふんぱんさせられた。

「……アハハ。そうでしたか。ちっとも知りませんでした。……しかし拙者が拝見したところでは、有志の連中には余り酔った者はいなかったようである。実際に泥酔して乱痴気らんちき騒ぎを演じたのは諸君ばかりのように見受けたが、違っていたか知らん。序ついでにお尋ねするが一体、諸君は講演の第二日の報告を、何と書かれるつもりですか。参考のために承っておきたい。まさか公会堂で演説中に爆弾が破裂したとも書けまいし……困った問題ですなあ……これは……」

 と冷やかしてやった。ところがコイツが一等コタエたらしいね。イキナリ、

「……ケ……怪けしからん……」

 と来たもんだ。眼先の見えない唐変木とうへんぼくもあったもんだね。

「……そ……そんな事に就いては職務上、君等の干渉を受ける必要はない。君はただ訊問に答えておればいいのだ」

 と頭ごなしに引っ被かぶせて来た。……ところが又、こいつを聞くと同時に、最前さっきから捻じれるだけ捻じれていた吾輩の神経がモウ一ひと捻じりキリキリ決着のところまで捻じ上ってしまったから止むを得ない。モウこれまでだ。談判破裂だ……と思うと、フロックの腕を捲くって坐り直したもんだ。

「……ハハア……これは訊問ですか。面白い……訊問なら訊問で結構ですから、一つ正式の召喚状を出してもらいましょうかね。その上で……如何にも吾輩が最初から計画してやった仕事に相違ない……という事にして、洗い泄ざらい泥水を吐き出しましょうかね。要するに諸君の首が繋がりさえすれあ、ほかに文句はないでしょう……」

 と喰らわしてやったら、連中の顔色が一度にサッと変ったよ。

「……エヘン……吾輩は多分、終身懲役か死刑になるでしょう。君等のお誂あつらえ向きに饒舌しゃべればね……ウッカリすると社会主義者の汚名を着せられるかも知れないが、ソレも面白いだろう。日本民族の腸はらわたが……特に朝鮮官吏の植民地根性が、ここまで腐り抜いている以上、吾輩がタッタ一人で、いくらジタバタしたって爆弾漁業の勦滅そうめつは……」

「……黙り給えッ……司直に対して僭越だぞ……」

「何が僭越だ。令状を執行されない以上、官等かんとうは君等の上席じゃないか……」

 と開き直ってくれたが、その時に横合いから釜山署長が、慌てて割込んで来た。

「……そ……それじゃ丸で喧嘩だ。まあまあ……」

「……喧嘩でもいいじゃないか。こっちから売ったおぼえはないが、ドウセ友吉おやじの鬱憤晴らしだ」

「……そ……そんな事を云ったらアンタの不利になる……」

「……不利は最初から覚悟の前だ。出る処へ出た方がメチャメチャになって宜いい……」

「……だ……だからその善後策を……」

「何が善後策だ。吾輩の善後策はタッタ一つ……漁民五十万の死活問題あるのみだ。お互いの首の五十や六十、惜しい事はチットモない。真相を発表するのは吾輩の自由だからね」

「そ……それでは困る。御趣旨は重々わかっているからそこをどっちにも傷の附かんように、胸襟きょうきんを開いて懇談を……」

「それが既に間違っているじゃないか。死んだ人間はまだ沖に放ほうりっ放ぱなしになっているのに何が善後策だ。その弔慰の方法も講じないまま自分達の尻ぬぐいに取りかかるザマは何だ。況いわんや自分達の失態を蔽おおうために、孤立無援の吾輩をコケ威おどしにかけて、何とか辻褄つじつまを合わさせようとする醜態はどうだ」

「……………」

「ソッチがそんな了簡りょうけんならこっちにも覚悟がある。……憚りながら全鮮五十万の漁民を植え付けて来た三十年間には、何遍、血の雨を潜ったかわからない吾輩だ。骨が舎利しゃりになるともこの真相を発表せずには措かないから……」

「……イヤ。その御精神は重々、相わかっております。誤解されては困ります。爆弾漁業の取締りに就いて今後共に一層の注意を払う覚悟でおりますが、しかし、それはそれとしてとりあえず今度の事件だけに就いての善後策を、今日、この席上で……」

 とか何とか云いながら上席らしい胡麻塩ごましお頭の一人が改まって頭を下げ初めた。それに連れて二三人頭を下げたようであったが、内心ヨッポド屁古垂へこたれたらしいね。しかし吾輩はモウ欺されなかった。

「……待って下さい。その交換条件ならこっちから御免を蒙りましょう。陛下の赤子せきし、五十万の生霊を救う爆弾漁業の取締りは、誰でも無条件で遣らなければならぬ神聖な事業ですからね。今後、絶対に君等のお世話を受けたくない考えでいるのです。……ですから君等の職権で、勝手な報告を作って出されたらいいでしょう。……吾輩は忙がしいからこれで失礼する」

「……まあまあ……そう急せき込まずと……」

「いいや失敬する。安閑と君等の尻拭いを研究している隙ひまはない。……何よりも気の毒なのは死んだ二人の芸者だ。林友吉や、お互いの災難は一種の自業自得に過ぎないが、芸妓げいしゃとなるとそうは行かん。何も知らないのに巻添えを喰わされたばかりじゃない。面倒臭いといって沖に放り出されて鯖の餌食にされたんだから、気の毒も可愛想も通り越している。君等には関係のない事かも知れんが、これから行って大いに弔問してやらなくちゃならん。……もっとも今更、線香を附けてやったって成仏じょうぶつ出来まいとは思うがね。ハッハッハッハッハッ……」

 といった調子で、今まで溜まっていた毒気を一度に吹っかけながら退場してくれた。……ハハハハ。イヤ。痛快だったよ。何の事はない役人連中、蚊かを突っついて藪やぶを出した形になった。おまけにアトから聞いてみると、当日来なかった連中の中の十人ばかりが風邪を引いて、宿屋に寝ていたというのだから吾輩イヨイヨ溜飲を下げたもんだよ。

 とはいうものの……白状するが吾輩は、そのアトから直ぐに有志連中が調停に来るものと思って、実は手具脛てぐすねを引いて待っていたもんだ。……来やがったらドウセ破れカブレの刷毛序はけついでだ。思い切り向う脛ずねを掻っ払ってくれようと思って、一週間ばかり心待ちに待っていたがトウトウ来ない。可怪おかしいと思って様子を探っていると、これも慌てて海に飛び込んだ頭株の四五人が、ヒドイ風邪を引いて寝てしまった。しかも、その中うちの一人は急性肺炎……モウ一人は心臓麻痺でポックリ死んでしまったので、それやこそ……死んだ友吉の祟りだ。友吉風ともきちかぜ友吉風というので何ともない奴までオゾ毛を慄ふるって蒲団ふとんを引っ冠かぶっているという……実に滑稽なお話だが、とにかくソレくらい恐ろしかったんだね。友吉たるもの以もって瞑めいすべしだろう。……もっとも一方から考えてみると有志連中は懲役に行っても職業しょうばいを首にされる心配はない。だから役人連中に泣き付かれない限り調停に立つ必要もない。又、泣き付かれたにしたところが、二度と吾輩を丸め込む見込みはない……というないないの三拍子が揃っているんだから、知らん顔をして寝ていたんだろう。……但ただし新聞社には遺憾なく手を廻わしたものと見えて、一行も書かなかった。だから結局、死んだ奴が死に損という事になった訳だ。

 不人情なものさね。

 しかし真剣なところが「友吉風邪」ぐらいの事で癒える吾輩の腹ではなかった。

 芸者や友吉は成仏しても、吾輩が成仏出来ない。吾輩が観念しても五十万人の怨みを如何いかんせんだ。……ドウするか見ろ……というので事件の翌あくる日から毎日事務所に立て籠もって向う鉢巻でこの報告書を書き初めたもんだが、サテ取りかかってみるとナカナカ容易でない。演説の方なら十時間でも一気呵成かせいだが、文章となると考えばかりが先走って困るんだ。おまけに唯一の参考書類兼活字引いきじびきともいうべき友吉おやじが居ないんだからね。ヤタラに興奮するばかりで紙数がチットも捗はかどらない。

 その間に有志連中の方では如才なく事を運んだらしい。吾輩との妥協を絶望と見て取って暗々裡あんあんりに事件を揉み消すと同時に、同じような手段でもって総督府の誰かを動かしたものと見える。吾輩の本官を首にした上に、各道で好意的に手続きをしていた組合費の徴収をピッタリと停止してしまった。実に陰険、悪辣あくらつな報復手段だ。山内さんが生きて御座ござったらコンナ事にはならないんだがね。せめてもの便たよりになる、藁塚産業部長までも中風で、郷里の青森県に寝て御座ござるんだから吾輩、陸に上った河童かっぱも同然だった。もっとも恩給を停止されなかったのが、せめてもの拾い物だったかも知れないが……ハッハッ……。

 そこで吾輩は断然思い切ってこの絶影島まきのしまの一角にこの一軒屋を建てて自炊生活を初めた。妻子を持たない吾輩にとっては格別の苦労じゃないからね。ここで本腰を入れて報告を書く決心をしたもんだが、書けば書くほど、朝鮮官吏の植民地根性が癪しゃくに障さわって来る。同時にこの素晴らしい爆薬の取次網を蔽おおうべく、内地、朝鮮の有力者連中が、如何に非国家的な黒幕を張り廻わしているかが、アリアリと吾輩の眼底に映じて来た。友吉おやじの云い遺のこした言葉が、マザマザと耳に響いて来て、ペンを持つ手がブルブルと震え出すようになった。……そうだよ。或あるいは酒精中毒アルチュウから来た一種の神経衰弱かも知れないがね。しまいにはボンヤリしてしまって、ワケのワカラナイ泪なみだばかりがボロボロ落ちて来るんだ。コンナ事ではいけないと思って、焦あせれば焦せるほど筆がいう事を聞かなくなるんだ。呑兵衛のんべえ老医ドクトルも心配して、

「そいつは立派な動脈硬化じゃ。萎縮腎いしゅくじんも一所に来ているようじゃ。漢法に書痙しょけいという奴があるがアンタのは酒痙じゃろう。今に杯が持たれぬようになるよ。ハハハハ。とにかく暫く書くのを止めた方が宜ええ。そうなるとイヨイヨ気が急せくのが病気の特徴じゃが、そこで無理をしよると脳髄のうずいの血管がパンクする虞おそれがある。そうなったら万事休すじゃ。拙者もアンマリ飲みに来んようにしよう」

 といったアンバイで、気の毒そうに威おどかしやがるんだ。

 そこで吾輩も殆んど筆を投とうぜざるを得なくなった。刀折れ、矢竭つきた形だね。

 ……蒼天蒼天……吾輩の一生もこのまんま泣き寝入りになるのか。回天の事業、独力を奈何いかんせん……と人知れず哀号アイゴーを唱えているところへ又、天なる哉かな、命めいなる哉と来た。……彼かの林りん青年……友吉の忰の友太郎が今年の盂蘭盆うらぼんの十二日の晩に、ヒョッコリと帰って来たのには胆きもを潰したよ。

 ちょうどその十二日の正午過ぎの事だった。友吉の大好物だった虎鰒とらふぐを、絶壁がけの下から投上げてくれた漁師やつがあったからね。今の呑兵衛老医ドクトルと、非番だった慶北丸の来島運転士を、その漁師に言伝ことづけて呼寄せると、この縁側で月を相手に一杯やりながら、心ばかりの弔意を表しているところだった。何とかカンとか云っているうちに呑兵衛ドクトルもずるずるべったりに座り込んだ訳だ。

 むろん話といったら外にない。友吉おやじで持ち切りだ。

「結局、友吉おやじは諦めるとしても、あの忰の友太郎だけは惜しかったですね」

 と来島が暗涙を浮かめて云った。

「……ウン。吾輩も諦らめ切れん。あの時に櫓柄へヘバリ付いていた肉の一片ひときれをウッカリ洗い落してしまったが、あれは多分、友太郎のだったかも知れない。今思い出しても涙が出るよ」

 呑兵衛ドクトルも眼を赤くして関羽鬚かんうひげをしごいた。

「……ハハア……それは惜しい事じゃったなあ。あの子供の親孝心には拙者も泣かされたものじゃったが……その肉を拙者がアルコール漬にして保存しておきたかったナ。広瀬中佐の肉のアルコール漬がどこぞに保存して在るという話じゃが……ちょうど忠孝の対照になるからのう……」

「飛とんでもない。役人に見せたら忠と不忠の対照でさあ。僕を社会主義者と間違える位ですからね……ハハハハ……」

「ウン……間違えたと云やあ思い出すが、吾輩に一つ面目めんもくない話があるんだ。あんまり面目ないから今まで誰にも話さずにいたんだが……ホラ……吾輩と君とで慶北丸の横ッ腹ぱらを修繕してしまうと、君は直ぐに綱にブラ下ってデッキに引返したろう。吾輩は沖の水舟を拾うべく、抜手を切って泳ぎ出した……あの時の話なんだ。実際、この五十余年間にあの時ぐらい、ミジメな心理状態に陥った事はなかったよ」

「……ヘエ。溺れかかったんですか」

「……馬鹿な……溺れかかった位なら、まだ立派な話だがね……」

「……ヘエッ。どうしたんですか……」

「……その小舟に泳ぎ付く途中で、何だか判然わからないものが水の中から、イキナリ吾輩の左足にカジリ付いたんだ。ピリピリと痛いくらいにね」

「……ヘエ。何ですかそれは……」

「何だかサッパリわからなかったが、ちょうどアノ辺に鱶ふかの寄る時候だったからね。ここへ来たら大変だぞ……と泳ぎながら考えている矢先だったもんだから仰天したよ。咄嗟とっさの間にソレだと思って狼狽したらしい。ガブリと潮水を呑まされながら、死に物狂いに蹴放けはなして、無我夢中で舟に這い上ると、ヤット落付いてホッとしたもんだが……」

「……結局……何でしたか……それあ……」

「……ウン。それから釜山の事務所に帰って、銭湯せんとうに飛込むと、何か知らピリピリと足に泌しみるようだから、おかしいなと思い思い、上框あがりかまちの燈火あかりの下に来てよく見ると……どうだ。その左の足首の処に女の髪が二三本、喰い込むようにシッカリと巻き付いて、シクリシクリと痛んでいるじゃないか……しかも、そいつを抓つまみ取ろうとしても、肉に喰い込んでいてナカナカ取れない。……吾輩、思わずゾッとして胸がドキンドキンとしたもんだよ。多分、水面下でお陀仏だぶつになりかけていた芸者の髪の毛だったろうと思うんだが、今思い出しても妙な気持になる。……女という奴は元来、吾輩の苦手なんだがね。ハハハハ……」

 といったような懐旧談で、頻しきりに悽愴すごがってシンミリしている鼻の先へ、庭先の月見草の中から、白い朝鮮服を着て、長い煙管きせるを持った奴がノッソリと現われて来たもんだ。

 三人はその時にハッとさせられたようだった。しかし、そのうちに長い煙管が眼に付くと、

 ……ナアンダ朝鮮ヨボ公か……コンナ処まで浮かれて来るなんて呑気な奴も在るもんだ。アッチへ行け。何も無いオブソ何も無いオブソ。

 というので手を振って見せたが動かない。そのうちに気が付いて見るとそれが擬まがいもない友太郎だったのにはギョッとさせられたよ。噂をすれば影どころじゃない。テッキリ幽霊……と思ったらしい。三人が三人とも坐り直したもんだ。

 ……ハハハ……ナアニ。聞いて見たら不思議でも何でもないんだ。

 何よりも先に××沖で例の一件を遣付やっつけた時の話だが……慶北丸に引かれた小船で、沖へ揺られて行く途中で早くも親父おやじの顔を見て取った友太郎がハッとしたものだそうだ。そこでもしやと思って親父の図星ずぼしを刺してみると果して「その通りだ。モウ勘弁ならん」と冷笑している。……これはいけない。こうなったら取返しの附かない親父だと思うには思ったが、何ぼ何でも吾輩の一身が案じられたもんだから一生懸命に親父の無鉄砲を諫いさめにかかったが……モウ駄目だった。

「……ナアニ。心配するな。轟先生の泳ぎは神伝流の免許取りだから一所いっしょに沈む気遣いはない。アトで拾い上げて大急ぎで釜山に帰るんだ。そのうちに先生を説伏ときふせて組合の巡邏船、鶏林丸に食糧と油を積んで、その夜よの中うちにズラカッてしまう。真直まっすぐに露領沿海州へ抜けて俺の知っている海岸で冬籠りの準備をする。春になったら砂金採とりだ。誰も寄り付けない絶壁の滝壺の中に一パイ溜まっているのを、お前と二人で見た事が在るだろう。……あすこへ行くんだ……あの瀑布たきの上の方を爆薬ドンでブチ壊して閉塞ふさいでしまえばモウこっちのもんだ。儲かるぜそれあ……轟先生は元来、正直過ぎるからイカン。役人の居る処はドウセイ性に合わん事を御存じないんだ。あんな人を一生貧乏さしといては相済まん。……朝鮮はモウ嫌じゃ嫌じゃ。西比利亜シベリアが取れたら沿海州へ行くと口癖に云うて御座ったから、コレ位、宜ええ機会おりはない。モウ西比利亜には日本軍がワンワン這入っとるから喜んで御座るにきまっとる……それでも嫌なら今の中うちに貴様もデッキに上っとれ。……俺が一人で遣っ付けてくれる。轟先生の演説ぐらいで正気附く野郎等じゃない……」

 という見幕だったのでトテも歯の立てようがなかった。しかし、それでも折角の先生の苦心がこれで打切りになるのか……親父おやじの一代もコレ切りになるのか……といったような事を色々考えているうちに胸が一パイになってしまった。

 ところが虫が知らせたのであろう。そう思っているうちにその言葉が遺言になってしまった。自分も一所に海へタタキ込まれてしまったが、間もなく正気に帰ってみると、水船の舷側にヘバリ付いてブカブカ遣っていることがわかった……ちょうど向側むこうがわだったから甲板デッキの上から見えなかったんだね。おまけにどこにも怪我けが一つしたような感じがしない。

 そこでコンナ処に居ては険呑けんのんだと気が付いたから、出来るだけ深く水の底を潜って、慶北丸の左舷の艙口ハッチから機関室に潜り込んだ。そこいらに干して在った菜なッ葉服ぱふくを着込んで、原油オイルと粉炭を顔に塗付ぬりつけると知らん顔をしてポンプに掛かっていたが、混雑のサナカだったから誰にもわからなかった。スレ違った来島にも気付かれないで、無事に釜山へ帰り着いた……そこで又、吾輩の処へ帰ったら物騒だと考えたから、そのままドン仲間に紛れ込んで、海上を流浪する事十箇月……その片手間に親の讐敵かたきだというので、潜行爆薬モグリハッパの抜け道を探るべく、あらん限りの冒険をこころみていたが、お蔭で字が読めるようになっていた上に、朝鮮語と、柳河語と、東京弁が自由自在に利いたので非常に便利な事が多かった。

 すると又そのうちに吾輩がタッタ一人で、淋しい絶影島まきのしまの離れ家に引込んだ話を風の便りに聞いたので、これには何か仔細わけが在りそうだ。まだ帰るにはチット早いが、ソーッと様子を見てやろうと思って、一番お得意の朝鮮人に化けて帰って来てみると、なつかしい三人の声が聞こえて来る。それが一つ残らずあの世から聞いているような話ばかりなのでタマラなくなってここへ出て来ました。こうなったら、愈々いよいよ先生と死生を共にするばかりです。朝鮮人に化けていたら一所に居ても大丈夫でしょう。親父おやじと同様に使って下さい。ドンナ事でも致しますから親父の讐仇かたきを討たして下さい……という涙ながらの物語りだ。どうだい。今時には珍らしい青年だろう。

 この青年と、吾輩の半出来できの報告書を一所にして提供したら、いい加減お役に立つだろう。この二つを拠所どだいにして君が霊腕を揮ふるったらドンの絶滅期して俟まつべしじゃないか。

 ウンウン。彼かの青年を君が引受けてくれると云うのか。ウンウン。そいつは有難い。東京の夜学校に通わしてくれる。……死んだ親父おやじがドレ位喜ぶか知れないぜ。

 この密告書はアイツの筆跡てに相違ないよ。ここに来て吾輩の窮状を見ると間もなく書上げて、識合しりあいの船頭に頼んで、呼子よぶこから投函さしたものに違いないんだ。コイツが君の手にかかって物をいうとなれば、友吉おやじイヨイヨ以て瞑すべしだ。コレ位大きな復讐はらいせはないからね。

 ああ愉快だ。胸が一パイになった。アハハハ。笑わないでくれ。吾輩決して泣き上戸じゃないつもりだが……オイオイ友。友。友太郎……そこに居るか。チョット出て来い。遠慮する事はない。来いと云うたらここへ来い。アトを閉めて……サア来た……どうだい。立派な青年だろう。今では吾輩の忰みたようなもんだ。御挨拶しろ。御挨拶を……この人が吾輩の親友……有名な斎木検事正だ。ハハハハ。驚いたか。貴様の血で書いた手紙が御役に立ったんだ。そのためにわざわざ斎木君が来てくれたんだ。貴様の親父おやじの仇敵かたきを討ちに……。

 ……何だ何だ。泣く奴があるか……馬鹿……いくつになるんだ。……サア。こっちへ来てお酌をしろ。笑ってお酌をしろといったら。貴様も日本男児じゃないか……アハハハ……。

 斎木君……一杯受けてくれ給え……吾輩も飲むよ。……風速実に四十米突メートル……愉快だ。実に愉快だ。飲んで飲んで飲み死んでも遺憾はないよ……。

「今日こんにち、君を送る、須すべからく酔いを尽すべしイ……明朝、相憶あいおもうも、路みち、漫々たりイ……じゃないか、アハハハハ……」

底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年3月24日第1刷発行

底本の親本:「氷の涯」春秋社

   1935(昭和10)年5月15日発行

※底本の「名画の屏風じょうぶ」を、「名画の屏風びょうぶ」に改めました。

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2003年12月13日作成

2005年5月21日修正

青空文庫作成ファイル:

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瓶詰地獄

夢野久作

 拝呈 時下益々御清栄、奉奉慶賀候けいがたてまつりそうろう。陳者のぶれば、予かねてより御通達の、潮流研究用と覚おぼしき、赤封蝋ふうろう附きの麦酒ビール瓶、拾得次第届告とどけつげ仕る様、島民一般に申渡置候処もうしわたしおきそうろうところ、此程、本島南岸に、別小包の如き、樹脂封蝋附きの麦酒ビール瓶が三個漂着致し居るを発見、届出申候とどけいでもうしそうろう。右は何いずれも約半里、乃至ないし、一里余を隔てたる個所に、或は砂に埋もれ、又は岩の隙間に固く挟まれ居りたるものにて、よほど以前に漂着致したるものらしく、中味も、御高示の如き、官製端書はがきとは相見えず、雑記帳の破片様のものらしく候為め、御下命の如き漂着の時日等の記入は不可能と被為存候ぞんぜられそうろう。然れ共、尚なお何かの御参考と存じ、三個とも封瓶のまま、村費にて御送附申上候間もうしあげそうろうあいだ、何卒なにとぞ御落手相願度あいねがいたく、此段得貴意候きいをえそうろう 敬具

    月   日

××島村役場㊞

 海洋研究所 御中

◇第一の瓶の内容

 ああ………この離れ島に、救いの船がとうとう来ました。

 大きな二本のエントツの舟から、ボートが二艘、荒波の上におろされました。舟の上から、それを見送っている人々の中にまじって、私たちのお父さまや、お母さまと思われる、なつかしいお姿が見えます。そうして……おお……私たちの方に向って、白いハンカチを振って下さるのが、ここからよくわかります。

 お父さまや、お母さまたちはきっと、私たちが一番はじめに出した、ビール瓶の手紙を御覧になって、助けに来て下すったに違いありませぬ。

 大きな船から真白い煙が出て、今助けに行くぞ……というように、高い高い笛の音が聞こえて来ました。その音が、この小さな島の中の、禽鳥とりや昆虫むしを一時に飛び立たせて、遠い海中わだなかに消えて行きました。

 けれども、それは、私たち二人にとって、最後の審判の日の箛らっぱよりも怖ろしい響ひびきで御座いました。私たちの前で天と地が裂けて、神様のお眼の光りと、地獄の火焔ほのおが一時いっときに閃ひらめき出たように思われました。

 ああ。手が慄ふるえて、心が倉皇あわてて書かれませぬ。涙で眼が見えなくなります。

 私たち二人は、今から、あの大きな船の真正面に在る高い崖の上に登って、お父様や、お母様や、救いに来て下さる水夫さん達によく見えるように、シッカリと抱き合ったまま、深い淵の中に身を投げて死にます。そうしたら、いつも、あそこに泳いでいるフカが、間もなく、私たちを喰べてしまってくれるでしょう。そうして、あとには、この手紙を詰めたビール瓶が一本浮いているのを、ボートに乗っている人々が見つけて、拾い上げて下さるでしょう。

 ああ。お父様。お母様。すみません。すみません、すみません、すみません。私たちは初めから、あなた方の愛子いとしごでなかったと思って諦らめて下さいませ。

 又、せっかく、遠い故郷ふるさとから、私たち二人を、わざわざ助けに来て下すった皆様の御親切に対しても、こんなことをする私たち二人はホントにホントに済みません。どうぞどうぞお赦ゆるし下さい。そうして、お父様と、お母様に懐いだかれて、人間の世界へ帰る、喜びの時が来ると同時に、死んで行かねばならぬ、不倖ふしあわせな私たちの運命を、お矜恤われみ下さいませ。

 私たちは、こうして私たちの肉体と霊魂たましいを罰せねば、犯した罪の報償つぐのいが出来ないのです。この離れ島の中で、私たち二人が犯した、それはそれは恐ろしい悖戻よこしまの報責むくいなのです。

 どうぞ、これより以上うえに懺悔することを、おゆるし下さい。私たち二人はフカの餌食になる価打ねうちしか無い、狂妄しれものだったのですから……。

 ああ。さようなら。

神様からも人間からも救われ得ぬ

哀しき二人より

お父様

お母様

皆々様

◇第二の瓶の内容

 ああ。隠微かくれたるに鑒みたまう神様よ。

 この困難くるしみから救わるる道は、私が死ぬよりほかに、どうしても無いので御座いましょうか。

 私たちが、神様の足凳あしだいと呼んでいる、あの高い崖の上に私がたった一人で登って、いつも二、三匹のフカが遊び泳いでいる、あの底なしの淵の中を、のぞいてみた事は、今までに何度あったかわかりませぬ。そこから今にも身を投げようと思ったことも、いく度たびであったか知れませぬ。けれども、そのたんびに、あの憐憫あわれなアヤ子の事を思い出しては、霊魂たましいを滅亡ほろぼす深いため息をしいしい、岩の圭角かどを降りて来るのでした。私が死にましたならば、あとから、きっと、アヤ子も身を投げるであろうことが、わかり切っているからでした。

       *

 私と、アヤ子の二人が、あのボートの上で、附添いの乳母ばあや夫妻や、センチョーサンや、ウンテンシュさん達を、波に浚さらわれたまま、この小さな離れ島に漂ながれついてから、もう何年になりましょうか。この島は年中夏のようで、クリスマスもお正月も、よくわかりませぬが、もう十年ぐらい経っているように思います。

 その時に、私たちが持っていたものは、一本のエンピツと、ナイフと、一冊のノートブックと、一個のムシメガネと、水を入れた三本のビール瓶と、小さな新約聖書バイブルが一冊と……それだけでした。

 けれども、私たちは幸福しあわせでした。

 この小さな、緑色に繁茂しげり栄えた島の中には、稀まれに居る大きな蟻ありのほかに、私たちを憂患なやます禽とり、獣けもの、昆虫はうものは一匹も居ませんでした。そうして、その時、十一歳であった私と、七ツになったばかりのアヤ子と二人のために、余るほどの豊饒ゆたかな食物が、みちみちておりました。キュウカンチョウだの鸚鵡おうむだの、絵でしか見たことのないゴクラク鳥だの、見たことも聞いたこともない華麗はなやかな蝶だのが居りました。おいしいヤシの実だの、パイナプルだの、バナナだの、赤と紫の大きな花だの、香気かおりのいい草だの、又は、大きい、小さい鳥の卵だのが、一年中、どこかにありました。鳥や魚なぞは、棒切れでたたくと、何ほどでも取れました。

 私たちは、そんなものを集めて来ると、ムシメガネで、天日てんぴを枯れ草に取って、流れ木に燃やしつけて、焼いて喰べました。

 そのうちに島の東に在る岬と磐いわの間から、キレイな泉が潮の引いた時だけ湧わいているのを見付けましたから、その近くの砂浜の岩の間に、壊れたボートで小舎こやを作って、柔らかい枯れ草を集めて、アヤ子と二人で寝られるようにしました。それから小舎こやのすぐ横の岩の横腹を、ボートの古釘で四角に掘って、小さな倉庫くらみたようなものを作りました。しまいには、外衣うわぎも裏衣したぎも、雨や、風や、岩角に破られてしまって、二人ともホントのヤバン人のように裸体はだかになってしまいましたが、それでも朝と晩には、キット二人で、あの神様の足凳あしだいの崖に登って、聖書バイブルを読んで、お父様やお母様のためにお祈りをしました。

 私たちは、それから、お父様とお母様にお手紙を書いて大切なビール瓶の中の一本に入れて、シッカリと樹脂やにで封じて、二人で何遍も何遍も接吻くちづけをしてから海の中に投げ込みました。そのビール瓶は、この島のまわりを環めぐる、潮うしおの流れに連れられて、ズンズンと海中わだなか遠く出て行って、二度とこの島に帰って来ませんでした。私たちはそれから、誰かが助けに来て下さる目標めじるしになるように、神様の足凳あしだいの一番高い処へ、長い棒切れを樹たてて、いつも何かしら、青い木の葉を吊しておくようにしました。

 私たちは時々争論いさかいをしました。けれどもすぐに和平なかなおりをして、学校ゴツコや何かをするのでした。私はよくアヤ子を生徒にして、聖書の言葉や、字の書き方を教えてやりました。そうして二人とも、聖書を、神様とも、お父様とも、お母様とも、先生とも思って、ムシメガネや、ビール瓶よりもズット大切にして、岩の穴の一番高い棚の上に上げておきました。私たちは、ホントに幸福しあわせで、平安やすらかでした。この島は天国のようでした。

       *

 かような離れ島の中の、たった二人切りの幸福しあわせの中に、恐ろしい悪魔が忍び込んで来ようと、どうして思われましょう。

 けれども、それは、ホントウに忍び込んで来たに違いないのでした。

 それはいつからとも、わかりませんが、月日の経たつのにつれて、アヤ子の肉体が、奇蹟のように美しく、麗沢つややかに長そだって行くのが、アリアリと私の眼に見えて来ました。ある時は花の精のようにまぶしく、又、ある時は悪魔のようになやましく……そうして私はそれを見ていると、何故かわからずに思念おもいが曚昧くらく、哀しくなって来るのでした。

「お兄さま…………」

 とアヤ子が叫びながら、何の罪穢けがれもない瞳めを輝かして、私の肩へ飛び付いて来るたんびに、私の胸が今までとはまるで違った気もちでワクワクするのが、わかって来ました。そうして、その一度一度毎ごとに、私の心は沈淪ほろびの患難なやみに付わたされるかのように、畏懼おそれ、慄ふるえるのでした。

 けれども、そのうちにアヤ子の方も、いつとなく態度ようすがかわって来ました。やはり私と同じように、今までとはまるで違った…………もっともっとなつかしい、涙にうるんだ眼で私を見るようになりました。そうして、それにつれて何となく、私の身体からだに触さわるのが恥かしいような、悲しいような気もちがするらしく見えて来ました。

 二人はちっとも争論いさかいをしなくなりました。その代り、何となく憂容うれいがおをして、時々ソッと嘆息ためいきをするようになりました。それは、二人切りでこの離れ島に居るのが、何ともいいようのないくらい、なやましく、嬉しく、淋しくなって来たからでした。そればかりでなく、お互いに顔を見合っているうちに、眼の前が見る見る死蔭かげのように暗くなって来ます。そうして神様のお啓示しめしか、悪魔の戯弄からかいかわからないままに、ドキンと、胸が轟とどろくと一緒にハッと吾われに帰るような事が、一日のうち何度となくあるようになりました。

 二人は互いに、こうした二人の心をハッキリと知り合っていながら、神様の責罰いましめを恐れて、口に出し得ずにいるのでした。万一もし、そんな事をし出かしたアトで、救いの舟が来たらどうしよう…………という心配に打たれていることが、何にも云わないまんまに、二人同志の心によくわかっているのでした。

 けれども、或る静かに晴れ渡った午後の事、ウミガメの卵を焼いて食べたあとで、二人が砂原に足を投げ出して、はるかの海の上を辷すべって行く白い雲を見つめているうちにアヤ子はフイと、こんな事を云い出しました。

「ネエ。お兄様。あたし達二人のうち一人が、もし病気になって死んだら、あとは、どうしたらいいでしょうネエ」

 そう云ううちアヤ子は、面かおを真赤にしてうつむきまして、涙をホロホロと焼け砂の上に落しながら、何ともいえない、悲しい笑い顔をして見せました。

       *

 その時に私が、どんな顔をしたか、私は知りませぬ。ただ死ぬ程息苦しくなって、張り裂けるほど胸が轟いて、唖のように何の返事もし得ないまま立ち上りますと、ソロソロとアヤ子から離れて行きました。そうしてあの神様の足凳あしだいの上に来て、頭を掻かき挘むしり掻き挘りひれ伏しました。

「ああ。天にまします神様よ。

 アヤ子は何も知りませぬ。ですから、あんな事を私に云ったのです。どうぞ、あの処女むすめを罰しないで下さい。そうして、いつまでもいつまでも清浄きよらかにお守り下さいませ。そうして私も…………。

 ああ。けれども…………けれども…………。

 ああ神様よ。私はどうしたら、いいのでしょう。どうしたらこの患難なやみから救われるのでしょう。私が生きておりますのはアヤ子のためにこの上もない罪悪つみです。けれども私が死にましたならば、尚更なおさら深い、悲しみと、苦しみをアヤ子に与えることになります、ああ、どうしたらいいでしょう私は…………。

 おお神様よ…………。

 私の髪毛かみのけは砂にまみれ、私の腹は岩に押しつけられております。もし私の死にたいお願いが聖意みこころにかないましたならば、只今すぐに私の生命いのちを、燃ゆる閃電いなずまにお付わたし下さいませ。

 ああ。隠微かくれたるに鑒給みたまう神様よ。どうぞどうぞ聖名みなを崇あがめさせ給え。み休徴しるしを地上にあらわし給え…………」

 けれども神様は、何のお示しも、なさいませんでした。藍色の空には、白く光る雲が、糸のように流れているばかり…………崖の下には、真青まっさおく、真白く渦捲うずまきどよめく波の間を、遊び戯れているフカの尻尾しっぽやヒレが、時々ヒラヒラと見えているだけです。

 その青澄あおずんだ、底無しの深淵ふちを、いつまでもいつまでも見つめているうちに、私の目は、いつとなくグルグルと、眩暈くるめき初めました。思わずヨロヨロとよろめいて、漂い砕くる波の泡の中に落ち込みそうになりましたが、やっとの思いで崖の端に踏み止まりました。…………と思う間もなく私は崖の上の一番高い処まで一跳びに引き返しました。その絶頂に立っておりました棒切れと、その尖端さきに結びつけてあるヤシの枯れ葉を、一思ひとおもいに引きたおして、眼の下はるかの淵に投げ込んでしまいました。

「もう大丈夫だ。こうしておけば、救いの船が来ても通り過ぎて行くだろう」

 こう考えて、何かしらゲラゲラと嘲り笑いながら、残狼おおかみのように崖を馳け降りて、小舎こやの中へ馳け込みますと、詩篇の処を開いてあった聖書を取り上げて、ウミガメの卵を焼いた火の残りの上に載せ、上から枯れ草を投げかけて焔を吹き立てました。そうして声のある限り、アヤ子の名を呼びながら、砂浜の方へ馳け出して、そこいらを見まわしました…………が…………。

 見るとアヤ子は、はるかに海の中に突き出ている岬の大磐おおいわの上に跪ひざまずいて、大空を仰ぎながらお祈りをしているようです。

       *

 私は二足三足うしろへ、よろめきました。荒浪に取り捲かれた紫色の大磐おおいわの上に、夕日を受けて血のように輝いている処女おとめの背中の神々こうごうしさ…………。

 ズンズンと潮うしおが高まって来て、膝の下の海藻かいそうを洗い漂わしているのも心付かずに、黄金色こがねいろの滝浪たきなみを浴びながら一心に祈っている、その姿の崇高けだかさ…………まぶしさ…………。

 私は身体からだを石のように固こわばらせながら、暫しばらくの間、ボンヤリと眼をみはっておりました。けれども、そのうちにフイッと、そうしているアヤ子の決心がわかりますと、私はハッとして飛び上がりました。夢中になって馳け出して、貝殻かいがらばかりの岩の上を、傷だらけになって辷すべりながら、岬の大磐おおいわの上に這い上りました。キチガイのように暴あれ狂い、哭なき喚さけぶアヤ子を、両腕にシッカリと抱だき抱かかえて、身体からだ中血だらけになって、やっとの思いで、小舎こやの処へ帰って来ました。

 けれども私たちの小舎こやは、もうそこにはありませんでした。聖書や枯れ草と一緒に、白い煙となって、青空のはるか向うに消え失せてしまっているのでした。

       *

 それから後のちの私たち二人は、肉体からだも霊魂たましいも、ホントウの幽暗くらやみに逐おい出されて、夜となく、昼となく哀哭かなしみ、切歯はがみしなければならなくなりました。そうしてお互い相抱き、慰さめ、励まし、祈り、悲しみ合うことは愚か、同じ処に寝る事さえも出来ない気もちになってしまったのでした。

 それは、おおかた、私が聖書を焼いた罰なのでしょう。

 夜になると星の光りや、浪の音や、虫の声や、風の葉ずれや、木の実の落ちる音が、一ツ一ツに聖書の言葉を咡ささやきながら、私たち二人を取り巻いて、一歩一歩と近づいて来るように思われるのでした。そうして身動き一つ出来ず、微睡まどろむことも出来ないままに、離れ離れになって悶もだえている私たち二人の心を、窺視うかがいに来るかのように物怖ろしいのでした。

 こうして長い長い夜が明けますと、今度は同じように長い長い昼が来ます。そうするとこの島の中に照る太陽も、唄う鸚鵡おうむも、舞う極楽鳥も、玉虫も、蛾も、ヤシも、パイナプルも、花の色も、草の芳香かおりも、海も、雲も、風も、虹も、みんなアヤ子の、まぶしい姿や、息苦しい肌の香かとゴッチャになって、グルグルグルグルと渦巻き輝やきながら、四方八方から私を包み殺そうとして、襲いかかって来るように思われるのです。その中から、私とおんなじ苦しみに囚とらわれているアヤ子の、なやましい瞳めが、神様のような悲しみと悪魔のようなホホエミとを別々に籠こめて、いつまでもいつまでも私を、ジイッと見つめているのです。

       *

 鉛筆が無くなりかけていますから、もうあまり長く書かれません。

 私は、これだけの虐遇なやみと迫害くるしみに会いながら、なおも神様の禁責いましめを恐れている私たちのまごころを、この瓶に封じこめて、海に投げ込もうと思っているのです。

明日あしたにも悪魔の誘惑いざないに負けるような事がありませぬうちに…………。

 せめて二人の肉体からだだけでも清浄きよらかでおりますうちに……。

       *

 ああ神様…………私たち二人は、こんな苛責くるしみに会いながら、病気一つせずに、日に増まし丸々と肥って、康強すこやかに、美しく長そだって行くのです、この島の清らかな風と、水と、豊穣ゆたかな食物かてと、美しい、楽しい、花と鳥とに護られて…………。

 ああ。何という恐ろしい責め苦でしょう。この美しい、楽しい島はもうスッカリ地獄です。

 神様、神様。あなたはなぜ私たち二人を、一思いに屠殺ころして下さらないのですか…………。

──太郎記す………
◇第三の瓶の内容

 オ父サマ。オ母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニ、コノシマニ、クラシテイマス。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。

市川 太郎
イチカワ アヤコ

底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店

   1998(平成10)年4月10日初版発行

初出:「猟奇」

   1928(昭和3)年10月

入力:林裕司

校正:浜野 智

1998年11月10日公開

2012年12月19日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

ビール会社征伐

夢野久作

 毎度、酒のお話で申訳ないが、今思い出しても腹の皮がピクピクして来る左党の傑作として記録して置く必要があると思う。

 九州福岡の民政系新聞、九州日報社が政友会万能時代で経営難に陥っていた或る夏の最中の話……玄洋社張りの酒豪や仙骨がズラリと揃っている同社の編集部員一同、月給がキチンキチンと貰えないので酒が飲めない。皆、仕事をする元気もなく机の周囲まわりに青褪めた豪傑面を陳列して、アフリアフリと死にかかった川魚みたいな欠伸をリレーしいしい涙ぐんでいる光景は、さながらに飢饉年の村会をそのままである。どうかして存分に美味うまい酒を飲む知恵はないかと言うので、出る話はその事バッカリ。そのうちに窮すれば通ずるとでも言うものか、一等呑助の警察廻り君が名案を出した。

 今でも福岡に支社を持っている××麦酒ビール会社は当時、九州でも一流の庭球の大選手を網羅していた。九州の実業庭球界でも××麦酒の向う処一敵なしと言う位で、同支社の横に千円ばかり掛けた堂々たる庭球コートを二つ持っていた。

「あの××麦酒に一つ庭球試合を申込んで遣ろうじゃないか」

 と言うと、皆総立ちになって賛成した。

「果して御馳走に麦酒が出るか出ないか」

 と遅疑する者もいたが、

「出なくともモトモトじゃないか」

 と言うので一切の異議を一蹴して、直ぐに電話で相手にチャレンジすると、

「ちょうど選手も揃っております。いつでも宜しい」

 と言う色よい返事である。

「それでは明日が日曜で夕刊がありませんから午前中にお願いしましょう。午後は仕事がありますから……五組で五回ゲーム。午前九時から……結構です。どうぞよろしく……」

 という話が決定きまった。麦酒会社でも抜け目はない、新聞社と試合をすれば新聞に記事が出る……広告になると思ったものらしいが、それにしてもこっちの実力がわからないので作戦を立てるのに困ったと言う。

 困った筈である。実はこっちでもヒドイ選手難に陥っていた。モトモトテニスらしいものが出来るのは、正直のところ一滴も酒の飲めない筆者の一組だけで、ほかは皆、支那の兵隊と一般、テニスなんてロクに見た事もない連中が吾も吾もと咽喉のどを鳴らして参加するのだから、鬼神壮烈に泣くと言おうか何と言おうか。主将たる筆者が弱り上げ奉ったこと一通りでない。

「オイ。主将。貴様は一滴も飲めないのだから選手たる資格はない。俺が大将になって遣るから貴様は退のけ。負けたら俺が柔道四段の腕前で相手をタタキ付けて遣るから。なあ」

 と言うようなギャング張りが出て来たりして、主将のアタマがすっかり混乱してしまった。仕方なしにそいつを選手外のマネージャー格に仮装して同行を許すような始末……それから原稿紙にテニス・コートの図を描いて一同に勝敗の理屈を説明し始めたが、真剣に聞く奴は一人もいない。

「やってみたら、わかるだろう」

 とか何とか言ってドンドン帰ってしまったのには呆れた。意気既に敵を呑んでいるらしかった。

 翌る朝の日曜は青々と晴れたステキな庭球日和であった。方々から借り集めたボロラケットの五、六本を束にした奴を筆者が自身に担いで門を出た時には、お負けなしのところ四条畷なわてに向った楠正行まさつらの気持がわかった。それから麦酒会社のコートに来てみると、新しくニガリを打って眩い白線がクッキリと引き廻して在る。その周囲を重役以下男女社員が犇々ひしひしと取り囲んで、敵選手の練習を見ている処へ乗り込んだ時には、何かなしに全身を冷汗が流れた。早速の機転で、時間がないからと言って、こっちの選手の練習を謝絶した。

 作戦として筆者の主将組が劈頭へきとうに出た。せめて一組でも倒して置きたい。アワよくば優退を残せるかも知れないと言う、自惚まじりの情ない了簡であったが、見事にアテが外れて、向うも主将の結城、本田というナンバー・ワン組が出て来たのには縮み上った。それだけで手も足も出ないまま三─〇のストレートで敗退した。後のミットモナサ……。あんなにもビールが飲みたかったのかと思うと眼頭が熱くなるくらいである。

 先方は揃いの新しいユニフォームをチャンと着ているのに、こちらはワイシャツにセイラ・パンツ、古足袋、汗じみた冬中折れという街頭のアイスクリーム屋式が一番上等で、靴のままコートに上って叱られるもの。派手なメリンスの襦袢に赤い猿又一つ。西洋手拭の頬冠りというチンドン屋式。中には上半身裸体で屑屋みたいな継ぎハギの襤褸ぼろ股引を突込んだ向う鉢巻で「サア来い」と躍り出るので、審判に雇われた大学生が腹を抱えて高い腰掛から降りて来るようなこと。むろんラケットの持ち方なんぞ知っていよう筈がない。サーブからして見送りのストライクばかりで、タマタマ当ったと思うと鉄網越しのホームラン……それでも本人は勝ったのか敗けたのか解らないまま、いつまでもコートの上でキョロキョロしている。悠々とゴム〓(「毛にょう+(鞠-革)」)を拾ったり何かしているので、相手がコートに匍はい付いて笑っているが、それでもまだわからない。

「ナアーンダイ。敗けたのか」

 と頬を膨らましてスゴスゴ引き退るトタンに大爆笑と大拍手が敵味方から一時に湧き返るという、空前絶後の不可思議な盛況裡に、無事に予定の退却となった。

 それから予定の通りにコート外の草原の天幕テント張りの中でビールと抓み肴が出た。小使が二人で五十ガロン入の樽を抱えて来た時には選手一同、思わず嬉しそうな顔を見合わせた。同時に主将たる筆者は胸がドキドキとした。インチキが暴露ばれたまま成功したのだから……。

「ええ。樽にすると小さく見えますがね。この樽一つ在れば五十人から百人ぐらいの宴会ならイツモ余りますので……どうぞ御遠慮なくお上り下さい」

 と言う重役連の挨拶であったが、サテ、コップが配られると、さあ飲むわ飲むわ。筆者を除いた九名の選手と仮装マネージャーが、文字通りに長鯨の百川を吸うが如くである。

「ちょっと、コップでは面倒臭いですから、そのジョッキで……」

 と言うなり七合入のジョッキで立て続けに息も吐つかせない。

「お見事ですなあ。もう一つ……」

 と重役の一人が味方の仮装マネージャーを浴びせ倒しに掛かっていたが、ナカナカ腰が砕けない模様である。そのうちに樽の中が泡ばかりになりかけて来ると、重役連中が一人逃げ二人逃げ、しまいには相手の選手までいなくなって、カンカン日の照る草原に天幕と空樽と、コップの林と、入れ代り立ち代り小便をする味方の選手ばかりになってしまった。中にも仮装マネージャーを先頭にラケットを両手に持った三人が、靴穿きのままコートに上って、

「勝った方がええ。勝った方がええ」

 とダンスを踊っている。何が勝ったんだかわからない。苦々しい奴だと思っている筆者を皆して引っぱって、重役室に挨拶に行った。仕方なしに筆者が頭を下げて、

「どうも今日は御馳走様になりまして」

 と言って切り上げようとすると、背後から酔眼朦朧たる仮装マネージャーが前に出て来て、わざとらしい舌なめずりをして見せた。銅羅声を張り上げた。

「ええ。午後の仕事がありませんと、もっとユックリ頂戴したかったのですが、残念です」

 と止刺刀とどめを刺した。

 しかし往来に出るとさすがに一同、帽子を投げ上げラケットを振り廻して感激した。

「××麦酒会社万歳……九州日報万歳……」

「ボールは子供の土産に貰って行きまアス」

 翌日の新聞に記事が出たかどうか記憶しない。

底本:「夢野久作全集7」三一書房

   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行

   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行

初出:「モダン日本 6巻8号」

   1935(昭和10)年8月

入力:川山隆

校正:土屋隆

2007年7月23日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

ビルディング

夢野久作

 巨大な四角いビルディングである。

 窓という窓が残らずピッタリと閉め切ってあって、室へやという室が全然、暗黒を封じている。

 その黒い、巨大な、四角い暗黒の一角に、黄色い、細い弦月が引っかかって、ジリ、ジリ、と沈みかかっている時刻である。

 私はその暗黒の中心に在る宿直室のベッドの上に長くなって、隣室と境目の壁に頭を向けたまま、タッタ一人でスヤスヤと眠りかけている。

 私は疲れている。考える力もないくらい睡ねむたがっている。

 私の意識はグングンと零ゼロの方向に近づきつつある。無限の時空の中に無窮の抛物線を描いて落下しつつある。

 その時に壁一重ひとえ向うの室からスヤスヤという寝息が聞こえて来た。私の寝息にピッタリと調子を合せた、私ソックリの寝息の音が……静かに……しずかに……。

 ……壁一重向うの室にモウ一人の私が寝ているのだ。私の頭の方に頭を向けて、私の寝姿を鏡に映したように正反対の方向に足を伸ばしつつ、スヤスヤと睡りかけているのだ。

 ……その壁の向うの私も疲れている。考える力もないくらい睡ねむたがっている。そうしてその意識がグングンと零の方向に近付きつつある。無限の時空の中に、無窮の抛物線を描いて……グングンと……。

 私はガバと跳ね起きた。眼がパッチリと醒めた。隣の室が覗のぞいてみたくなった。

 しかし私は闇暗くらやみの中で半身を起したまま躊躇ちゅうちょした。もし隣の室を覗いた時に、私と同じ私がスヤスヤと寝ていたとしたら、それはドンナに恐ろしい事だろう……とはいえ又、万に一つ隣の室に誰も居なかったとしたら、その恐ろしさが何層倍するだろう……と……。

 私はそう思い思い何秒か……もしくは何分間か、眼の前の闇暗くらやみの核心をジーッと凝視していた。凝視していた……。

 ……と……そのうちに或る突然な決心が私に襲いかかった。その決心に蹴飛ばされたように私は、素跣足すはだしのまま寝台を飛び降りた。宿直室を飛び出して、隣の室に通ずる、暗黒の廊下を突進した。

 ……するとその途中で何かしら真黒い、人間のようなものと真正面から衝突したように思うと、二つの身体からだがドターンと人造石の床の上にたおれた。そのままウームと気絶してしまった。

 巨大な深夜のビルディング全体が……アハ……アハ……アハ……と笑う声をハッキリと耳にしながら……。

底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年8月24日第1刷発行

入力:柴田卓治

校正:しず

2000年5月19日公開

2003年10月24日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

豚吉とヒョロ子

夢野久作

豚吉ぶたきちは背せいの高さが当り前の半分位しかないのに、その肥り方はまた普通あたりまえの人の二倍の上もあるので、村の人がみんなで豚吉という名をつけたのです。又、ヒョロ子も同じ村に生れた娘でしたが、背丈せたけが当り前の人の倍もあるのに、身体からだはステッキのように細くて瘠やせていましたので、こんな名前を付けられたのです。

 村の人はこの二人を珍らしがってヤイヤイ騒ぎますので、二人は外へ出ることも出来ません。そのうちに二人とも立派な大人になりました。

 ある時、村の人たちの寄り合あいがありましたが、その時に誰か一人が、

「あの二人を夫婦にしたらなおなお珍らしかろう。村の名物になると思うがどうだ」

 と云いますと、みんな一時に、

「それがいいそれがいい」

 と手をたたいてよろこびまして、そこに居た二人の両親にこの事を話しますと、両親も、

「村の人がみんなですすめられるのならよろしゅう御座います」

 と云いました。それから二人に聞いて見ますと、二人はまだ会ったことはありませんが、かねてからお互に人と違った身体からだを持っていることを思いやって、両方で可愛そうに思っていたところですから、喜んで承知いたしました。

 村の人はいよいよ喜びました。

「サア面白いぞ。世界中にない珍らしい夫婦がこの村に出来るのだ。村中で寄ってたかって大祝いに祝え」

 というので、大騒ぎをやって用意をしましたので、まるで殿様の御婚礼のような大仕かけな婚礼の支度が出来ました。

 そうして、いよいよ婚礼の儀式がある晩となりますと、村中の人は皆、あらん限りの立派な着物を着飾って、神様の前の広場に集まりました。

 神様の前の広場には、作り花で一パイに飾られたお儀式の場所が出来ていまして、そのうしろに出来た宴会場には、村の人々が作った御馳走やお酒が一パイに並んでいます。まわりには篝火かがりびがドンドン燃やしてありますので、そこいらは真昼のように明かるく見えました。

 そのうちに、町から来た楽隊が賑にぎやかな音楽を初めて、時間が来たことを知らせましたので、みんな神様の前に集まって、礼服を着た神主と一所に、珍らしい夫婦の豚吉とヒョロ子が来るのを今か今かと待ちました。

 けれども、いくら待っても夫婦の姿は見えませんでした。

 そのうちに、二人を迎えに行った美しい花馬車が二台帰って来ますと、それには二人の姿は見えず、二人の両親が泣きながら乗っておりましたが、みんなの前に来ますと、

「皆さん、申しわけありません。二人は逃げてしまいました」

 と云いました。

「サア、大変だ」

 と村中の人は騒ぎ出して、儀式も御馳走も打ち棄てて、大勢の人々が夜通しがかりで探しましたが、二人の姿はどこにも見えませんでした。

 豚吉とヒョロ子は、こうして大勢の人々が騒いでいる時、村からずっと遠い山道を手を引き合ってのぼっておりました。

「ふたりで夫婦になったら、今迄よりもっともっと恥かしくなるよ」

「ほんとですわねえ。とても村には居られませんよ。けれどもみんな心配しているでしょうね」

「しかたがない。こうして出かけなければ、一生涯に外に出る時は無いからね」

「ほんとに情のう御座います。どうかして私たちの身体からだを当り前の人のようにする工夫は無いのでしょうか。私はいつもそのことを思うと悲しくて……」

 とヒョロ子は泣き出しました。

「泣くな泣くな」

 豚吉は慰さめました。

「それはおれでも同じことだ。今に都に行ったらば、よいお医者にかかって治してもらってやるから、泣くな泣くな」

 こう云ってあるいているうちに、二人は山を越えて広い街道に出ますと、夜が明けました。

 豚吉は今まで威張っておりましたが、ここまで来ると、身体からだが肥っておりますのでヘトヘトに疲れてしまいました。

「おれあもうあるけない」

 と豚吉は泣きそうな声で云いました。

「まあ、あなたは何て弱い方でしょう。私がおぶってあげましょうか。あたしはこんなに瘠せてても、力はトテモ強いんですよ」

「馬鹿なことを云うもんじゃない。おれは人の三倍も四倍も重たいんだぞ。そんなことをして、大切なお前が二つに折れでもしたら大変じゃないか」

「いいえ、大丈夫ですよ。私は人の五倍も六倍も力があるのですから」

「いけないいけない。そんなことをしたらなお人に笑われる。それより休んだ方がいい。ああ、くたびれた」

「でも、あとから村の人が追っかけて来ますよ」

「虎が追っかけて来たって、おれはもう動くことが出来ない。休もう休もう」

 と云ううちに、そこの草の上にドタンと尻もちをつきました。

 ヒョロ子は困ってしまって、立ったまま四方を見まわしますと、ずっと遠方から馬車が一台来るのが見えました。ヒョロ子は喜ぶまいことか、大声をあげて、

「馬車屋サーン。早く来て頂戴よ──」

 とハンケチを振りました。

「何、馬車が来た」

 と豚吉も立ち上りましたが、背が低いので見えません。

「何だ、草ばかりで見えやしない」

「そんなことがあるもんですか。ソレ御覧なさい」

 と云ううちに、豚吉を抱えて眼よりも高くさし上げました。

「アッ、見えた見えた。オーイ、馬車屋ア──。早く来──イ」

 と豚吉も喜んでハンケチを振りました。

 これを見た馬車屋のおやじはビックリしました。

 大変に高い、大きな恰好をした人間が呼んでいる。早く行って見ようと思いましたので、馬の尻を鞭でたたいて宙を飛ばしてかけつけました。

「やあ、これあ珍しい御夫婦だ。おれああんた方のような珍らしい御夫婦は初めて見た。どうもえらく高い人だな。別嬪べっぴんさんの方はまるで棹さおのようだ。それに又、旦那様の肥って御座ること、どうだ。まるで手まりのようだ」

 と馬車屋は大きな声で云いながら近寄って来ましたので、夫婦は真赤になってしまいました。

「あたしはこんな馬車屋さんの馬車には乗らない。今にどんなことを云ってひやかすかわからないから」

 とヒョロ子は云いました。

「馬鹿を云え。一所に乗って行かなければ何にもならないじゃないか……。どうだい、馬車屋さん。これから町まで倍のお金を払うから、大急ぎで乗せて行ってくれないか」

 と云いました。

 馬車屋は大きな手をふって云いました。

「滅相な。お金なんぞは一文も要りません。あんた方のような珍らしい夫婦を乗せるのは一生の話の種だ。さあさあ、乗ったり乗ったり」

 と云ううちに、馬車のうしろの戸をあけてくれました。

 ところが、その入り口が小さいので、豚吉の肥った身体からだがどうしても這入りません。しかたがありませんから、馬車の前の馭者台ぎょしゃだいの処にお爺さんと並んで乗って、ヒョロ子だけ中に這入らせようとしますと、天井が低いので、ヒョロ子がしゃがんでも頭が支つかえます。そればかりでなく、豚吉が右側に乗ると馬車が右に引っくり返りそうになり、左に乗ると左側の車の心棒が曲りそうになります。

「これあ大変なお客様だ。折角無代価ただで乗ってもらおうと思っているのに、二人共乗れないとは困ったな」

「おれも乗りたいけれども、これじゃ仕方がない」

「もうよしましょうや。あなたも些すこし辛棒しておあるきなさいよ」

 こんなことを云っているうちに、馬車屋のお爺さんは不意に手をポンとたたいて、

「うまいことを思い付いた。二人とも馬車の屋根に乗んなさい。私がソロソロあるかせるから」

「ウン、それはいい思い付きだ」

 と豚吉もよろこびました。けれども背が低いので登ることが出来ません。

 それを見たヒョロ子は、イキナリ豚吉をうしろから抱かかえて、ヒョイと馬車の屋根に乗せまして、自分も飛び上がりました。

 馬車屋のお爺さんはビックリして眼をまん丸にしていました。

 馬車が動き出すと、屋根の上がまん丸くなって今にも落ちそうになりますので、夫婦はしっかり抱き合っていなければなりません。

 そのうちに一つの村に来ますと、サア大変です。村の入り口に遊んでいた子供たちがすぐに見つけて、

「ヤア。定さだっぽの馬車の上に長い長い女と短い短い男と乗っている。おもしろいおもしろい」

 と村へ走って帰りましたので、ちょうど朝御飯をたべていた人達は、皆一時に表に飛び出しました。見ると成る程、今までに見たことのない奇妙な夫婦が、馬車の上に乗ってソロリソロリとやって来ますので、皆不思議がってワイワイ云い初めました。

「珍らしい夫婦だな」

「兄妹きょうだいだろうか」

「女の方は飴あめの人形を引き延したようだ」

「男の方はまるで踏ふみ潰つぶしたようだ」

「どこへ行く人だろう」

「都へ見世物になりに行くんだろう」

「見世物になったら大評判だろうな」

「今なら無料ただだ」

「ヤア無料ただの見世物だ。みんな、来い来い。世界一の珍らしい夫婦だ。無料ただだ無料だ」

 馬車の上からこれをきいた豚吉夫婦は真赤になって憤おこりましたが、今にも屋根から落ちそうなのでどうすることも出来ません。

 けれどもヒョロ子はとうとう我慢し切れなくなって、馬車屋のお爺さんの横に掛けてあった鞭むちを取ると、いきなり馬のお尻を力一パイ打ちました。

 豚吉とヒョロ子を乗せた馬はヒョロ子にいきなり尻を打たれましたので、ビックリしてドンドン駈け出しますと、間もなく村を出てしまいました。

 ところが豚吉は、今まで馬車がゆっくりあるいてさえ落ちそうであったのに、それが矢のように走り出したのですからたまりません。

「アッ。大変。お爺さん、馬車を止めてくれ。落ちそうだ落ちそうだ。助けてくれ。アブナイアブナイ」

 とヒョロ子に獅噛しがみ付きました。

 ヒョロ子も一生懸命になって豚吉を落ちないように押えておりましたが、馬車が村を出ると間もなく、そこにあった道のデコボコに馬車が引っかかってガタンガタンとはね上る拍子ひょうしに、二人共抱き合ったまま馬車の屋根の上から往来へ転がり落ちました。

 馬車屋のお爺さんの方は馬を引き止めようとして一生懸命に手綱を引っぱっていましたので、そのままドンドン駈けて行ってしまいました。

「ああ、危なかった」

 と、豚吉はヒョロ子に助け起されながら云いました。

「ほんとに済みませんでした。私がいたずらをしたもんですから」

 とヒョロ子はあやまりましたが、見ると自分の足もとに車屋さんの長い鞭が落ちています。

「アッ。これはさっきの車屋さんのだ。私が走って行って返して来ましょう」

 とヒョロ子は駈け出しそうにしますと、豚吉は引き止めました。

「チョット待て。何だかたいそういいにおいがする」

「ほんとにおいしいにおいがしますね」

「ああ、おれはあの臭においをきいたので、お腹がすっかりすいちゃった」

「まあ。あなたは喰いしんぼうね」

「だって、ゆうべから何もたべないんだもの」

「あたしなんか何日御飯をたべなくとも何ともないわ」

「おれあ日に十ペン御飯をたべても構わない。ああ、御飯がたべたい」

「そんな大きな声を出すものじゃありませんよ」

 とヒョロ子は真赤になって止めました。

 けれども、豚吉は鼻をヒョコヒョコさせながら、あたりを見まわしながらなおなお大きな声で云いました。

「このにおいは、御飯のにおいと、葱ねぎと豆腐のおみおつけの臭においだが、一体どこから来るのだろう」

「そんな卑いやしいことを云うもんじゃありません。よその朝御飯ですから駄目ですよ」

「イヤ。あれを見ろ。あの森のかげにめしやと書いて旗が出ている。あすこだあすこだ」

 と云ううちに、ドンドン駈け出して、そのうちへ這入って行きました。

「まあ、何て意地のキタナイ人でしょう。さっきは疲れてあるけないと云っていたのに、今はあんなにかけ出して……しかたがない。私も一所に御飯をたべましょう」

 と云いながら、ヒョロ子もあとからかけ出して行きましたが、門口まで来ると、又立ち止まって、軒の先にさっきの鞭むちをよく見えるようにつきさして中に這入って行きました。

 見ると、先に這入った豚吉は葱と豆腐のお汁を熱い御飯にかけて、フウフウ云いながら一生懸命で掻き込んでいます。

「まあ。あなたは何てみっともないたべ方をするんでしょう。そんなことをして喰べると人に笑われますよ」

 と云いながら座りましたが、やがてめしやのおかみさんが持って来たお汁と御飯を引き寄せますと、お汁をちょっと嘗なめまして、それからハンケチで口のまわりをよく拭いて、今度は御飯をほんの二粒か三粒ばかり固めて口の中に入れました。

 夫婦はこんな風にして御飯をたべ初めましたが、豚吉の方はすぐに喰べてしまいましたけれども、ヒョロ子の方はなかなか済みません。やっぱり一粒か二粒宛ずつたべては、お汁をすこしずつ嘗なめるばかりです。豚吉は初めのうちは我慢してジッと待っておりましたけれども、とうとう我慢しきれなくて冷かし初めました。

「お前はまあ何て御飯のたべ方をするんだ。そんなたべ方をしていると、今にお正午ひるになって、昼の御飯と一所になってしまうぞ」

 これをきいたヒョロ子は、真赤になって豚吉を睨みました。

「黙っていらっしゃい。あなたのように牛か馬見たようなたべ方をするもんじゃありません。それに私は身体からだが細長いから、御飯の通る道も当り前の人より細長いのです。あなたみたいにドッサリ口に入れたら、すぐに詰まって死んでしまうのです。私が死ぬのが厭いやなら温柔おとなしく待っていらっしゃい」

 と、なかなか云う事をききません。豚吉は大きなあくびをして立ち上りました。

「ヤレヤレ大変なお嬢さんだ。待っているうちに、又お腹がすいて喰べたくなりそうだ。それじゃおれは外を散歩して来るから、ごゆっくり召し上れ」

 と云って、裏の方へ出かけました。

 豚吉は裏の方へ来て見ますと、ちょうど春で、野にはいろんな花が咲き、蝶が舞い、雲雀ひばりが舞っています。あんまりいい景色ですから、豚吉はぼんやり立って見ていますと、すぐ眼の前の古井戸の口で遊んでいた一人の女の児こが、どうしたはずみか井戸の中へ落ちました。

 豚吉は驚いて駈け寄りますと、暗い底の方から女の子の泣き声がきこえます。けれども、そこいらに梯子はしごもなければ綱もありません。

 豚吉は困りましたが、放っておけば女の児が死にそうですから、すぐに上衣を脱いで、ズボンを脱いで、シャツ一枚になって井戸の中へ真逆様まっさかさまに飛び込みました。

 ところが身体からだが大きいものですから、底へ達とどきません。それどころか、ほんの入り口の処へ身体からだが一パイに引っかかって、動くこともどうすることも出来なくなりました。

 豚吉は驚きました。

「助けてくれ助けてくれ」

 と一生懸命で怒鳴りましたが、身体からだが井戸の口に塞ふさがっているので外へはきこえず、おまけに下では女の児が泣き立てますので、その八釜しいこと、耳も潰れるばかりです。しまいには豚吉も情なくなって、オイオイ泣き出しました。下からは女の児が泣きます。けれども誰にもきこえませんので、助けに来てくれる人がありません。

 その中うちに豚吉は声が涸かれてしまいました。

 ところへ、井戸へ落ちた児のお母さんが、子供はどこに行ったかしらんと探しながらやって来ましたが、見ると、大きな短い足が二本、井戸の中からニューと突出てバタバタ動いています。驚いて走り寄って見ますと、大きな身体からだが井戸の口一パイになっていて、下の方から自分の子供の泣き声がきこえます。

 お母さんは肝を潰すまいことか。

「まあ、妾わたしの娘はどうしてこんなに急に大きくなったんだろう。何だか男のような恰好かっこうだけれど、泣いてる声をきくとうちの子のようだ。何にしても助けて見なければわからない」

 と云いながら、急いでその足を捕えて引っぱって見ましたが、どうしてなかなか抜けそうにもありません。

 お母さんはいよいよ慌てて村の方へ駈け出しました。

「助けて下さい。うちの娘が井戸の口一パイに引っかかって泣いています。早く誰か来て助けて下さい」

 と泣きながらお母さんが叫びますと、村の人々はみんなビックリしました。

「それは珍らしい話だ。まさか井戸の水を飲んでそんなにふくれたんじゃあるまいが……行って見ろ行って見ろ」

 と大勢押しかけて来ますと、成る程、井戸の中から大きな足が二本突出てバタバタやっている下から女の児の声がします。

「これは不思議だ。足は男のようだが、声は女の子の声だ」

「変だな」

「面白いな」

「奇妙だな」

「何でもいいから早く引っぱり出して見よう。そうすればわかる」

「そうだそうだ」

 と云ううち、大勢寄ってたかって引っぱり初めましたが、身体からだが井戸の口にシッカリはまっている上に重たいのでなかなかぬけません。

「これはどうだ。中々なかなか抜けない」

「どうしたらいいだろう」

「仕方がない。車仕掛けで引き上げよう」

「そうだそうだ。それがいいそれがいい」

 と云うので、今度は村長さんのところへ行って井戸の水汲み車を借りて来まして、綱の一方に豚吉の足を結びつけて、その綱を車に引っかけると、大勢でエイヤエイヤと引き初めました。

 豚吉は驚きました。何をするかと思うと、大変な強い力でイキナリグングン足を引っぱられ初めましたので、今にも足が腰のつけ根から抜けてしまいそうで、その痛いこと痛いこと。

「痛い痛い。ヒイーッ」

 と豚吉は死ぬような声を出し初めました。

 これをきいた娘のお母さんは気が気でありません。

「あれ、もう止して下さい止して下さい。娘の足が抜けてしまいます。足が抜けて死んだら大変です」

 と泣きながら止めましたので、村の人も引っぱるのを止めました。

「この上引っぱったら足が抜けるばかりだが、どうしたらいいだろう」

 と村の人は相談を初めました。

「仕方がないから鍬くわを持って来て、まわりから掘り出そう」

「それがいいそれがいい」

 と云うので、又みんな村へ帰って、めいめいに鋤すきや鍬を持って来て掘り初めました。

「みんな、気をつけろ。娘さんの腹へ鍬や鋤を打ちこむな」

 と大変な騒ぎになりました。

 ヒョロ子はそんなことは知りません。最前の通り、二粒か三粒宛ずつ御飯を口に入れて、よく念を入れて噛んでは、お汁つゆをほんのすこし嘗めながら、やっと御飯を一杯とお汁つゆを一杯たべてしまいまして、又一杯食べようとしますと、何だか裏の方で人が騒いでいるようです。

「サア、人間掘りだ人間掘りだ」

「まだ生きているんだぞ」

「怪我けがさせぬように掘出せ掘出せ」

 と云う声もきこえます。

「マア、人間掘りなんて初めて聞いた。珍しいこと。御飯はもうおやめにして、ちょっと見てきましょう」

 とお茶を飲んで立ち上って、腰をグッと屈かがめながら、低い裏の入り口から出て行って見ました。

 ヒョロ子が裏へ出て見ると、向うの方で大勢人が寄って、土を掘りながら何か騒いでいます。何事かと思って近寄って見ると、こはいかに。豚吉の足が二本、井戸の中からニューと出ておりますから、驚いてすぐに走り寄って、その足を両方一時に掴つかまえて、

「ウーン」

 と引っぱりますと、スッポンと抜けてしまいました。それと一所に下から女の児の泣き声が聞えて来ましたので、ヒョロ子は井戸の口から長い長い手を延ばして、女の児の手を捕まえて、スーッと引き上げて上へ出してやりました。

 村の人はもうヒョロ子の力に驚き呆あきれて、口をポカンと開あいたまま見ておりました。

 女の児のお母さんは泣いて喜びました。

 豚吉も嬉し泣きに泣きながら、脱いだ着物を着て、最前のめしやに帰って来て、ヒョロ子に今までのことをお話ししますと、ヒョロ子も涙を流して喜んで、

「それはよいことをなさいました」

 とほめました。

 ところが、いよいよ御飯の代金を払おうとしますと、豚吉のお金入れが見当りません。これはきっと最前の井戸のところに落して来たに違いないと思って、又探しに行って見ましたが、そこにもありません。

 二人は顔を見合わせて、どうしたらいいか困っておりますと、表の入り口をガラリとあけて、最前馬に引っぱられて走って行った馬車屋のお爺さんが這入って来ました。そうして二人の顔を見ると喜んで、

「ヤア。あなた方はここに居りましたか。私は馬が急に駈け出しましたので、一生懸命で引き止めようとしましたが、どうしても止まりません。やっと向うの町の入り口まで来ると止まりました。それから、あなた方はどうなすったかと思って引き返して見ますと、ここの表の処に私の落した鞭が引っかかっています。それから入り口の処にお金入れが落ちておりましたが、これはもしやあなた方のじゃありませんか」

 と云いました。

 夫婦は馬車屋の親切に涙を流して喜びました。そうしてお礼を沢山に遣ったあとで、御飯の代金を払ってこの店を出ました。

 豚吉夫婦はそれからだんだんと町に近付きましたが、町の入り口まで来ると、そこに大きな河がありまして、水がドンドン流れています。その上に橋が一つかかっていて、その橋を渡らなければ町へ這入られません。

「サア町へ来た。向うの町に這入ると、きっといいお医者が居るのだ。そうしたらお前も私も身体からだを当り前の恰好にしてもらえるのだ」

 と云いながらその橋を渡ろうとしますと、橋のところの小さな小屋から二人の様子を見ていた番人が、

「モシモシ」

 と呼び止めました。

 豚吉とヒョロ子はうしろから呼び止められましたのでふり返って見ると、それは一人のお婆さんでした。そのお婆さんは二人の様子をジロジロと見ながら云いました。

「私はこの橋の番人だがね。お前さん方はこの橋を渡るならば渡り賃を置いて行かねばなりませんよ」

「そうですか。おいくらですか」

 と豚吉は云いながらポケットからお金入れを出しますと、お婆さんは又こう云いました。

「けれども、当り前のねだんでは駄目ですよ。当り前だと一人分一銭宛ずつですが、あなたの方は当り前の人間の倍位肥っていられますから、その倍の二銭いただきます。それからあっちの奥さんは、やっぱり当り前の人よりも背丈けが倍ぐらい長いようですから、やっぱり倍の二銭出して下さい」

 これをきくと、豚吉は出しかけたお金を引っこめながら、

「おいおい、お婆さん。馬鹿なことを云ってはいけない。いかにも私の身体からだは他人ひとの倍ぐらい肥っているが、背丈けは半分しかないから当り前の人間と同じことだ。あのヒョロ子でも背丈けは当り前の倍ぐらいあるが、その代り当り前の人間の半分位痩せているから、これも当り前の渡り賃でいいだろう。さあ二銭あげるから、これで勘弁しておくれ」

 と云いました。

 ところがこれを聞くと、お婆さんは大層憤おこってしまいまして、小さな小舎こやから出て来ると、橋のまん中に立って怒鳴りました。

「お前さん方は何です。人並外はずれた身体からだをしながら当り前の橋賃でこの橋を渡ろうなんて、ずいぶん図々しい横着な人ですね。私を年寄りだと思って馬鹿にしているのだね。そんなことを云うなら、この橋はどんなことがあっても渡らせないから、そうお思い」

 豚吉はその勢いきおいの恐ろしいのに驚いてふるえ上ってしまいました。けれどもこの橋を渡らなければ町へ行かれないのですから、豚吉は元気を出してお婆さんを睨み付けました。

「この婆ばばあは飛んでもない奴だ。貴様はだれに云いつかってこの橋の渡り賃を取るのだ」

「生意気なことをお云いでない。あの向うの橋の渡り口を御覧……あすこにお役所があるだろう。あのお役所の云い付けでここに番をしているのが、お前さんたちはわからないか。愚図愚図云うとお前さんたちの首に縄をつけて、あすこのお役人の所へ連れて行つて獄屋に打ぶち込んでしまうが、いいかい」

 と大変な勢いです。豚吉は又青くなってしまいました。

 さっきからこの様子を見ていたヒョロ子は、この時そっと豚吉の袖を引きまして、こう云いました。

「およしなさい。こんなお婆さんと喧嘩をするのは……。それよりもこの河は浅そうですから、私があなたを背負って渡りましょう」

 と云いました。

 豚吉はこう云われて河の方を見ましたが、成る程、河の水はザアザアと浅そうに見えて流れております。けれどもやっぱり何だか恐ろしそうですから、又元気を出して婆さんに云いました。

「いけない。いくらお役人に頼まれていても、一人の人間から二人前のお金を取っていいことはあるまい。何でも一銭でこの橋を渡らせろ」

「いけない。そんなことを云うなら、もう百円出してもこの橋は渡らせない。喧嘩するならお出いで。私が相手になってやる」

「何を、この糞婆ア」

 と云ううちに、豚吉は真赤に怒って、イキナリお婆さんに掴みかかって行きました。

 豚吉は、何をこの梅干婆ばばと、馬鹿にしてつかみかかって行きました。ところがその強いこと、橋番のお婆さんはイキナリ豚吉を捕まえますと、手鞠てまりのように河の中へ投げ込んでしまいました。

 これを見ていたヒョロ子は驚きました。

「あれ、あぶない」

 と云ううちに、自分も河の中へ飛び込んで、

「助けてくれ助けてくれ」

 と叫びながら流れてゆく豚吉のあとから、長い足でザブザブと河の水を蹴立てて追っかけましたが、間もなく豚吉を捕まえまして、片手に提さげて河を渡ると、今度は橋の向う側に上って来ました。

 これを見ていたお婆さんはカンカンに憤おこって、橋を渡って追っかけて来ました。そうしてヒョロ子の腕を掴みながら、

「お前達は泥棒だ。橋の渡り賃を払わずにこの河を渡った者は懲役ちょうえきに行くのだ。サア来い。お役所に連れてゆくから」

 と怒鳴りました。

 豚吉はふるえ上がってしまいました。

 けれどもヒョロ子は驚きません。婆さんに腕を掴まれたまま静かに云いました。

「そんなわからないことを云うものではありません。私たちはあの橋を渡らずにここまで来たのです。橋を渡っていませんから、お金も払わなくていいでしょう」

 と云いましたけれども、お婆さんはなかなか承知しません。

「いけないいけない。何でもお金を払わなければいけない」

 と大きな声を出しました。

 さっきからこの様子を見ていたお役所の役人は、あんまり夫婦の姿が珍らしいので、みんな出て来て三人のまわりを取巻いてしまいました。そうするとお婆さんは益ますます勢いきおい付いて、やっぱりヒョロ子の腕を掴んだまま怒鳴り立てました。

「お役人様。この夫婦は泥棒ですよ。橋賃を払わずにこの橋を渡ったのです」

「いいえ、違います」

 と、流石さすがに堪忍かんにん強いヒョロ子にも我慢しきれなくなって云いました。

「あなたが初め私達二人に倍のお金を払えと云ったから、私たちは河を渡ったのです」

「ウン、そんなら橋賃は払わなくてもいい」

 と、一人の年老とった役人が云いました。これをきくとお婆さんは一層怒って、

「ええ、口惜くちおしい。あなた方は泥棒の味方をするのですか。そんならこの腕をヘシ折ってやる」

 と云ううちに、ヒョロ子の腕に両手をかけました。

 ヒョロ子は驚きました。腕をへし折られては大変ですから、思わずその手を一振り振りますと、それに掴まっていたお婆さんは、まるで紙布のように宙に飛んで、河の中へポチャンと落ちてドンドン流れてゆきました。これを見た役人たちは、

「ヤッ、大変だ」

 というので、みんな婆さんを助けに走ってゆきます。ヒョロ子もビックリして助けに行こうとしますと、今度は豚吉が腕を捕まえて離しません。

「今の間に逃げろ逃げろ」

 と云ううちに、ヒョロ子を引っぱってドンドン逃げ出しました。

 豚吉とヒョロ子夫婦は、成るたけ人の泊らない淋しそうな宿屋を探し出して泊りますと、豚吉の着物を乾かしたり、お昼御飯をたべたりしましたが、それから宿屋の番頭さんを呼んで尋ねました。

「私たちは見かけの通り、身体からだが長過ぎたり太過ぎたりするものですが、この町に私達の身体からだを当り前に治してくれるお医者さんは無いでしょうか」

「それはよいお医者があります」

 とその番頭さんは云いました。

「この町の外れに一軒のきたないお医者様の家うちがあります。そこの御主人は無茶先生と云って、無茶なことをするので名高いのですが、どんな無茶なことをされてもそれを我慢していると、不思議にいろんな病気がなおるのです」

「フーン。その無茶とはどんなことをするのだ」

 と豚吉が心配そうにききました。

「それはいろいろありますが、わるいものをたべてお腹が痛いと云うと、口から手を突込んで腹の中をかきまわしたり、眼がわるいと云うと、クリ抜いて、よく洗って、お薬をふりかけて、又もとの穴に入れたりなされます」

「ワー大変だ。そんな恐ろしいお医者は御免だ」

「そうで御座いましょう。どなたもそれが恐ろしいので、その無茶先生のところへは行かれませぬ。そのために無茶先生はいつも貧乏です」

「もうほかにお医者は無いか」

「そうですね。只今ちょっと思い出しませんが」

「そうかい。又上手なお医者があったら知らせておくれ」

「かしこまりました」

 と番頭さんは帰ってゆきました。

「あなたはその無茶先生のところへお出いでになりませんか」

 とヒョロ子が云いますと、豚吉は眼をまん丸にして手を振りました。

「おそろしやおそろしや。そんなお医者のところへ行って、殺されたらどうする」

「でも、どんな病気でも治るというではありませんか。一度ぐらい殺されても、又生き上ればよいではありませぬか」

「お前は女の癖に途方もないことを云う奴だ。もし生き上らなかったらどうする」

「そんなことをおっしゃっても、あなたはまだそのお医者が上手か下手か御存じないでしょう」

「お前も知らないだろう」

「ですから試しに行って見ようではありませんか。もしその先生のおかげで私たちの身体からだが当り前になれば、こんな芽出度めでたいことはないでしょう」

 とヒョロ子が一生懸命になってすすめますので、豚吉もためしに行って見ることにきめました。

 豚吉とヒョロ子はそれから連れ立って町の外れへ来てみますと、成る程、そこに一軒のキタナイお医者様の札が出て、無茶病院という看板が出ております。ソレを見ると豚吉はもうふるえあがって、

「おれはいやだ。無茶病院という位だから、どんなヒドイ目に会わせられるかわからない。帰ろう帰ろう」

 と引っかえしかけました。それをヒョロ子は押し止めまして、

「マアお待ちなさい。只先生に会ってお話をきくだけならいいじゃありませんか。そのあとで診みてもらうかどうだかきめたらいいでしょう」

 と、無理に豚吉の手を引いて中へ這入って行きました。

 豚吉とヒョロ子は無茶病院に這入って、院長の無茶先生に会いますと、先生は髭もあたまも野蕃人のように長くのばして、素すっ裸体ぱだかで体操をしていましたが、二人の姿を見るとニコニコして裸体はだかのまま出て来て、

「ヤア、よく来たよく来た。お前たちのような片輪は珍らしい。しかも夫婦揃って来るとは感心感心。おおかた当り前の身体からだに治してもらいに来たのだろう。よく来たよく来た。おれがすぐに治してやる。お前たちのような病人を治すものは世界中におれ一人しか居ないのだ。さあ、こっちへ来い」

 と独りでしゃべりながら、豚吉の手を掴まえて奥の方へ引っぱって行こうとしました。

「一寸ちょっと待って下さい」

 と叫んで豚吉は手を引っこめました。

「あなたはどんなことをして私の身体からだを治して下さるのですか」

「アハハハハハハ。貴様はよっぽど弱虫だな。そんなことではお前の身体からだは治らないぞ。おれは貴様の背骨を引き抜いて長くしておいて、それにお前の身体からだを引きのばしたのを引っかけるのだ」

「ワッ」

 と、豚吉はふるえ上って逃げ出そうとしました。それをヒョロ子はしっかりと押え付けて、又先生に尋ねました。

「それは痛くはありませんか」

「いいや、ちっとも痛いことはない。睡ねむらしておいて、その間に済ませてしまうのだから」

「ああ、安心した。それじゃやってもらおう」

 と豚吉が云いましたので、ヒョロ子はやっと豚吉の手を離しました。

「それじゃ、私の方はどうなさるのです」

 と、今度はヒョロ子が心配そうに聞きました。

「アッハッハッ。貴様たちは夫婦共揃って弱虫だな。お前の方もおんなじことだよ。ちっとも知らない間に治すのだよ。しかし、そんなに恐ろしがるなら、ちっと面倒臭いが早く済むようにしてやろう。お前達はこれから獣けものの市場へ行って、生きた鹿と猪いのししを一匹宛ずつ買って来い。女の方には猪の背骨を入れて背を低くしてやる。男の方には鹿の背骨を入れて背を高くしてやる」

「エッ、猪と鹿の骨を」

 と二人は眼をまん丸くしました。

「そうだ。そうすれば、お前達の骨を引っぱり延ばさなくてもいいから、わり合い早く済むのだ」

 二人は顔を見合わせました。二人は猪や鹿の骨を背中に入れられるのは好きませんでしたけれども、一生片輪でいるよりもその方がいいので、

「では猪と鹿を買って来ます」

 と云って、無茶先生の家を出ました。

 豚吉とヒョロ子とは無茶先生の家を出て、この町の獣けもの市場に来ましたが、どこを探しても鹿だの猪だのを売っているところはありません。みんな牛だの馬だの犬だの豚だのばかりです。二人はしかたなしに市場の主人に会って、

「どこかここいらに、生きた鹿だの猪だのを売っているところは無いか」

 と尋ねますと、主人は頭を振って、

「鹿や猪の肉を売っているところはありますけれども、生きたのを売っているところはありません。動物園になら居るかも知れませんけれど、あそこのは見物に見せるためで売るのではありませんからダメでしょう。しかし、一体そんなものをあなた方は何になさるのですか」

 と尋ねました。二人はきまりがわるう御座いましたけれども、困っているところでしたからわけをすっかり話しまして、どうかして助かる工夫は無いものかと相談をしますと、主人は腹を抱かかえて笑い出しました。

 二人はおこってここを出て行こうとしますと、市場の主人は又押し止とどめて、

「ちょっと待って下さい」

 と云いました。

「この町から一里ばかり離れたところの村に神様があって、きょうがちょうどお祭りの筈です。そこには毎年いろんな見世物が来ますが、その中には獣けものの見世物もあって、その中に猪や鹿も居る筈です。今年は来ているかどうかわかりませんが、行って御覧なさい。もしその見世物が居たら、お金さえ沢山出せば、ライオンでも象でも売ってくれるに違いないと思います。いっその事、あなた方は思い切ってライオンや象を買って、その骨を入れたら大きくて丈夫でよくはありませんか」

 と又笑い出しました。

 二人は腹が立ちましたけれども、折角いい事を教えてくれたのですから、御礼を云ってここを出まして、それから二人連れでエッチラオッチラ一里ばかり歩いてその村に来ますと、成る程、村中は大変な騒ぎで、今が祭りの最中です。

 その中へ世にも珍らしい姿の夫婦がやって来たものですから、サア大変です。

「ヤア。見世物みたような珍らしい夫婦が来た」

 というので、ワイワイワイワイ押しかけて来て、夫婦は歩くことも出来ません。

 豚吉もヒョロ子も恥かしくなって逃げ出したくなりましたが、きょうは大切な用事で来たのですから逃げる訳に行きません。一生懸命で人を押しわけながら先ず神様へ参りまして、二人とも手を合わせて、

「どうぞ私どもの身体からだが当り前の人のように恰好かっこうよくなりますように」

 とお祈りを上げまして、それからお宮のうしろの見世物の処へ来ますと、そこは前よりも一層賑やかで、音楽隊の音や見物を呼ぶ声が耳も潰れるようです。

 夫婦はビックリして立止まって見ておりましたが、そのうちに向うの方に獣けものの絵看板を沢山に並べた一軒の見世物小舎が見つかりました。

 豚吉とヒョロ子夫婦はその動物の見世物小屋の方へ行きますと、夫婦の珍らしい姿を見に集まったものがあとから黒山のようについて来ます。それを構わずに夫婦はやがてその見世物小屋の前に来て、お金を払って中に這入りますと、あとからついて来た黒山のように沢山の人間も、夫婦の珍らしい姿が見たさにわれもわれもとお金を払って中に這入りましたので、大きな見世物小屋が一パイになりました。

 二人は中に這入って見ますと、象やライオンや大蛇や虎の中にまじって、猪や鹿もおりましたので大喜びしまして、表に出て入り口の番人にこの動物園の主人に会わしてくれまいかと頼みますと、その番人はニコニコしながら、

「私が主人です」

 と云いました。

「ヤア。それは有り難い。それなら一つ、私達夫婦からお願いしたいことがあるがきいてくれないか」

 と豚吉もニコニコして云いました。すると主人は又一層ニコニコしまして、二人の顔を見ながら、

「それならば私からもお願いしたいことがあります。しかし、ここでは忙しくてお話が出来ませんから、こちらへお出でなさい」

 と、夫婦を自分達の宿屋へ連れてゆきました。

 動物園の主人は宿屋へ来ますと、夫婦にお茶やお菓子を出してもてなしながら、

「あなた方のお頼みとはどんなことですか」

 とききました。夫婦は代る代るに、自分達が世にも珍らしい片輪であることから、無茶先生のところへ来て治してもらおうと思ったこと、そうしたら無茶先生が鹿と猪を買って来いと言われたことまで話しまして、

「済まないが、お金はいくらでもあげるから、あなたの処に居る猪と鹿を私達に売ってくれまいか」

 と頼みました。

 動物園の主人はこれをききまして、

「それはお易いことです。今日でも売ってあげましょう。しかし、そんなことをなさらずとももっといい事がありますが、その方になすっちゃどうです」

 と、又ニコニコしながら云いました。

 豚吉は無茶先生から治してもらうよりももっといい事があると聞いて喜びまして、

「それはどんなことをするのですか」

 と尋ねました。動物園の主人はエヘンと咳払いをしまして、

「それはこうです。あなた方は世にも珍らしいお身体からだをしておいでになるので、又そんなお身体からだに生れて来ようと思ってもできる事ではありません。それを治してしまうのは惜いことです。それよりも一層いっそのこと、私に雇われて下さいませんか。そうすればお金はこちらからいくらでもあげます。あなた方が二人、私のところに居らるれば、毎日見物人が一パイで、私は山のようにお金を儲けることが出来ます。どうぞあなた方御夫婦で見世物になって下さいませんか」

 とまじめ腐って云いました。

 豚吉はこれを聞くと、今までニコニコしていたのに急に憤おこり出しまして、大きな声で動物園の主人を怒鳴りつけました。

「この馬鹿野郎、飛んでもないことを云う。おれたちはまだ見世物になるようなわるいことをしていない。貴様は何という失敬な奴だ」

 と、真赤になって掴みかかろうとしました。

 ヒョロ子は慌ててそれを押し止めまして、

「お待ちなさい。この動物園の御主人は何も御存じないからそんなことをおっしゃるのです。折角鹿や猪を売ってやろうとおっしゃるような親切な方に、そんなことを云うものではありません」

 と云ってから、今度は青くなっている動物園の主人に向って、

「どうも私の主人は気が短いので、すぐ憤おこり出して済みません。けれども見世物になることだけはおことわり致します。ほんとのことを申しますと、私達は人から見られるのがイヤで、婚礼の晩に逃げ出して来たくらいです。きょうでも只鹿や猪の生きたのが欲しいばっかりに、あなたのところへ行きましたのです。ですから、済みませんが鹿と猪を売って下さいませんか」

 とていねいに頼みました。

 動物園の主人はガッカリした顔をしてきいておりましたが、やがてうなずきまして、

「それじゃよろしゅう御座います。売って上げましょう。今夜遅く、一時過ぎに入らっしゃい。生きた猪と鹿を箱ごと上げます。そうして車に積んで、無茶先生のところまで持たして上げますから」

 と云いました。

 夫婦は喜んでお礼を云いまして、そこを出て、一先ず町の宿屋へ帰りました。

 豚吉とヒョロ子夫婦はその夜遅く動物の見世物小舎の前まで来ますと、もう見物人も何も居ず、音楽隊やそのほかの雇人やといにんも皆一人も居なくなって、表には主人がたった一人番をしておりましたが、二人を見ると、

「サアサア、こちらへお出でなさい。猪と鹿とをチャンと檻に入れておきました」

 と、ニコニコして見世物小舎の中に案内しました。

 ところが二人が何気なく見世物小舎に這入りますと間もなく、地の下に陥囲おとしあなが仕かけてありましたので、二人ともその中に落ち込んだ上に、その又陥囲おとしあなの中うちに在った蹄係わなに手足を縛られて、身体からだを動かすことも出来なくなりました。

 その時に動物園の主人は穴の上からのぞいて、大きな声で笑いました。

「アハハハハハ。ザマを見ろ。折角人が親切に雇ってお金を儲けさしてやろうと思ったのに、云うことをきかないからそんな眼に合わされるのだ。あしたからお前達を見世物にして、おれはお金をウンと儲けるつもりだ。サアみんな出て来い」

 と云いますと、今まで隠れていた見世物の雇い人が出て来て、二人を押えつけて新しい檻の中に入れて、上から幕を冠せました。

 檻に入れられるとすぐに豚吉はワーワー泣き出しましたが、ヒョロ子は泣きません。かえってニコニコしながら豚吉の耳に口を寄せて、

「泣かないでいらっしゃい。もうすこしするとこの檻から出られますから」

 と云いました。豚吉は泣き止むと一所にビックリしまして、

「エッ。この檻の中からどうして逃げられるのだ」

 と云いました。ヒョロ子は慌ててその口を押えて、

「黙っていらっしゃい。今にわかりますから。大きな声を出すと、逃げるときに見つかりますよ」

 と云いましたので、豚吉は黙ってしまいました。

 そのうちに動物園の主人が、

「サア、皆うちへ帰っていい。二人はもう檻へ入れたから大丈夫だ」

 と云いますと、みんな帰ったようすで、そこいらが静かになりました。

 ヒョロ子は真暗い檻の中で豚吉の耳に口を寄せて、

「サア待っていらっしゃい。二人でこの檻を出ますから」

 と云いましたので、豚吉はビックリしました。やはり小さな声で云いました。

「どうして逃げるのだ。前には鉄の棒が立っているし、うしろの入り口には鍵がかかっているし、どこからも出るところは無いではないか」

「待って入らっしゃい。今にわかります。私が先に出て、あとからあなたが出られるようにして上げますから、ジッとして待っていらっしゃい」

 と云ううちに、ヒョロ子は前に並んではめてある鉄の棒の間から足を出しました。それから身体からだを横にして少しゆすぶりますと、幅も厚さも当り前の人の半分しかないのですから、わけなくスーと外へ出ました。

 それからヒョロ子は、外を包んだ幕をまくって外へ出て、そこいらから大きな丸太ん棒を拾って来て、豚吉が這入っている檻の鉄の格子の間に突込んでグイグイと押しますと、太い鉄の棒が一本外れました。

 待ちかねた豚吉は慌ててその間から出ようとしましたが、まだ出られませんので、又一本外しましたが、まだ出られません。又一本、又一本と、都合五本外しましたら、やっと豚吉が出て来ることが出来ました。

「助かったア」

 と豚吉は嬉しまぎれに叫びましたので、ヒョロ子はビックリして止めまして、

「そんな声を出してはいけません。誰か居たらどうします」

 と云ううちに、檻の外にかかった幕を揚げて、見世物小屋の入口の処に来ますと、さっき居た主人はどこに行ったか見当りません。いいあんばいだと、二人は真暗な中をドシドシ逃げてゆきました。

 動物園の見世物の主人はそんなことは知りません。

 二人を檻に入れますとすぐに宿屋に帰って、自分の手下の中うちで画えをよく書く者に、ヒョロ長いヒョロ子の姿とブタブタした豚吉の姿を描かせました。それを夜の明けぬうちに見世物小屋の上にあげさせました。それを眺めて動物園の主人はニコニコして、

「これでいいこれでいい。サアみんな寝ろ。あしたは見物が一パイに来るに違いないから、みんな早く起きて来るんだぞ」

 あくる朝になりますと、見世物小舎の主人は、前の晩に豚吉夫婦を捕えて檻の中へ入れたり何かしたものですから疲れたと見えまして、たいそう朝寝をして眼を覚ましましたが、見ると雇人やといにんもまだみんなグーグーと睡っています。それを一人一人に起こして、揃って御飯を喰べて、見世物小舎の前に来て見ますと、この小舎の前はもう人間で中に這入れない位です。その人々は皆口々に、

「早く入り口をあけろあけろ」

「あの看板に出ている珍らしい夫婦を見せろ見せろ」

 と怒鳴っています。それを早起きして来た動物の番人が一生懸命で止めています。

 見世物小舎の主人は飛び上って喜びました。その大勢の人を押しわけて中に這入りますと、いきなり高い処に上って演説を初めました。

「サアサア皆さん、静かにして下さい。今から皆様にあの看板の通りの世界一の珍らしい夫婦を御目にかけます。あの夫婦は昨日きのうこの見世物小舎に見物に参りましたのですが、御覧の通り珍らしい姿ですから、私が百万円出して夫婦を買い取りまして皆様にお眼にかけることにしました。ですから、あれを御覧になりたいとおっしゃる方は、一人前一円宛ずつお出しにならねばお眼にかけません。サアサア皆さん。又と見られぬ世界一の珍らしい夫婦です。おかみさんの高さが一丈八尺もあって、旦那様の高さがたった三尺という百万円の珍夫婦……一円位は安いものです。入らっしゃい入らっしゃい」

 これをきくと、何しろ大評判な上に又と見られないというので、われもわれもと一円出して、見る見るうちに中は一パイになってしまいました。

 そうすると見世物小屋の主人は今度は中に這入って来て、見物の前に立ちまして、

「サアサア皆さん。よく御覧なさい。これが世界一の珍夫婦です」

 と云ううちに、前にかかっていた幕を外しますと……どうでしょう……丈夫な鉄の格子が五本も外れて、中には夫婦の姿は見えません。

 見世物小屋の主人は肝を潰しました。

「こりゃあどうじゃ。いつの間に逃げたんだろう。その上にこの丈夫な檻の格子を破るなんて何と恐ろしい力だろう」

 と呆気あっけに取られておりました。

 けれども見物は承知しません。

「ヤアヤア。その珍らしい夫婦はどうしたんだどうしたんだ」

 とわめきますので、見世物小屋の主人は頭を抱えて、

「昨夜、檻を破って逃げられたんです。たしかにこの中に入れといたんですが」

 と云いましたけれども、見物はやっぱり承知しません。

「その檻を破るような人間があるものか。貴様は嘘をついているのだろう」

 と、みんなワアワア騒ぎ出しました。これを見ると主人は慌てて、

「嘘じゃありません嘘じゃありません。御勘弁御勘弁」

 と云いながら、頭を抱えて逃げ出しました。

「アレッ。畜生。嘘をついてお金を取って逃げようとするか。泥棒だ泥棒だ。殴っちまえ殴っちまえ」

 と云ううちに大勢の見物人が上って来て、見世物小屋の主人をメチャメチャに殴り付て、踏んだり蹴ったりしますと、めいめいお金を取り返して帰って行ってしまいました。

 その時に豚吉とヒョロ子は町の宿屋に帰ってグーグー寝ておりましたが、そのうちに二人共眼がさめて、

「これからどうしよう」

 と相談を初めました。

「せっかく見世物の鹿や猪を見つけたかと思うと、あべこべにこっちが見世物にされそうになって、危いところをやっと助かった」

 と豚吉が云いますと、ヒョロ子もほっとため息をして、

「無茶先生が待っていらっしゃるでしょう」

 と云いました。そうすると豚吉は何か一生懸命に考えておりましたが、やがて不意に飛び上って喜んで、

「そうだそうだ。うまいことを考えた。おれはちょっと行って来る」

 と云ううちに宿屋を飛び出しました。そうしてやがて帰って来たのを見ると、市場から大きな馬と小さな豚を一匹買っております。

「サア、どうだ。馬と鹿なら似ているだろう。豚と猪ししも似ているだろう。だから、馬と鹿の背骨も、豚と猪ししの背骨も似ているに違いない。これでいいかどうか、無茶先生のところへ持って行って見ようではないか」

 ヒョロ子もこれを見て大層感心をしまして、

「ほんとにそれはいい思い付きですわね。どうして今までそんないい事に気が付かなかったでしょう」

 と云うので、それから二人は連れ立って、馬と豚とを連れて無茶先生のところへ出かけました。

 無茶先生は昨日きのうの通り頭や髭を蓬々ほうほうとして裸で居りましたが、豚吉夫婦が生きた馬と豚を持って来たのを見ると腹を抱えて笑いました。

「アハハハハハハハ。鹿と猪の代りに馬と豚をつれて来たのは面白いな。お前たちさえよければ馬と豚の背骨でも構わない。入れかえてやろう。その代り鹿や猪よりも太くて、しかも長く持たないぞ」

「ヘエ。どれ位持つでしょうか」

「そうだな。鹿の背骨が千年持つならば、馬の背骨は五百年持つ。それから猪のがやはり千年持てば、豚のもやはりその半分の五百年持つのだ」

「それなら大丈夫です。私達は五百年の千年のと生きる筈はありませんから、せいぜいもう百年持てばいいのです」

「馬鹿野郎。まだ自分が死にもせぬのに、五百年生きるか千年生きるかどうしてわかる」

「ヤ。こいつは一本参りましたね」

 と豚吉は頭をかきました。

「それじゃ私たちは五百年も生きるでしょうか」

「生きるとも生きるとも。馬や豚の背骨の中におれが長生きの薬を詰めて入れておけば、五百年位はわけなく生きる」

「ヤッ。そいつは有り難い。それじゃすぐに入れ換えて下さい」

「よし。こっちへ来い」

 と云ううちに、無茶先生は豚吉とヒョロ子を連れて奥の手術場に連れ込みました。

 無茶先生はやっぱり裸体はだかのままの野蛮人見たような恐ろしい姿をして、まず豚吉をそこにある大きな四角い平たい石の上に寝かしました。

 それから、夫婦が連れて来た二匹の獣けもののうち馬の方だけを手術場に引っぱり込んで、豚吉の横に立たせて、白い繃帯でめかくしをしました。

 それから戸棚をあけて、一梃の大きな金槌かなづちとギラギラ光る出刃庖丁を持ち出して、まず金槌を握ると、馬の鼻づらをメカクシの上から力一パイなぐり付けましたので、馬はヒンとも云わずに床の上に四足を揃えてドタンとたおれました。

 それから、驚いて真蒼まっさおになって見ている豚吉の頭の処へ来て、イキナリ金槌をふり上げましたので、豚吉は床の上にコロガリ落ちたまま腰を抜かしてしまいました。

 ヒョロ子は肝を潰すまいことか、慌てて走り寄って無茶先生の手に縋りついて、

「マア。何をなさいます」

 と叫びました。

 無茶先生はヒョロ子に止められるとあべこべにビックリした顔をして、振り上げた金槌を下しながら怖い顔をして云いました。

「何だって止めるのだ。この金槌で豚吉の頭をなぐるばかりだ」

「マア、怖ろしい。そうしたら私の大切な豚吉さんは死んでしまうじゃありませんか」

「ウン、死ぬよ」

「死んだものに背骨を入れかえて背丈せいを高くしても、何の役に立ちますか」

「アハハハハ」

 と無茶先生は笑い出しました。

「アハハハ、そうか。お前たちはこの金槌でなぐられて死ぬと、もう生き返らないと思って、そんなに心配をするのか。それなら心配することはない。今一度殴れば生き返るのだ。ソレ、この通り」

 と云ううちに、無茶先生は傍にたおれている馬の額を金槌でコツンと打ちますと、死んだと思った馬は眼を開いてビックリしたように飛び起きました。無茶先生は大威張りで、又馬を打ちたおしました。

「それ見ろ、この通りだ。豚吉でもこの通り」

 と、イキナリ豚吉の頭に金槌をふり上げますと、

「助けてくれッ」

 と豚吉は泣き声を出しながら表の方へ駈け出したので、ヒョロ子も一所に走り出しました。そのあとから、生き残った豚もくっついて走って行きました。

「ヤア大変だ」

 と無茶先生がその豚を裸のまんま追っかけました。

「貴様は殺したあとで肉を売って喰おうと思っていたのに……ヤーイ……豚ヤーイ」

 と怒鳴りながら駈出しましたので、豚吉は自分の事かと思って一生懸命に走ります。そのあとからヒョロ子が走ります。そのあとから豚が走ります。そのあとから無茶先生が真裸体まっぱだかで走りますので、往来を通っている人はみんなビックリしました。

「何だろう」

「どうしたのだろう」

「行って見ろ行って見ろ」

「ワイワイワイワイ」

 と集まって、往来一パイになってかけ出しました。

 そのうちに無茶先生はやっと豚の尻尾を押えましたので、それを逃がすまいと一生懸命になっている隙に、豚吉とヒョロ子は一生懸命逃げて宿屋へ帰りましたが、自分たちの居間に這入ると二人はホッと一息しました。

「アア、驚いた。いくら死ななくても、あの金槌でゴツンとやられるのは御免だ」

「ホントに恐ろしゅう御座いましたね」

 二人は話し合いました。

「おれあもう諦めた。一生涯片輪でもいい。おれたちの片輪を治してくれるお医者は無いものと思ってあきらめよう」

「ほんとに。あんな恐ろしい眼に遇うよりも片輪でいた方がいいかも知れません」

 夫婦がこんなことを云っているところへ、表の方が大変騒がしくなりましたから、何事かと思って障子のすき間から夫婦でのぞいて見ますと、コハイカニ……表の通りは一パイの人で、みんな口々に、

「さっきこの家に走り込んだ珍らしい夫婦を見せろ見せろ」

 と怒鳴り散らしております。

 それをこの家うちの番頭さんが押し止めて、

「いけませんいけません。あれは私の家うちの大切なお客様ですから、私の方で勝手に見せるわけに参りません。もし見たいとお思いになるならば、私のうちにお泊り下さるよりほかに致し方ありません」

 と大きな声で云っております。

 往来の人々はそれを聞くと、

「そんならおれはここに待っていて、あの夫婦が出かけるのを待っている」

 というものと、

「おれはこの家に泊って、是非ともあの夫婦を見るんだ」

 というものと二つに別れましたが、泊る方の人々は、

「サア。番頭さん、泊めてくれろ。宿賃はいくらでも出す。ゼヒとも一ぺんあの珍らしい夫婦を見なければ──」

 と番頭さんに云いましたが、番頭さんは又手を振りました。

「いけませんいけません。あなた方より先にこの宿に泊っている人でこの宿屋は一パイなのです」

「この野郎、嘘を吐つくか」

 とその人々は騒ぎ立ちました。

「貴様はうるさいものだからそんなことを云うのだ。泊めないと云うなら、表を押破って這入るぞ」

 といううちに、われもわれもと番頭を押しのけてドンドン中へ這入って来ました。

 これを聞くと豚吉はふるえながら、

「どうしよう」

 といいます。ヒョロ子も何ともしようがないので、互に顔を見合わせておりますと、そのうちに下からドカドカと大勢の人が上がって来るようです。

「どこだどこだ」

「下の方には居ないようだ」

「二階だ二階だ」

 といううちに、五六人ドカドカと二階の梯子段を飛び上って来る音をききますと、ヒョロ子は慌てて豚吉の方へ背中を向けて、

「サア、私におんぶなさい」

 と云いました。そうして、

「どうするのだ」

 と驚いている豚吉を捕えて背中に負うて、そこにあった帯で十文字にくくり付けますと、すぐに窓をあけて屋根の上に飛び出しました。

 これを見付けた往来の人々は大騒ぎを初めました。

「ヤア。屋根に出て来たぞ。しかも男が女に背負おぶさっているぞ。みんな出て来い。見ろ見ろ」

 と口々に叫びました。

 ヒョロ子はそれを見るとすぐに隣の屋根にヒョイと飛び移って、屋根を伝って、又その先の屋根へヒョイと飛び移って行きました。そうすると、これを見付けた宿屋の番頭が又大声を出して、

「ヤア。あの夫婦は喰い逃げだ。喰い逃げだ。みなさん、捕まえて下さいッ」

 と叫びました。

「ソレッ、捕まえろ」

 と、大勢の見物人も屋根伝いに逃げる二人のあとから往来の上をドンドン追っかけ初めました。

 こうなるとヒョロ子も一生懸命です。屋根から屋根、軒から軒と、重たい豚吉を背負ったまま飛んでは走り飛んでは走りします。それを下から見物人が指さしながら、

「あっちへ逃げたぞ」

「こっちへ来たぞ」

 と面白半分に追いまわします。そのうちに通りかかりの人々は皆、屋根の上を走る奇妙な夫婦の姿を見て驚いて、みんなと一所に走り出しますので、人数はだんだんに殖えるばかり。しまいには何千人とも何万人ともわからぬ位になって、ワアワアワアワアワアと町中の騒ぎになりました。

 けれども、遠く離れた往来を通っている人には何事だかわかりません。

「何という騒ぎだろう」

「戦争でしょうか」

「鉄砲の音がしない」

「火事だろうか」

「煙が見えない」

「何だろう何だろう」

「行って見ろ行って見ろ」

 駈け出すものや、屋根に上るものなぞが、あとからあとから出来て、騒ぎはいよいよ大きくなるばかり。中には転んで踏み潰されたり、屋根から落ちて怪我をしたり、又はブツカリ合って喧嘩を初めるものなぞがあって恐ろしい有様になりました。

 そうなると警察もほっておくわけに行きませんので、ドンドン巡査を繰出します。消防も半鐘はんしょうをたたいたので、近くの町や村々の消防や蒸気ポンプがわれもわれもと駈け付けましたが、何しろ騒ぎが大きいのと、どこの往来も人で一パイなので近寄ることが出来ません。一所になって、

「静まれ静まれ」

 と叫ぶばかりなので、町中は引っくり返るような騒ぎです。

 こちらはヒョロ子です。豚吉を背負ったまま高い屋根の上に立って四方を見渡しますと、見渡す限りの往来も屋根もみんな人間ばかりで、警察や消防も出て来ているようです。どっちを向いても逃げようがありません。

「ああ、情ないことになった。おれたちが片輪に生れたばっかりに、こんな騒ぎになった。もうとても助からぬ。捕まったら殺されるに違いない」

 と、豚吉はヒョロ子の背中に掴まって、ブルブルふるえながらオイオイ泣き出しました。

 ヒョロ子も涙を流しながら、

「ほんとにそうです。けれども私たちが結婚式の晩に村を逃げ出しさえしなければ、こんな眼に会わなかったでしょう。お父さんやお母様や親類の人達に御心配をかけた罰でしょう」

 と云いました。

「そうじゃない」

 と豚吉は怒鳴りました。

「あの橋を無理に渡って、こんな馬鹿ばかり居る町に来たからこんな眼に会うのだ」

「そうじゃありません。音おとなしくあの見世物師の云うことをきいて見世物になっておれば、こんなことにならなかったのです。檻を破ったり何かした罰です」

「そうじゃない。あの無茶先生に診みせに行ったのがわるかったんだ」

「そうじゃありません。あの無茶先生がせっかく治してやろうとおっしゃったのを、逃げ出したからわるいのです」

「そうじゃない。お前がおれをこんなに背中に結び付けて、屋根の上を走ったりするもんだからこんな騒ぎになるのだ。お前は馬鹿だよ」

「馬鹿でもほかに仕方がありませんもの……」

「ああ、飛んだ女と夫婦になった」

「そんなら知りません。あなたをここに捨てて逃げてゆきます」

「イケナイ。そんなことをすると喰い付くぞ、この野郎」

 と云うと、イキナリ豚吉はヒョロ子の髪毛かみのけを捕まえました。

「アア痛い。放して下さい放して下さい。逃げられませんから」

 とヒョロ子は金切声を出しました。

 これを見た往来の人々は、

「ヤア。あすこで夫婦喧嘩を初めた。今の間に捕まえろ」

 というので梯子を持って来ますと、元気のいい二三人の青年が屋根の上に飛び上って来ました。

 それを見ると、豚吉は慌ててヒョロ子の髪毛を放しながら、

「ソレ、捕まるぞ。逃げろ逃げろ」

 と云いますと、ヒョロ子は夢中になって往来を隔てた向うの屋根に飛び移りました。

「ソレ、又逃げ出した」

「あっちへ行った」

「追っかけろ追っかけろ」

 と追いまわし初めましたが、何しろ人数が多いのでヒョロ子夫婦はどっちへも逃げようがありません。それをあっちへ飛び、こっちへ飛びしているうちに、ヒョロ子は豚吉を背負ったままだんだん町外れの方へ来ましたが、その家の無くなりがけに小さい古ぼけた屋根が見えます。そこから先はもう家も何も無い上に、仕合わせと人間もまだ追い付いて来ていない様子で、往来には誰も居ないようですから、ヒョロ子は占めたと思いまして、高い屋根の上からその低い屋根の上に両足を揃えて飛び降りますと、その屋根は腐っていたものと見えまして、ヒョロ子と豚吉の重たさのためにズバリと破れました。そうしてその勢いでヒョロ子は豚吉を背負ったまま屋根の下の天井までも打ち抜いて、その下に寝ている人の腹の上にドシンと落ちかかりました。

「ギャッ。ウーン」

 と云って、寝ている人はそのまま眼をまわしてしまいましたが、そのおかげでヒョロ子も豚吉も怪我をしないで起き上って見ますと、こは如何いかに……眼をまわしているのは無茶先生で、そこいらには鍋だの焜炉こんろだの豚の骨だの肉だのが一面に散らばっております。その横には最前の馬もまだ足を投げ出して寝ています。

「まあ。大変よ、無茶先生ですよ。さっきの豚を捕まえて召し上って、寝ていらっしたところですよ。その上から私たちが落ちかかったのですよ……まあ、ほんとにどうしましょう」

 とヒョロ子は泣声を出しました。

「心配するな。そこにあるバケツの水を頭からブッかけて見ろ」

 と豚吉が背中から云いましたので、ヒョロ子はその通りに無茶先生の頭からブッかけますと、無茶先生は、

「ウーン。ブルブルブル」

 と眼をさましました。そこへも一パイ頭からバケツの水をブッかけましたので、無茶先生は、

「ウワア。夕立だ、雷だ」

 と云いながら飛び起きました。

 その様子が可笑おかしかったので、ヒョロ子も豚吉も腹を抱えて笑い出しましたが、無茶先生は頭から濡れたまま眼をこすってよく見ますと、思いもかけぬヒョロ子が豚吉を背負って立っていますので、又驚きました。

「ヤア、お前達はどうしてここへ来たのだ」

 と尋ねました。

 ヒョロ子は落ちかかる豚吉をゆすり上げながら今までのことをお話ししますと、無茶先生は面白がってきいておりましたが、

「フーンそうか。それじゃ、町中の奴がお前達夫婦を見たいと云って追っかけまわしたのか。それは困ったろう。しかし、それというのも、お前たちがおれの云うことをきかないからこんなことになるのだ。おれの云うことをきいて背骨を入れかえてさえおけば、そんな眼に会わなくても済むのだった」

 と云いましたので、ヒョロ子は豚吉も気まりがわるくなって、

「ほんとに済みませんでした。もうこれからどんなことをされても恐がりませんから、どうぞ当り前の人間にして下さい。今度でもうコリゴリしました」

 と床の上に座ってあやまりました。無茶先生は大威張りで、

「よしよし。お前達がそんなにあやまるならば、今度は背骨だけでなく、身体からだ中すっかりたたき直して、ビックリする位立派な人間に作りかえてやろう」

「ええっ。そんなことが出来ますか」

「ウン、出来るとも出来るとも。お前達はおれの腕前を知らないからそんなことを云うけれども、おれが持っている薬の力ならば、どんなことでも出来ないことはないのだ」

「ありがとう御座います。それではすぐに治して下さい」

「イヤイヤ、ここでは出来ぬ。それには支度が要るから、どこか鍛冶屋へ行かなければ駄目だ。今からすぐ行くことにしよう」

 と、無茶先生はすぐにお薬を取り出して、鞄の中へ入れ初めました。

 その時にはるか向うから、

「ワーッ、ワーッ」

「あすこの家うちに珍らしい夫婦が逃げ込んだ」

「無茶先生の家うちだ無茶先生の家だ」

「それ、押しかけろ押しかけろ」

 と云う声がすると一所に、あとからあとから大勢の人間が押しかけて、無茶先生の家のまわりを一パイに取り巻いてしまいました。

 無茶先生はこれを見ると真赤になって憤おこり出しました。

「こん畜生。来やがったな。よしよし、おれが追払おっぱらってやる。お前達は二人共鼻の穴にこの綿を詰めてジッとしていろ。そうして、馬鹿共が居なくなったら、すぐに逃げられるように用意していろ」

 と云ううちに、無茶先生は自分の鼻の穴にも綿をドッサリ詰め込んで、丸裸体はだかのまま表に飛出して大勢の者を睨み付けますと、

「コラッ。貴様共は何しに来たんだッ」

 と怒鳴り付けました。

 すると、大勢の人の中から一人の大きな強そうな男が飛び出して来て、

「貴様は無茶先生か」

 とききました。

「そうだ。貴様は何だ」

「おれはこの町の喧嘩の大将だが、今貴様のうちにヒョロ長い女がまん丸い男をおぶって逃げ込んだから捕まえに来たんだ」

「何だってその夫婦を捕まえるんだ」

「その夫婦は奇妙な姿で屋根から屋根へ飛び渡って町中を騒がしたんだ。そのため怪我人や死んだものが出来たんだ。それだから捕まえに来たんだ」

「馬鹿野郎。貴様たちがその夫婦を無理に見ようとしたから夫婦が逃げ出したんだろう。貴様たちの方がわるいのだ」

「こん畜生。貴様はあの夫婦に加勢をして、おれ達に見せまいとするのか」

「そんな夫婦はおれの処に居ない」

「居ないことがあるものか。あの屋根を見ろ。あんなに破れている。あすこから落ちこんだに違いない」

「そんなら云ってきかせる。夫婦はうちに居るけれども、貴様たちに渡すことは出来ない」

「こん畜生。貴様はおれがどれ位強いか知ってるか」

「知らない。いくら強くても構わない。おれが今追い払ってやる」

「追い払えるなら追い払って見ろ」

「ようし。見ていろ」

 と云ううちに、無茶先生は隠して持っていた香水の瓶を取り出して、家のまわりにぐるりとふりまきました。

 それを嗅ぐと、大勢の人は吾れ勝ちに嚔くしゃみを初めて息もされない位で、しまいにはみんな苦しまぎれに眼をまわすものさえ出て来ました。

 それを知らないであとからあとから押しかける町の人々はみんなクシャミを初めて、これはたまらぬと逃げ出します。大きな男の喧嘩大将も一生懸命我慢していましたが、とうとう我慢し切れなくなって、百も二百も続け様ざまにクシャミをしているうちに地びたの上にヘタバッてしまいました。

 けれども、遠くからこの様子を見ていた人は、みんなが嚔をしていることはわかりません。只、無茶先生の家のまわりを取り巻いている人が、みんなひっくり返って、上を向いたり下を向いたりして苦しんでいる有様しか見えませんから、驚きまして、

「コレは大変だ。あの無茶先生は大変な魔法使いに違いない。まごまごしているとみんな殺されるかも知れぬ」

 というので、ドンドン逃げ出してゆきました。

 大勢の人が無茶先生の香水に恐れて逃げて行きました。おかげでうしろの方に居た巡査さんや消防は、やっと前の方に出て来ることができましたが、その巡査さんや消防たちも無茶先生の香水のにおいを嗅ぐと、やっぱり同じこと一時にクシャミを初めまして、消防は鳶口とびぐちを持ったまま、又巡査さんはサーベルを握ったまま、あっちでもこっちでも、

「ハクションハクション」

「ヘキシンヘキシン」

「フクシンフクシン」

「ファークショファークショ」

「ハアーッホンハアーッホン」

 と云ううちに、みんな引っくり返ってしまいました。

 この様子を見た大勢の人々はいよいよ驚いてしまいました。

「これは大変だ。巡査さんや消防までも無茶先生に殺されそうだ。早く兵隊さんを呼んで来て、無茶先生を殺してもらおう」

 と、大急ぎで兵隊さんを呼びにゆきました。

 けれども、無茶先生や豚吉やヒョロ子は鼻の穴に綿をつめておりますから、香水の香においもわからなければ嚔くしゃみも出しません。

「サア、この間に逃げるんだ」

 と無茶先生は云いながら、横にあった金槌を取り上げて、横に寝ている馬の頭をコツンと一つなぐり付けますと、馬はパッと生き上りました。それを表に引き出して、細引で口縄をつけると、無茶先生が裸体はだかのまま鞄を持って一番先に乗ります。そのあとからヒョロ子が豚吉を背負って馬の背中に這い上りますと、無茶先生が手綱を取って、

「ハイヨーッ」

 と云うと、広い往来を一目散に逃げ出した。

 その時、うしろの方から勇ましいラッパの音がきこえて、兵隊さんが大勢、無茶先生の家うちへ押寄せましたが、見ると無茶先生と豚吉とヒョロ子は馬に乗ってドンドン逃げて行く様子です。

「ソレッ。魔法使いが逃げるぞ。打て打て」

 と云ううちに、兵隊さんは横に並んでドンドン鉄砲を打出しましたが、ちょうどその時、兵隊さんはみんな無茶先生の香水のにおいを嗅ぎましたので、みんな一時にクシャミを初めて鉄砲を狙うことが出来ません。撃ってもクシャミをしながら撃つのですから、弾丸たまはとんでもない方へ行ってしまいます。その間に無茶先生と豚吉とヒョロ子を乗せた馬はドンドン逃げてしまいました。

 やがて馬が或る山の麓ふもとまで来ますと、無茶先生は馬から下りまして、

「サア、ここまで来れば大丈夫だ」

 と、ヒョロ子を馬から下ろしてやりますと、ヒョロ子も背中から豚吉を下ろしてやりました。そうして三人は鼻の穴の綿を取って棄てました。

 無茶先生はそれから馬をもと来た道の方へ向けて、お尻をピシャリとたたきますと、馬は驚いてドンドン駈けてゆきました。

裸体はだかのままの無茶先生は豚吉とヒョロ子を連れて、それからすこしばかり行ったところの町で一軒の宿屋に這入りました。

 ところが宿屋の者は三人の奇妙な姿を見ると、恐ろしがってなかなか泊めてくれませんでしたから、それじゃ物置でもいいからと云いましたけれども泊めてくれません。そのうちにその宿屋の表には見物人が黒山のように集まりました。

 無茶先生はとうとう怒り出してしまいました。

「この馬鹿野郎共。何が珍らしくてそんなに集まって来るのだ。人間だから裸で居るのもあれば、背の高いのもあれば低いのもあるのは当り前の事だ。それを珍らしがって見に来るなんて失敬な奴だ。又、この宿屋の奴もそうだ。おれたちのどこがわるいから泊めてくれないのだ。おれたちはみんな人間だぞ。人間が宿屋に泊めてくれというのが何がわるいのだ。愚図愚図云うと、貴様共をみんな盲めくらにして終うぞ」

 と云ううちに、鞄から小さな粉薬の瓶を出しました。

 それを見ると豚吉は、

「おもしろいおもしろい」

 と手を拍うって喜びましたが、ヒョロ子は慌ててそれを止めまして、

「まあ、先生。そんな可愛そうなことをなさいますな。泊めてくれなければ、私たちは山の中に寝てもよろしゅう御座いますから」

 と云いました。

 そうすると無茶先生は、

「よし。それではやめてやろう。その代りおれは泊めてくれるまでここを動かない」

 と云ううちにその粉薬を仕舞って、その宿屋の上り口のところにドッカリと座りますと、今度は鞄からパイプを出して、黒い色の煙草を詰めて、火をつけてスパリスパリと吸い初めました。

 店の番頭は困ってしまいました。

「どうもそんなことをなすっては困ります。こんなに店の前に大勢人が居ては、ほかのお客さんが泊りに来られませんから早く出て行って下さい……」

 と云いかけましたが、ヒョイと妙なことに気が付きました。

 座ったままパイプを啣くわえて、スパリスパリと煙草を吸っている無茶先生の顔がだんだん黄色くなって行きます。オヤオヤと思っているうちにその顔色が赤くなって、それから紫色になって、見る見るうちに真っ黒になってしまいました。

 番頭は肝を潰してしまいましたが、その時に不図気が付きますと、黒くなったのは無茶先生ばかりではありません。側に居た豚吉やヒョロ子はもとより、まわりを取り巻いている見物人も、無茶先生の煙草の煙に当ったものはみんな、顔色が黄色から赤へ、赤から紫へ、紫から黒へとなりかけています。

 番頭はふるえ上って奥へ飛んで来て、御主人の前まで来ると腰を抜かしました。

「御主人様。大変です大変です」

 と云いますと、主人と一緒に御飯をたべていたおかみさんも、子供も小僧さんも、みんなワッとお茶碗を投出して逃げてゆきそうにしました。

 それを主人は止めながら、

「大変とは何です。あなたは一体どなたです」

 と云いました。番頭は不思議そうに眼をキョロキョロさせながら答えました。

「私は番頭です」

「何、番頭。私の処にはあなたのような黒ん坊の番頭さんは居りません」

「エエッ。私が黒ん坊ですって。ああ、情ない。そんならやっぱりあの魔法使いにやられたのだ」

 と云ううちに、番頭さんはそこへ泣きたおれてしまいました。

「何、魔法使いにやられた。それはどういうわけだ」

 と、みんな番頭のまわりに集まってききました。

 番頭は泣きながら、

「今、表に魔法使いが来ています、その魔法使いと喧嘩をしましたためにこんなに顔を染められたのです。ああ、情ない。ワアワアワア」

 と、番頭はなおなお大きな声で泣き出しました。

「フーン、それは不思議なことだ。よしよし、おれが行って見てやろう。そんなに早く人の顔に墨を塗ることが出来るかどうか」

 と云いながら立ち上って表へ行きますと、ほかのものもあとからゾロゾロくっついて表へ来てみました。

 宿屋の主人が表に来て見ますと、無茶先生は相変らずパイプを啣えながらプカリプカリと煙を吹かしています。そうして、立っている人々も自分の顔が黒くなったのは知らずに、みんな無茶先生や豚吉やヒョロ子の黒くなった顔を面白そうに見ています。

 宿屋の主人は驚き呆あきれて、開いた口が閉ふさがらぬ位でしたが、やっと落ち付いて無茶先生に向って、

「これ、黒ん坊の魔法使い。お前は何の怨うらみがあって、おれのうちの番頭をあんなに黒ん坊にしてしまった」

 と叱りました。

 無茶先生はその時ニヤニヤ笑いながら、宿屋の主人の顔を見て云いました。

「貴様のうちに泊めてくれないからだ」

「何、泊めてくれないからだ」

「そうだ。だから泊めてくれるまでここを動かないつもりだ」

 と、又白い煙を沢山に吹き出しました。主人はこれをきくと大層腹を立てました。

「馬鹿なことを云うな。おれのうちは貴様みたような生蕃人や、そんな片輪者なぞを泊めるようなうちじゃない。出てゆけ出てゆけ。泊めることはならぬ」

「アハハハハハ」

 と無茶先生は笑いました。

「今に見ていろ。きっと、どうぞお泊り下さいと泣いて頼むようになるから」

「何糞なにくそ。いくら貴様が魔法使いでも、おれはちっとも怖かないぞ。出てゆかねばこうだぞ」

 と懐中からピストルを取り出して、無茶先生につき付けました。

「フフン。おれを殺したらあとで後悔するだけだ」

 と無茶先生は落ち付いたもので、又も黒い鼻からと口からと白い煙をドッサリ吹き出しました。

 そうするうちに見物人はみんなワイワイ騒ぎ出しました。

「ヤアヤア。宿屋の御主人の顔が蒼白くなった。赤くなった。もう紫になった。オヤオヤ真黒になってしまった。奥さんもお嬢さんも、坊ちゃんも小僧さんもみんな黒くなった。大変だ大変だ」

 と騒ぎ立てましたが、そのうちに今度は自分たちの顔までも真黒になっていることに気が付きますと、サア大変です。

「ヤア。おれたちまでも魔法にかかった。大変だ大変だ。魔法使いを殺してしまえ」

 と寄ってたかって、無茶先生へ掴みかかって来ました。

 その時無茶先生は立ち上って、大勢を睨み付けながら怒り付けました。

「馬鹿野郎共。何が魔法だ。おれが色の黒くなる煙草を吸っているのを、貴様たちがボンヤリ立って見ているからだ。貴様たちの方がわるいのだ。それともおれを殺すなら殺せ。貴様たちは一生真黒いまま死んでしまうのだぞ。おれは白くなるお薬を知っているんだ。サア、殺すなら殺せ」

 これを聞くと、みんな一時に静まりました。そうしてその中から一人のお爺さんが出て来て、

「私たちがわるう御座いました。どうぞそのお薬を教えて下さいませ」

 とあやまりますと、ほかのものも地びたに手を突いて一生けんめいお詫びをしました。

 それを見ると無茶先生はうなずいて、

「よしよし。それなら貴様たちからこの宿屋の主人に頼んで、おれたちを泊めてくれるようにしろ」

 と云いました。

 宿屋の主人はこの時まで、自分のおかみさんや子供達が真黒になって泣いているのを見て、ボンヤリ突立っておりましたが、忽ちピストルを取り落すと、無茶先生の前に跪ひざまずいて、真黒な顔を畳にすり付けながら、

「どうぞどうぞお泊り下さいお泊り下さい」

 とピョコピョコお辞儀をして、手を合わせて拝みました。それを見ると無茶先生は大威張りで、

「それ見ろ。おれの云う通りだ。そんなら泊ってやるからうんと御馳走するのだぞ」

「ヘイヘイ。どんな御馳走でもいたします」

「よし。それじゃ教えてやる。みんなの顔が黒くなったのは、この煙草の脂やにがくっついたのだ。だからお酒で洗えばすっかり落ちてしまう。サア、おれたちにもお酒を入れた風呂を沸わかしてくれ。そうして、おれには特別にあとでお酒を沢山に持って来い。この煙草を吸ったので腹の中まで真黒になったから、お酒を飲んで洗わなくちゃならん。サア、豚吉も来い。ヒョロ子も来い」

 と、大威張りでこの宿屋の一番上等の室へやへ通りました。

 無茶先生のおかげで豚吉とヒョロ子はやっと宿屋へ泊りましたが、宿屋の主人が大急ぎで沸かしましたお酒のお風呂で身体からだを洗いますと、三人とももとの通りの姿になりました。又、ほかのものもみんな、無茶先生から教おそわった通りにお酒で顔を洗って、もとの通りの白ん坊になりましたので大喜びで、無茶先生の不思議な術に誰もかれも驚いてしまいました。

 それを見た無茶先生は威張るまいことか、宿屋の主人が出した晩御飯の御馳走を喰べながら、豚吉と一緒にお酒を飲んで酔っ払って、大きな声で自慢を初めました。

「どうだ、みんな驚いたか。おれは当り前のお医者とは違うんだぞ。病気やなんか治すよりも、もっともっとえらいことが出来るんだぞ」

 これを聞くと、無茶先生と一緒にお酒を飲んでいた豚吉も威張り出しました。

「おれは、きょう、兵隊が千人と巡査が一万人と消防が十万人、町の者が十万人で向って来たのをみんな追い散らして来たんだぞ」

 これを聞いたヒョロ子はビックリしまして、

「そんなことを云うものじゃありません。もしこの町の巡査さんや兵隊さんがそれを聞いて、捕まえに来たらどうします」

 と叱りました。けれども豚吉は平気なもので、なおの事大きな声を出して云いました。

「ナアニ。大丈夫だ。その時は又無茶先生に追い払ってもらうのだ」

 と、つい本当のことを云いましたので、無茶先生もヒョロ子も腹を抱えて笑いました。

 けれども宿屋の主人は何も知りませんので、いよいよ感心して驚いてしまいました。

「ヘエー。それはえらいお方ばかりですな。それじゃ無茶先生は当り前の病気ぐらいは訳なくお治し下さるで御座いましょうな」

 と尋ねました。

 無茶先生はやはり真裸まっぱだかのまんま、ガブガブお酒を飲みながら大威張りで答えました。

「おお。どんな病気でも治してやる。その代り一人治せばお酒を一斗宛ずつ飲むぞ」

「それじゃお酒を一斗差し上げますから、私の妻かないの病気を治して下さいませぬか」

「どんな病気だ」

「何だかいつも頭が痛いと申しまして、御飯を食べる時のほか寝てばかりおりますが、どんなお医者に見せましても治りませぬ」

「よし、すぐに連れて来い」

「かしこまりました」

 と、亭主は無茶先生たちの居る二階を降りてゆきましたが、間もなく手拭で鉢巻きをしたお神さんをおぶっこして上って来て、無茶先生の前にソッと卸しました。そのあとから上って来たさっきの番頭は、お酒を一斗樽ごと抱えて来て無茶先生の前に置きました。

 無茶先生はその樽の栓を取ると、両手に抱えてグーグーグーグー一息に呑み初めましたが、やがて飲んでしまいますと、

「アー。久し振り樽ごとお酒を飲んで美味うまかった。ドレ、お神さん。顔を見せろ」

 とお神さんの顎に手をかけて顔をジッと見ておりましたが、忽ち割れ鐘のような声で笑い出しました。

「アアアアアア。なるほど、頭が痛そうな顔をしているな。コレ、お神さん。お前はなあ、あんまり主人に我儘わがままを云ったり、番頭や丁稚でっちを叱りつけたりするから頭が痛いんだぞ。しかし、その病気はすぐなおるから心配するな。これから頭が痛い時はすぐに、主人にこうしてもらえ」

 と云ううちに、右の手で岩のような拳固げんこを作って、お神さんの右の横面よこつらをグワーンとなぐりつけました。お神さんは、

「ギャッ」

 というなり眼をまわして、左の方へたおれかかりました。そこで無茶先生は今度は左の拳骨を固めて左側から横ッ面をポカーンとなぐりつけますと、眼をまわしていたお神さんはパッと眼をさまし、そこいらをキョロキョロ見まわしておりましたが、

「アラ。私の頭の痛いのが治ったよ。まあ、何という不思議なことでしょう。ほんとに無茶先生、有り難う御座いました」

 と大喜びでお礼を云って降りて行きました。

 この様子を見ていた宿屋の主人は、もう無茶先生のエライのに肝を潰してしまいました。

「ああ、ビックリしました。先生は何というエライお方でしょう。それではお序ついでに私の息子の病気も治していただけますまいか」

「フーン。貴様の息子の病気は何だ」

「ヘエ。私の息子の病気は、いつもお腹が痛いお腹が痛いと云うて学校を休むのです。どんなお医者に見せても治りません」

「そうか。それはわけはない。おれが見なくとも病気はなおる」

「ヘエ。どうすればなおります」

「朝の御飯を喰べさせるな」

「そうすればなおりますか」

「そればかりではいけない。昼のお弁当を息子に持たせずに、学校の先生の処へお使いに持たしてやれ。どんなことがあっても朝御飯と昼御飯をうちで喰べさせるな。そうすればお腹が空すくからイヤでも学校に行くようになる」

「成るほど。よくわかりました」

「サア。酒をもう一斗持って来い」

「ヘイ、只今持って来させます。それでは序ついでに私のおやじがカンシャク持ちで困りますから、それも治して下さいませ」

「よしよし、つれて来い」

 こうして無茶先生は家うち中の者の病気をみんな治してやりました。

 先ずおやじのカンシャク頭は、テッペンをクリ抜いて蓋をするようにして、憤おこった時はその蓋を取ればなおるようにしてやりました。

 お婆さんの禿頭はげあたまは、頭の上を掻きむしって、毛の種を蒔まいてやりました。

 娘の低い鼻は、鼻の穴に突っかい棒を入れて高くしてやりました。

 女中の居ねむりは、着物の襟にトゲを縫いつけて、うつむくと痛いように仕かけてやりました。

 下男の腰が痛いのは、腰の処に太い鉄の釘を打ち込んで丈夫にしてやりました。

 こうしてみんなの病気を治してやりましたので、無茶先生のまわりに大きい、小さいお酒の樽がいくつも積まれました。

「もう病人は居ないか」

 と無茶先生が云いますと、宿屋の主人は畳にあたまをすりつけて、

「ありがとう御座います。この上はこの家うち中のものがみんな死なないようにして下さいませ」

 といいました。

「ウン、そうか。それは一番易やすいことだ」

 と無茶先生は笑いながら云いました。

「サア。みんな、ここへ来て並べ」

 と家うち中のものを眼の前に呼び寄せて、ズラリと並ばせました。

「サア、どうだ。みんな、死なないようにしてもらいたいか」

 と尋ねますと、みんなそろって畳に頭をすりつけて、

「どうぞどうぞ死なないようにして下さいませ」

 と拝みました。無茶先生は大威張りで、

「よし。そんなら何万年経ってもきっと死なないようにしてやる。その代り、おれの云うことをみんなきくか」

「ききますききます。私もどうぞヒョロ子と一所に何万年経っても死なないようにして下さい」

 と、豚吉まで一所になって拝みました。

 無茶先生は大笑いをしまして、

「アハハハハハ。貴様たちもそんな片輪でいながら死にたくないか。よしよし、それではみんなと一所におれの云うことをきけ。いいか。今からおれが歌うから、貴様たちはみんなそれに合わせて手をたたいて踊るのだ。その踊りが済めば、おれが一人一人に死なないように療治をしてやる」

 と云いながら、無茶先生は又一つの樽に口をつけて、中のお酒をグーッと飲み干します。と今度はその次の樽をあけて、みんなに思う様さま飲ませました。中にはお酒の嫌いなものもありましたが、無茶先生のお医者が上手なことを知っておりますから、これを飲んだら死なないようになるに違いないと思いまして、一生懸命我慢してドッサリ飲みましたので、みんなヘベレケに酔っ払ってしまいました。そうして無茶先生に、

「早く歌を唄って下さい。踊りますから」

 と催促をしました。

 無茶先生は拳固げんこで樽をポカンポカンとたたきながら、すぐに大きな声で歌い出しました。

「酒を飲め飲め歌って踊れ

 人の生命いのちは長過ぎる

 生れない前死んだらあとは

 何千何万何億年が

 ハッと云う間もない短さを

 生きている間に比べると

 人の生命いのちの何十年は

 長くて長くてわからぬくらい

 飲めや飲め飲め歌って踊れ

 人の一生は長過ぎる

 生れてすぐ死ぬ虫さえあるに

 人の一生はちと長過ぎる

 酒を飲め飲め歌って踊れ

 飲んで歌って踊り死ね

 サッサ飲め飲め死ぬ迄飲めよ

 サッサ歌えや死ぬまで歌え

 サッサおどれよ死ぬまで踊れ

 一度死んだら又死なぬ」

「イヤア、こいつは面白い。素敵だ素敵だ」

 と、酔っ払った豚吉がまっ先にドタドタ踊り出しますと、宿屋の主人もお神さんも、番頭や女中や子供までも、酔っ払ってはねまわります。しまいにはヒョロ子まで立ち上って、無茶先生のまわりをぐるぐるまわりながらヒョロリヒョロリと踊ってゆきます。大変な騒ぎです。

 しかも一まわり歌が済む度毎たびごとに、無茶先生はお茶碗で一ぱい宛ずつみんなにお酒を飲ませますので、酔っ払った人たちはなおのこと酔っ払って踊ります。そのうちにみんな疲れてヘトヘトになって、あっちへバタリ、こっちへバタリたおれて、とうとうみんな動けなくなってしまいまして、みんな虫の息で、

「もう、とてもお酒は飲めませぬ」

「踊りも踊れませぬ」

「早く死なないようにして下さい」

 と頼みました。

 その様子を見ると、無茶先生は歌をやめて、腹をかかえて笑い出しました。

「アハハハハ……面白かった。とうとうみんなおれに欺されて、動くことが出来なくなったな。それでは一つ死なないようにしてやろうか」

 と云いながら、鞄の中から鉄槌かなづちを一つ取り出しました。

 それを見ると豚吉は驚いて尋ねました。

「その鉄槌で何をなさるのですか」

「これでみんなの頭をたたき割って殺して終しまうのだ。いいか。一度死んでしまえば、今度はお前たちの望みどおりいつまでも死なないのだぞ。サア、覚悟しろ」

 と云うや否や鉄槌をふり上げて睨みつけますと、酔っ払って動けなくなっていた宿屋の主人もお神さんも、番頭も女中も子供も一時に飛び起きて、

「ワア。人殺し」

 と叫ぶと、吾れ勝ちに梯子段のところへ来て、あとからあとから転がり落ちて逃げてゆきました。只あとには、豚吉とヒョロ子だけが残っております。

 無茶先生は豚吉のそばへ寄りまして、

「ウム、感心感心。貴様はこの鉄槌でなぐられたいのか」

 と云いますと、今まで真赤に酔っていた豚吉は、真青になってふるえながら拝みました。

「オ、オ、お助けお助け。ワ、ワ、私は、コ、コ、腰が抜けて、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、動かれないのです」

 と涙をポロポロこぼしました。

「ワハハハハハ。いつも意久地いくじの無い奴だ。じゃあヒョロ子、お前はどうしたんだ。やっぱり腰が抜けたのか」

 とゆすぶって見ましたが、もうグーグーとねむってしまって返事もしません。

「アハハハハ。そんなに沢山飲みもせぬのにヒドク酔っ払ったな。よしよし。そのまんま寝ていろ。コレ、豚吉、心配するな。今云ったのはおどかしだ。お前たちを殺そうなぞと俺が思うものか。出来ないことを頼むから、ちょっと胡魔化ごまかして踊らせてやったのだ」

「エッ。それじゃ今のは冗談ですか」

「そうだとも」

「ああ、安心した。それじゃもっとお酒を飲みます」

「サア飲め、沢山ある。おれも飲もう」

 と、二人で樽を抱えてグーグー飲んでいるうちに、いつの間にか酔い倒れてしまいました。

 やがて夜が更けて、家中が静かになって鼾いびきの声ばかりきこえるようになりますと、表の方へゾロゾロゾロゾロと沢山の靴の音がきこえて来ましたが、その時ふッと眼をさました無茶先生が、何事かと思って雨戸のすき間からのぞいて見ますと、それは隣の町から無茶先生たちを捕えに来た兵隊の靴の音で、見る見るうちに三人の泊っている宿屋は兵隊に取り巻かれてしまいました。しかもその兵隊達はみんな、無茶先生の香水を嗅がせられて嚔くしゃみの出ないように、鼻の上から白い布片ぬのきれをかぶせて用心をしています。

 それを見ると無茶先生は可笑おかしいのを我慢しながら、

「よしよし。きのうおれに香水を嗅がされて死にそうになったので、魔法使いだと思って捕えに来たのだな。しかも鼻ばかり用心して来るなんて馬鹿な奴だ。そんならも一度驚かしてやる」

 と独言ひとりごとを云って、鞄の中から小さな瓶を取り出して、中に這入っていた粉薬を傍そばにあった火鉢の灰の中へあけて、スッカリ掻きまわしてしまいました。

 それから今度は下へ降りて、宿屋の台所へ行って塩を沢山と、物置へ行って六尺棒を一本と、大きな鋸のこぎりを一梃と、縄の束を一把と取って、又二階へ帰りますと、何も知らずに寝ているヒョロ子と豚吉にシビレ薬を嗅がせ初めました。

 宿屋を取り巻いた兵隊達は、鼠一匹逃がすまいと鉄砲を構えて待っております。

 その中の大将は、出来るだけそっと表の戸をコジあけさせて、兵隊を四五人連れて宿屋の中に這入って、主人の寝ている枕元に来ますと、靴の先でコツコツと蹴って起しました。

 お酒に酔っていい心持ちで寝ていた宿屋の主人は、何事かと思って眼をさましますと、自分の枕元に怖い顔をした大将と、鉄砲を持った兵隊が四五人立っていますので、夢ではないかと眼をこすって起き上りました。

 その時大将は腰のサーベルを見せながら、

「大きな声を出すと斬ってしまうぞ。只おれが尋ねることだけ返事しろ。貴様の処には髪毛や髭を蓬々と生やした真裸まっぱだかの怖い顔の男と、背の高い女と低い男の三人が昨夜から泊まっているだろう」

「ヘヘイ」

 と、宿屋の主人は寝床の上に手を突いて、ふるえながら返事をしました。

「その三人をおれたちは捕えに来たのだ。さあ、そいつどもの居る室に案内をしろ」

「カ、カシコマリマシタ」

 と、宿屋の主人はガタガタふるえながら立ち上って、階段を先に立って上りました。

 大将はサーベルをギラリと抜いて兵隊に眼くばせをしますと、兵隊も鉄砲に剣をつけてあとから上って行きました。

 そうして三人の寝ている室の前まで来ますと、主人も大将も兵隊達もめいめいに室の裏と表にわかれて、戸や障子のすき間から中の様子をのぞきましたが、みんなハッと肝を潰しました。

 無茶先生は、睡っているヒョロ子と豚吉を二人共丸裸体はだかにして、手は手、足は足、首は首、胴は胴に鋸でゴシゴシ引き切って、塩をふりかけて、傍にある空樽の中へ漬物のように押しこんでいます。そうして、一つの樽が一パイになると、又次の樽に詰めて、六つの樽を一パイにしますと、それぞれに蓋をして縄で縛り上げて、二つにわけて六尺棒の両端に括くくり付つけました。

 それから鞄から眼鏡を取り出してかけると、その鞄も一所に棒にくくり付けてしまって、火鉢の傍にドッカリと座りながら、

「サア来い。エヘンエヘン」

 と咳払いをしました。

 大将はこの様子を見るといよいよ驚き怖れましたが、思い切って大きな声で、

「サア、皆。魔法使いを捕えろッ」

 と怒鳴りますと、四五人の兵隊は一時に室の裏表からドカドカと飛び込みましたが、無茶先生は驚きません。大きな声で笑いました。

「アハハハ。何だ、貴様たちは」

「兵隊だ」

「何しに来た」

「貴様たち三人を捕まえに来た」

「お前たちの鼻の頭にかぶせた布片は何だ」

「これは昨日きのうのように貴様に香水を嗅がせられない要心だ」

「アハハハハ。いつおれが貴様たちに香水を嗅がせた」

「この野郎。隠そうと思ったって知っているぞ。貴様は無茶先生だろう」

「馬鹿を云え。おれは塩漬け売りだ。この通り荷物を作って、夜が明けたらすぐに売りに出かけようとするところだ。第一、貴様たち三人を捕えに来たと云うが、この室中にはおれ一人しか居ないじゃないか。ほかに居るなら探して見ろ」

 と睨み付けました。その時

「嘘だッ」

 と雷のように怒鳴りながら大将が飛び込んで来ました。

 飛び込んで来た大将は刀をふり上げながら、無茶先生をグッと睨み付けました。

「この嘘吐つきの魔法使いめ。貴様が今しがた人間を塩漬けにしていたのを、おれはちゃんと見ていたぞ。そうして、一人しか居ないなぞと胡魔化そうとしたって駄目だぞ」

「アハハハハ。見ていたか」

 と無茶先生は笑いました。

「見ていたのなら仕方がない。いかにもおれは自分が助かりたいばっかりに、二人の仲間を殺して塩漬けにしてしまった。サア、捕えるなら捕えて見ろ」

「何をッ……ソレッ」

 と大将が眼くばせをしますと、大将と兵隊は一時に無茶先生を眼がけて斬りかかりましたが、彼かの時遅くこの時早く無茶先生が投げた火鉢の灰が眼に這入りますと、大将も兵隊も忽ち眼が見えなくなって、一時に鉢合せをしてしまいました。

「これは大変」

 と逃げようとしましても逃げ道がわかりません。壁や襖ふすまにぶつかったり、樽に躓つまずいたりして、転んでは起き、起きては転ぶばかりです。

「ヤアヤア。大変だ大変だ。又魔法使いの魔法にかかった。みんな来て助けてくれ助けてくれ」

 と大将が叫びますと、無茶先生も一所になって、

「助けてくれ助けてくれ。みんな来いみんな来い」

 と叫びます。

 これを外できいた兵隊たちは、

「ソレッ」

 と云うので吾れ勝ちに家うちの中へ駈け込んで、ドンドン二階へ上って来ましたが、みんな無茶先生から灰をふりかけられて盲になってしまいます。そうして、とうとう家中は盲の兵隊で一パイになってしまいました。

「サア、どうだ。みんな眼が見えるようになりたいなら、静かにおれの云うことをきけ」

 と、その時に無茶先生が怒鳴りますと、今まで慌あわて騒さわいでいた兵隊たちはみんな一時にピタリと静まりました。

「いいか、みんなきけ。今から一番鶏どりが鳴くまでじっと眼をつぶっていろ。そうすれば眼が見えるようになる。おれはこれから二人の塩漬けの人間を生き上らせに行くんだ。邪魔をするとおれの屁への音をきかせるぞ。おれの屁の音をきくと、耳がつぶれて一生治らないのだぞ。ヤ、ドッコイショ」

 と云ううちに、二人の塩漬けの樽と鞄を結びつけた棒を担かつぎ上げて、まだお酒の残っている樽を右手に持ちながら梯子段を降り初めました。

「ヤアヤア。こいつは途方もなく重たいぞ。ああ、苦しい。屁が出そうだ屁が出そうだ。オットドッコイ。あぶないあぶない。屁の用心。屁の用心」

 と云いながら、大威張りで降りて表へ出て行きましたが、兵隊たちはみんな耳へ指を詰めて眼をとじて、一生懸命小さくなっていましたので、誰も捕まえようとするものがありません。

 そのうちに無茶先生は表へ出ますと、大きな声で、

「アア。やっとこれで安心した。ドレ、ここで一発放そうか」

 と云ううちに、大きなオナラを一つブーッとやりました。

 無茶先生のオナラをきいた兵隊たちは、

「大変だっ」

 と耳を詰めましたが、あとは何の音もきこえません。

 さてはほんとに耳が潰れたかと思っていますと、そのうちに、

「コケッコーコーオ」

 と一番鶏の声がきこえました。

「オヤオヤ。一番鶏の声がきこえるくらいなら耳は潰れていないのだな。そんならあの屁は只の屁で、きいても耳は潰れないのだな。サテはおれたちは欺されたな」

 と、一人の兵隊が眼を開いて見ますと、室へやの中にともっているあかりがよく見えます。

「ヤッ、眼があいた眼があいた。オイ、みんな眼をあけろ眼をあけろ。何でも見えるぞ……きこえるぞ」

 と怒鳴りましたので、兵隊達は一時に起き上りました。そこへ大将も起きて来て、

「サア、魔法使いのあとを追っかけろ」

 といいましたので、兵隊たちは勢い付いて八方に駈け出して無茶先生を探しましたが、まだあたりがまっ暗くらで、どこへ行ったかわかりませんでした。

 無茶先生は、その時町を出てだいぶあるいていましたが、右手に持ったお酒の樽へ口をつけてグーグー飲みながら、

「ウーイ。美味おいしい美味い。酔った酔った。エー、豚の塩漬けは入りませんか。ヒョロの塩漬けは入りませんかア。アッハッハッハッ。面白い面白い。エー、豚とヒョロの塩漬けやアーイ」

 と怒鳴りながら、あっちへよろよろ、こっちへよろよろとしてゆきます。

「アー、誰も買いませんか。豚とヒョロの塩漬けだ。安い安い。百斤きんが一銭だ一銭だ。アッハッハッハッ。面白い面白い。樽の中で手は手、足は足に別々になって寝ているんだ。眼がさめたら困るだろう。アハハハハ。誰か買わないか、豚とヒョロの無茶苦茶漬けやアイ」

 とあるいているうちにだんだんと夜があけますと、いつの間にか道が間違って大変な山奥に来ています。

「イヤア、こいつは驚いた。酔っているものだから飛んでもないところへ来てしまった。これじゃ、いくら怒鳴ったって誰も買い手が無い筈だ。ああ、馬鹿馬鹿しい。ああ、くたぶれた。第一こんなに重くちゃ、これから担いでゆくのが大変だ。一つ生き上らして、自分で歩かしてやろう」

 といいながら、無茶先生は二人を塩漬けにした樽を担いで、谷川の処へ降りて来ました。

 無茶先生は山奥の谷川の処まで来ますと、お酒の樽の蓋をあけて、中から豚吉とヒョロ子の手や足や首や胴を取り出して、谷川の奇麗な水でよく洗いました。

 それから鞄をあけて一つの膏薬こうやくの瓶を出して、切り口へ塗って、豚吉は豚吉、ヒョロ子はヒョロ子と、間違えないようにくっつけ合わせて、そこいらにあった藤蔓ふじづるで縛ってしばらく寝かしておきますと、やがて二人ともグーグーといびきをかき初めました。

 その時に無茶先生は、谷川のふちに生えていた細い草の葉を取って、二人の鼻の穴へソッと突込みますと、二人共一時に、

「ハックションハックション」

 と嚔をしながら眼をさまして、起き上りました。

「ヤア。お早う」

 と無茶先生が声をかけますと、二人とも眼をこすりながら、

「お早う御座いますお早う御座います」

 とお辞儀をしましたが、又それと一所に二人とも飛び上って、

「アア、大変だ。咽喉のどがかわく咽喉がかわく。ああ、たまらない。腹の中じゅう塩だらけになったようだ」

「私も口の中が焼けるようよ。ああ、たまらない」

 といううちに、二人とも谷川の処へ駈け寄って、ガブガブガブガブと水を飲み初めました。

「アハハハハハ」

 と無茶先生は笑いました。

「咽喉のどがかわく筈だ。お前たちは塩漬けになっていたんだから」

「エッ。塩漬けに……」

 と二人共ビックリして、水を飲むのを止めてふり向きました。

「ああ。おれはお前たちをこの樽に塩漬けにして、おれはやっとここまで逃げて来たんだ」

 と、無茶先生が今までのことを話しますと、二人は夢のさめたように驚きました。そうして、いよいよ無茶先生のエライことがわかりまして、その足もとにひれ伏してお礼を云いました。

 しかし、やがてヒョロ子は自分の身体からだのまわりを見まわしますと、泣きそうな顔になりました。

「けれども先生、私たちはこんなに裸体はだかになりましたがどうしましょう。このまま道は歩かれませぬが、どことかに着物はありませぬでしょうか」

「まあ、待て待て」

 と無茶先生はニコニコ笑いました。

「そんなに心配するな。ここは山奥だから誰も見はしない。だから恥ずかしいこともないのだ。お前たちの身体からだがどんなに長くても短くても笑うものは無いのだ。それよりもおれについて来い。これから長い長い旅をするのだ。そうするとおしまいにいい処へ連れて行ってやるから」

 と云ううちに先に立って歩き出しました。

 豚吉とヒョロ子は無茶先生のあとからついてゆきますと、無茶先生は包みを一つ抱えたまま先に立って、二人をだんだん山奥へ連れてゆきました。そのうちにお腹が空すきますと、ちょうど秋の事で、方々に栗だの柿だの椎しいだの榧かやだのいろんな木の実が生なっております。それを千切ってたべては行くのでしたが、都合のいい事はヒョロ子が当り前の人の二倍も背が高いので、いつも三人が食べ切れない程木の実を千切ることが出来ました。

 そのうちになおなお山奥になりますと、鳥や獣けものが人間を見たことがないので珍らしそうに近寄って来ます。そうしてしまいには、友達のように身体からだをすりつけたり、頭にとまったりするようになりました。そんなのにヒョロ子は千切った木の実を遣りながら、

「まあ、先生。ここいらには猪や鹿がこんなに沢山居るのですね」

 と云いましたので、無茶先生も豚吉も大笑いをしました。

 こんな風にして何日も何日も旅を続けてゆくうちに、或る日ヒョロ子はシクシク泣き初めましたので、無茶先生がどうしたのかとききますと、ヒョロ子は涙を拭いながら、

「お父さんやお母さんに会いたくなりましたのです」

 と申しました。それをきくと豚吉も一所に泣き出しました。

「私も早くうちへ帰りとう御座います。たった三人切りでこんな山の中をあるくのは淋しくて淋しくてたまりません」

「馬鹿な」

 と、無茶先生は急に怖い顔になって二人を睨みつけました。

「何をつまらんことを云うのだ。お前たちは自分の姿を人が見て笑うのがつらいから村を逃げ出して来たのじゃないか。こうして山の中ばかりあるいていれば誰も笑う者が無いから、おれはお前たちをここへ連れて来たのだ。こうして一生山の中ばかりあるいていれば、これ位のん気なしあわせなことははいではないか」

「エッ……先生、それでは私たちは一生こうして山の中ばかり歩いていなければならないのですか」

 と豚吉は叫びました。

「ああ。何という情ないことでしょう。私はもう笑われても構いませぬ。何故なぜ逃げ出したと叱られても構いませぬ。早くうちへ帰ってお父様やお母様にお眼にかかりとう御座います。どうぞどうぞ先生、私たちへうちへ帰る道を教えて下さいませ」

 と、二人共地びたに坐わって、泣きながら無茶先生を拝みました。

 そうすると無茶先生も立ち停まって、ジッと二人を見ていましたが、又怖い顔をして、

「それは本当か」

 と尋ねました。

「本当で御座います本当で御座います。もうどんなことがあっても、両親や友達を欺して村を逃げ出したりなんぞしません」

「きっときっと親孝行を致します」

 と、豚吉もヒョロ子も、涙をしゃくりながら無茶先生にあやまりました。

 無茶先生はその時初めてニッコリしました。

「それをきいて安心した。おれは、お前たちが両親や友達にかくれて逃げて来たものだとわかったから、罰を当てたのだ。お前たちの身体からだをどんなに立派に作りかえても、心が立派にならなければ何もならないと思ったから、わざと両親が恋しくなるようにこんな山の中をいつまでも引っぱりまわしたのだ。けれどもお前たちがそんな心になれば、いつでもお前達の身体からだを立派な姿にしてやる。ちょうどいい。もう山奥は通り過ぎて人間の居る村に近付いている。あれ、あの音をきいて御覧」

 と向うの方を指しました。

 無茶先生が指した方を向いて豚吉とヒョロ子が耳を澄ましますと、一里か二里か、ズッと向うの方から、

「テンカンテンカンテンカンテンカン」

 と鍛冶屋の音がきこえます。

「アッ、鍛冶屋の音が!」

「人間が居る」

 と、二人は飛び上って喜びました。そうして無茶先生と一所に大急ぎでそちらへ近づきましたが、やがてとある崖の上へ出ますと、向うは一面の田圃たんぼで、すぐ眼の下には川が青々と流れて、その流れに沿うた道ばたの一軒の家から、最前の鉄槌かなづちの音が引っきりなしにきこえて来ます。

「ヤア。ちょうどいい処にあの鍛冶屋はあるな。よしよし、あの家を借りてお前たちを立派な姿に作りかえてやろう。ちょっと待て。あの家うちの様子を見て来るから」

 といううちに無茶先生はグルリと崖のふちをまわって、その家うちの門の口へ来ました。

 見るとこの家うちの主人は五十ばかりのお爺さんですが、独身者ひとりものと見えてお神さんも子供も居ず、たった一人で一生懸命鉄槌で鉄敷かなしきをたたいて、テンカンテンカンと蹄鉄を作っています。それを見ると無茶先生は大きな口を開いて、

「アハハハハハ。テンカンテンカン」

 と笑いました。

 鍛冶屋のお爺さんは不意に門口かどぐちから笑うものが居るので吃驚びっくりして顔をあげて見ますと、髪毛と髭を蓬々とさした真裸体まっぱだかの男が鞄を一つ下げて立っておりますので、大層腹を立てまして怒鳴り付けました。

「何だ、貴様は」

「おれは山男だ」

「山男が何だって鞄を持っているのだ」

「この中にはおれが山の草で作った薬が一パイに詰まっているのだ。どんな病気に利く薬でもあるのだ」

 これをきくと鍛冶屋の爺さんは急にニコニコしまして、

「それあ有り難い。それじゃテンカンに利く薬もあるだろうな」

 とききました。

 無茶先生はトボケた顔をして、

「テンカンとはどんな病気だ。鉄槌で物をたたく病気か」

 と尋ねますと、爺さんは頭を掻きながら、

「そうじゃない。不意に眼がまわって、引っくりかえって泡を吹く病気だ。わたしはその病気があるためにお神さんも貰えずに、たった一人で鍛冶屋をしているのだ」

 と云ううちに泣きそうな顔になりました。

「ウン、その病気か。それならたった一度で利く薬がある。けれども只では遣れないぞ」

「エエ。それはもう私に出来ることでお前さんの望むことなら、何でも御礼にして上げる」

「それじゃ、まずこの仕事場を日の暮れるまで貸してくれ。それから町へお使いに行ってもらいたい」

「それはお易い御用です。今からでもよろしゅう御座います」

「よし、それではこの薬を飲め」

 と、鞄の中から何やら抓つまんで、鍛冶屋の爺さんの掌てのひらに乗せてやりました。

「ヘイヘイ。これは有り難う御座います」

 とピョコピョコお辞儀をしながらよくよく見ましたが、不思議なことに何べん眼をこすってもそのお薬が見えません。

「これは不思議だ。私の眼がわるくなったのか知らん」

 とお爺さんは独言ひとりごとを云いました。

「見えるものか」

 と無茶先生は笑いました。

「それは人間の眼には見えないほど小さな丸薬だ。それを飲めばどんなテンカンでもすぐになおる。嘘だと思うなら嘗なめて見ろ」

 お爺さんはすぐに舌を出して、自分の掌てのひらをペロリと嘗めて舌なめずりをしましたが、

「フーン。これは不思議だ。大層いいにおいがしますな。何だか腹の中まで涼しくなるような……」

 と眼をキョロキョロさせました。

「それで貴様のテンカンは治ったのだ。そのお礼に貴様は今から町へお使いに行って来い。それはおれども三人の着物を買いにゆくのだ。おれはちょうど貴様と同じ位の身体からだだからお前の身体からだに合う上等の着物と、それから五尺五寸の女の着物と、五尺八寸の男の着物と買って来い。お金はここにある」

 と、鞄の中から金貨を一掴み出してやりました。

 お爺さんはその金を受け取らずに手を振って申しました。

「いけませんいけません。私の病気はビックリテンカンというので、何でもビックリすると眼がまわって引っくり返るのです。ですから、こんな淋しいところの一軒家に居るのです。とても賑にぎやかな、ビックリすることばかりある町へはゆかれませんから、こればかりは勘弁かんべんして下さい」

 と申しました。

「この馬鹿野郎」

 と無茶先生は怒鳴りつけました。

「その病気はもう治ったのじゃないか。嘘かほんとか試しに行って見ろ。もし町へ出て眼がまわるようだったら、着物を買わずに帰って来い。その金はおれの薬の利かない罰に貴様に遣るから」

「えっ、こんなに沢山のお金を?」

「そうだ。その代り、何ともなかったら、着物を買って来ないと承知しないぞ」

「それはもうきっと買って来ます。それじゃためしに行って来ましょう」

 と、お爺さんは大急ぎで支度をして出て行きました。

 お爺さんがもう大分行ったと思うと、無茶先生はその家の表へ出て崖の上を見ながら、

「オーイ。降りて来──イ」

 と呼びました。

「ハーイ」

 と豚吉とヒョロ子が返事をしますと、やがて二人とも降りて来ましたが、久し振り人間の住む家を見ましたので、二人ともキョロキョロしておりました。

 一方に、お使いに出たお爺さんは、二三町行った時うしろの方から誰か大きな声で呼ぶ声がしましたので、立ち止まって見ておりますと、やがて家のうしろの崖の上から恐ろしく背の高い女と背の低い男が、しかも丸裸で降りて来て自分の家に這入りましたので、お爺さんの胸は急にドキドキし初めました。そうして、これは何でも不思議なことが初まるに違いないと思いまして、ソッと引返して裏の方へまわって、そこにあった梯子を伝って屋根裏から天井へ這入って、家の中の様子をのぞきました。

 鍛冶屋の爺さんが天井の節穴から覗いているとは知らずに、無茶先生は久し振り人間の住む家に這入ってキョロキョロしている豚吉とヒョロ子のうしろから鍛冶屋の鉄槌で頭を一つ宛ずつなぐり付けますと、豚吉とヒョロ子はグーとも云わずに土の上にたおれてしまいました。

 鍛冶屋の爺さんは驚きました。

「ヤア。これは大変だ。あの山男は人殺しだ」

 と思わず声を立てるところでしたが、やっと我慢をしました。

「それにしてもあの殺された人間は何という不思議な姿であろう。男の方は横の丸さが当り前の人間の倍もあるのに、背丈けは半分しかない。又、女の方はヒョロヒョロ長くて、まるで竹棹たけざおのようだ。何という不思議なことであろう。あの山男はあの二人を殺して喰うのか知らん」

 と、一生懸命息を詰めて見ておりました。

 無茶先生はそれから鍛冶屋にありたけの鉄を集めて真赤に焼いて、たたき固めて、一つの大きなヤットコと鉄の箱を作りました。

 それから鍛冶屋にありたけの炭を集めて、ドンドン炉の中にブチ込んで、一生懸命〓(「韋+鞴のつくり」)ふいごで火を吹き起しますと、その火の光りで家中が真赤になりました。

「オヤオヤ。家が焼けなければいいが」

 と心配しいしい見ておりますと、無茶先生は鉄の箱をその上にかけて、水を一パイ汲んで、豚吉とヒョロ子をその中に投げ入れて、あとから真っ黒な薬を一掴み入れて煮初めました。

「サテ、煮て喰うのかな」

 と思いながらお爺さんが見ておりますと、豚吉とヒョロ子は中の湯が煮立つにつれて真黒になって、まるで鉄のようになってしまいました。

 それを大きなヤットコで挟み出して、鉄の箱の中の水を汲み出して外へ棄てて、鉄の箱も外へ出しますと、又も炭をドシドシ炉の中に入れて前よりも一層非道ひどく燃やしましたが、やがてその炭の火が眼も眩くらむ程まっ赤におこると、無茶先生はさっきこしらえた大きなヤットコを取り出し、先ず豚吉を挟んで火の中へ、

「ドッコイショ」

 と突込みました。

「ヤア大変だ。この山男は人間を焼いて喰う化け物だ。人間の丸焼きだ丸焼だ」

 と、鍛冶屋のお爺さんはふるえ上って見ておりました。

 ところが豚吉は焼けも焦げもしません。だんだん赤くなって、しまいには当り前の鉄と同じように美しい火花がパチパチと飛び出す位柔らかに焼けて来ました。

 それを無茶先生はヤットコで引き出して、大きな鉄敷の上に乗せて、片手に大きな鉄槌をふり上げて、

「スッテンスッテンスッテン」

 とたたきましたので、豚吉の身体からだはだんだん長く延びて来て、当り前の長さになりました。

 それから又火に突込んで、焼いて柔らかくしては、又引き出してたたきます。そのうちに豚吉の眼も鼻も口も、身体からだや手足の恰好も、すっかり無茶先生の鉄槌でたたき直されて、ホントに立派な、絵のような美しい人間の姿になりました。

「イヤア。これは不思議だ。あの山男は魔法使いだ。けれども、あんなに鉄のようになった人間をあの山男はどうするのだろう。もとの通りに生かすことが出来るのか知らん」

 と鍛冶屋の爺さんは独言ひとりごとを云いました。

 無茶先生は豚吉の身体からだをたたき直しますと、そのまんま火の中へ入れて、今度はヒョロ子を引きずり出して、鉄敷の上に乗せて、二つにタタき屈まげましたので、ちょうど当り前の人間の長さになりました。それを焼いてはたたき、たたいては焼いて、頭も尻も無い一つの大きな鉄の玉にしましたので、天井裏からのぞいていた鍛冶屋の爺さんは又肝を潰しました。

「ヤアヤア。あんな丸いものになった。人間の鉄の玉が出来上った。あの山男はあんなまん丸いものをもとの通りに生かすつもりか知らん」

 と、なおも眼をこすって見ていますと、無茶先生は又も鉄槌を振り上げてその鉄の玉をたたいているうちに、丸い鉄のまん中から頭をたたき出しました。その次には、その頭の左右から両手をたたき出しました。そうしてその下に胴を作り、足を作ってしまいますと、今度は髪毛をたたき出し、眼鼻を刻みつけ、耳から手足の指から爪まで作りつけて、まるで女神のように美しい女としてしまいました。そうしてそれが済むと、豚吉と一所に並べて火の中に突込んで、その上から残った炭を山のように積み上げて、ブウブウ〓(「韋+鞴のつくり」)を動かし初めました。

 初め赤く焼けていた豚吉とヒョロ子は、だんだん白い光りを放つように焼けて、身体からだ中から火花が眼も眩むほど飛び散り初めました。その時に無茶先生は両手でヤットコを握って、初めに豚吉を、その次にヒョロ子を引きずり出して、前を流れている川の中へドブンドブンと投げ込みました。

 鍛冶屋のお爺さんはこれを見ると、慌てて天井を出て、裏の物置の屋根から裏庭へ飛び降りて、大急ぎで川のふちへ来ました。

 見ると、豚吉とヒョロ子が沈んだ川の水の底からはグルングルングルグルグルと噴水のように湯気や泡が湧き出して、水の上に吹き上っておりましたが、やがてだんだんとその泡が小さくなって消えてしまいまして、青い水の上にポッカリと白い豚吉の身体からだが浮き上りました。見ると、それは当り前の人間とちっともかわりがないどころでなく、昔の豚吉とはまるで違った立派な姿になっているのでした。

「これは不思議」

 と鍛冶屋のお爺さんが思う間もなく、今度はヒョロ子の身体からだが青い水の上に浮上りましたが、これも今までとはまるで違った美しい別嬪べっぴんさんになっております。

「不思議不思議」

 と、鍛冶屋の爺さんは手をたたいて申しました。

 これをきいた無茶先生がヒョイとその方を見ますと、鍛冶屋の爺さんが立っていますので、無茶先生はビックリしまして、

「ヤア。貴様はもうお使いに行って来たのか。何という早い足だ。もしや今おれがしていたことを見はしまいな」

 鍛冶屋の爺さんは見る見る真青になってふるえ上りまして、そこへ座ってしまいました。

「どうぞお許し下さいまし。魔法使いの山男様。私はすっかり見ていました。ああ恐ろしや、肝潰しや。又テンカンが起りそうだ。どうぞ生命いのちばかりはお助けお助け」

 と手を合せて拝みながら、頭を往来の土の上にすりつけました。

 無茶先生はこれをきくと、大きな眼玉を剥むいて鍛冶屋の爺さんを睨みつけましたが、

「よしよし、見たら仕方がない。その代り今見たことを一口でも人に話すと、それだけビックリしても起らなくなったテンカンがまた起るようになるぞ。決して人に話すことはならぬぞ」

 と叱りつけますと、お爺さんは大喜びです。

「エエ、エエ。それはもう決して人に話しません。どうぞお助けお助け」

 と、また拝みました。

「よしよし。助けてやるから、あの二人の身体からだを水から上げろ。それから貴様の家うちへ連れ込んで、すっかり拭き上げて、貴様の布団を着せて寝かせ」

「ヘイヘイ。かしこまりました」

 お爺さんは大勢いで二人を水から引き上げて、無茶先生の云いつけ通り家うちの中に担ぎ込んで、二人を寝かしました。

「コレコレ。それでは貴様は今から町へ行って、さっき頼んだ買物をして来い。それから腹が減ったから、喰い物とお酒を買って来い」

「ヘイヘイ。そして、その召し上りものはどんなものがよろしゅう御座りましょうか」

「それは葱ねぎを百本、玉葱を百個、大根を百本、薩摩芋さつまいもを百斤、それから豚と牛とを十匹、七面鳥と鶏にわとりを十羽ずつ買って来い」

「えっ。それをあなたが一人で召し上るのですか」

「馬鹿野郎、そんなに一人で喰えるものか。葱は白いヒゲだけ、玉葱は皮だけ、大根は首だけ、薩摩芋は頭と尻だけ、豚は尻尾だけ、牛は舌だけ、七面鳥は足だけ、鶏は鳥冠とさかだけ喰うのだ。それからお酒は一斗買って来い。ホラ、お金を遣る」

「ヘイヘイ」

「それからも一度云っておくが、どんなことがあっても貴様が見たことをシャベルなよ。魔法使いだといって兵隊や巡査でも来るとうるさいから。そればかりでない。貴様のテンカンもまた昔の通りになるのだぞ」

「ヘイヘイ、決して申しませぬ。それでは行って参ります」

 と、鍛冶屋のお爺さんは車力しゃりきを引いて町へ出かけました。

 ところが、この鍛冶屋のお爺さんはまた困ったお爺さんで、何でも自分の見たことやきいたことを人に話したくて話したくてたまらない性質たちでした。

「これは困ったことになった。うっかりしゃべったら、おれの病気がもとの通りになるばかりでなく、あの山男を捕えに兵隊や巡査なんぞが来たら、おれの家うちはブチ壊されてしまうかも知れない。けれどもまた、あんな不思議な珍らしいことを見ておりながら、人に話すことが出来ないとは何という情ないことになったものだろう。ああ、困った困った」

 と、独言ひとりごとを云い云い行くうちに、やっとのことで町に来ました。

 さて、町に来て見ますと、その賑やかなこと、立派なこと。ビックリすることばかりです。けれどもお爺さんは驚きません。

「もうテンカンは治っているから大丈夫だ。それに、この町中の人が見たことのない不思議なものをおれは見ているんだぞ。おれは大変なことを知っているんだぞ。それを話したら、みんな驚いてテンカンを引くだろう。けれどもおれは話さないのだ。ドレ、ソロソロ買物をしようか」

 と独言ひとりごとをいいながら、とある着物屋の門口まで来ました。

 その着物屋では帽子や靴も一所に売っておりましたので、鍛冶屋のお爺さんは喜んで中へ這入って、

「若い男と女と、それから魔法使いの着物の中うちで一番上等のを下さい」

 と云いました。店の主人はビックリしまして、

「ヘエ。若い男と女の方のお召し物は御座いますが、魔法使いの着物は御座いませぬ。一体それはどんなお方で御座いますか」

 と尋ねました。鍛冶屋のお爺さんはそれが云いたくてたまらないのを我慢して、

「それは裸体はだかの山男です」

 と申しました。主人はいよいよ呆れてしまいました。

「山男さんの着物もこの店には御座いません」

「そんなら、その山男はお医者だからお医者の着物を下さい」

「ああ、お医者様のお召物なら上等の洋服が御座います。それを差し上げましょう」

「ああ、早くそれを出して下さい」

 こう云って、三人の着物から帽子から靴まで買いましたが、店の主人は珍らしいお話が好きと見えて、その着物を包んでやりながら鍛冶屋のお爺さんに尋ねました。

「しかし、その山男でお医者さんで魔法使いのお方は、よほど不思議なお方で御座いますね。今どこにおいでになるお方で御座いますか」

「私のうちに居ります」

「ヘエッ。それじゃ若い男と女の方もあなたのお家うちにおいでなのですか」

「そうです」

「ヘエ……。それではどうしてこのような立派なお召物がお入り用なのですか」

「三人共丸裸なのです」

「ヘエーッ。それはどうしたわけですか」

 と、店の主人は肝を潰してしまいました。

 鍛冶屋の爺さんはもうそのわけが話したくてたまらなくなりましたが、話しては大変だと思いまして、慌てて着物や何かを風呂敷に包みながら答えました。

「そのわけはいわれません」

 そうするとこの店の主人はいよいよききたくてたまらない様子で、眼をまん丸にしながら、

「その魔法使いの人はどうしてあなたの家に来られたのですか」

 と尋ねました。鍛冶屋のお爺さんはいよいよ慌てて、お金を払って荷物を荷になって出てゆこうとしました。その袖を店の主人はしっかりと捕えまして、

「それではたった一つお尋ね致します。それを答えて下さればこのお金は要りません。その品物はみんな無代価ただであげます」

「ヘエ。どんなことですか」

「あなたのお家うちはどこですか」

 鍛冶屋のお爺さんは眼を白黒しましたが、

「それをいえば私は又テンカンを引きます」

 と云ううちに、袖をふり切って表に飛び出して、荷物を荷かついで車力を引きながらドンドン駈け出してゆきました。

 それから鍛冶屋の爺さんは八百屋の門の口まで車力を引っぱって来ましたが、又考えました。

「待てよ。あの魔法使いの山男は葱は白いヒゲだけ、玉葱は皮だけ、大根は首だけ、芋は尻と頭だけと云ったぞ。そのほかの鷄にわとりや獣けものもみんなすこしずつしか喰べないと云ったぞ。そうして、その入り用なところはみんな棄ててしまうようなところばかりだから、お金を出して丸ごと買うのは馬鹿馬鹿しい。八百屋や肉屋へ行ってそこだけ貰って来れば、いくらでもある上に、持って帰るのに軽くていい。そうだそうだ」

 鍛冶屋のお爺さんは八百屋へ這入って来まして、

「玉葱の皮と大根の首と、葱の白いヒゲと、お芋の頭と尻尾を下さい」

 といいますと、八百屋の丁稚でっちは笑い出しました。

「そんなものは八百屋には無いよ。丸ごとならあるけれど」

「ヘエ。それじゃどこにありますか」

「どこにも無いよ。料理屋へ行けばハキダメに棄ててあるけれども、キタナイからダメだ。やっぱり丸ごと買うよりほかはないよ」

「オヤオヤ、困ったな」

「けれども、お爺さんはそんなものを買って何にするんだい」

 と、こう丁稚に云われますと、お爺さんは思わず、

「それは山男の魔法使い……」

 といいかけましたが、すぐに最前無茶先生に云われたことを思い出しまして、眼を白黒して黙ってしまいました。

 鍛冶屋のお爺さんは、それから今度は肉屋へ来まして、

「豚の尻尾と牛の舌と、七面鳥の足と、鶏にわとりの鳥冠とさかを十匹分ずつ下さい」

 と頼みました。肉屋のお神さんはやっぱりビックリしましたが、

「まあ、大変な御馳走をお作りになるのですね。七面鳥の足と鶏の鳥冠とさかは十匹分ぐらい御座いますけれども、牛の舌と豚の尻尾は三匹分ずつしか御座いませぬ。あとは料理屋でもお探しになってはいかがですか」

 と申しました。鍛冶屋のお爺さんはガッカリして、

「ああ。やっぱり料理屋に行かなければならぬのか」

 と申しました。そうすると、肉屋のお神さんは不思議そうに眼を丸くしながら尋ねました。

「けれども、そんなに上等のお料理を誰がおつくりになるのですか」

「それは山男の魔法使い……」

 と、鍛冶屋のお爺さんは又うっかりしゃべりかけましたが、急に首をちぢめて駈け出しました。

 鍛冶屋のお爺さんはあちらこちらと尋ねまわって、とうとうこの町で第一等の料理屋を見つけ出しまして、そっと台所からのぞいて見ますと、広いその台所の向うには火がドンドン燃えて、湯気がフウフウ立っております。そのこちらの大きな大きな俎まないたのまわりには、白い着物を着た料理人が大勢並んで野菜や肉を切っておりますが、葱の白いヒゲや玉葱の皮や、大根の首や薩摩芋の尻や頭なぞはドンドン切り棄てて、大きな樽の中に山のようになっております。

「ここだここだ。ここへ頼めば何でもあるに違いない」

 と鍛冶屋の爺さんはうなずいて中に這入りまして、二つ三つお辞儀をしました。

「ちょっとお願い申します。その樽の中のものを私に売って下さいませんか」

 と尋ねました。

 料理人はふり返って見ますと、みすぼらしい爺さんが大きな包みをかついで立っていますので、

「何だ、貴様は」

 と尋ねました。

「私は鍛冶屋で」

「かついでいるのは何だ」

「山男と、鉄で作った人間二人の着物で……」

 これをきくと、十人ばかり居た料理人が、みな仕事をするのをやめて、鍛冶屋の爺さんの顔を見ました。

「何だ。山男と鉄で作った人間に着せるのだというのか」

「そうです」

「フーン。それは面白い珍らしい話だ。それじゃ、この樽の中のゴミクタは何のために買ってゆくのだ」

「それはその山男がたべるのです。まだこのほかに豚の尻尾と七面鳥の足と、鶏の鳥冠とさかと牛の舌も買って来いと云いつけられました」

「何だ……それは又大変な上等の料理に使うものばかりではないか。そんなものを山男が喰べるのか」

「そうです」

「不思議だな」

 と、みんな顔を見合わせました。

 そうすると、その中で一番年を老とった料理人が出て来て、鍛冶屋のお爺さんに尋ねました。

「オイ爺さん。お前にきくが、今云った豚の尻尾だの何だのはこの国でも第一等の御馳走で、喰べ方がちゃんときまっているのだからいいが、この樽の中に這入っている芋の切れ端だの大根の首だの、葱の白いヒゲだの玉葱の皮だのいうものは、どうしてたべるかおれたちも知らないのだ。お前はそれをどうして食べるか知っていはしないかい」

「ぞんじません。おおかたあの山男は魔法使いですから魔法のタネにするのでしょう」

「何、その山男が魔法使い?」

「そうです」

「それじゃ、その鉄で作った人間は何にするのだ」

 鍛冶屋のお爺さんは又困ってしまいました。こんなに大勢に自分の見たことを話したら、どんなにビックリするか知れないと思うと、話したくて話したくてたまりませんでしたが、一生懸命で我慢をしまして、

「それは申し上げられません。どうぞお金はいくらでもあげますから、玉葱の皮と、葱の白いヒゲと大根の首と、豚の尻尾と、七面鳥の足と、牛の舌と鶏の鳥冠とさかとを売って下さい」

「それは売ってやらぬこともないけれども、そのお話をしなければ売ってやることはできない」

 鍛冶屋のお爺さんは泣きそうな顔になりました。

「どうぞ、そんな意地のわるいことを云わないで売って下さい。そのお話をすると、私は又テンカンを引かなければなりませんから」

「何、そのお話をするとテンカンを引く? それはいよいよ不思議な話だ。サア、そのお話をきかせろきかせろ」

 といううちに、台所に居た人たちは皆、鍛冶屋のお爺さんのまわりに集まって来ました。

 鍛冶屋のお爺さんはいよいよ困って、逃げ出そうかしらんと思っておりますところへ、この家うちの若い主人夫婦が出て参りまして、

「何だ何だ。みんな、何だってそんなに仕事を休んでいるのだ」

 と叱りましたが、この話を女中からききますと、やっぱり眼を丸くしまして、

「おお、それは面白い。おれも玉葱の皮だの大根の首だのの料理はきいたことが無い。それに、山男の魔法使いだの鉄の人間だのいうものも見たことが無い。それではお爺さん。お前さんの云う通りの品物をみんな揃えてあげるから、お前さん、ごく内証で私達夫婦をつれて行ってくれないか。私たちはその玉葱の皮や何かのお料理が見たいから」

 と云いました。けれども、お爺さんはなかなかききません。

「あの山男は鉄槌で人間をたたき殺して、火にくべて真赤に焼いて、たたき直したりするのですから、うっかり見つかると、私共はどんな魔法にかかるかわかりません」

「それはいよいよ不思議だ。なおの事その山男の魔法使いが見たくなった。是非つれて行ってくれ」

「いけませんいけません」

 と、何遍も何遍も云い合いました。

 その時にこの料理屋の二階に田舎のお爺さんが二人御飯を喰べさしてもらいに来ましたが、あんまり御飯が出来ませんので腹を立てて、手をパチパチとたたいて女中さんを呼びました。

 いくらたたいても誰も来ないので、変に思って下へ降りて来ますと、大きな風呂敷包みを荷かついだ一人のお爺さんを捕まえて、みんなで、

「連れてゆけ連れてゆけ」

 と責めております。そこへ二人の爺さんの中うちの一人が近づいて、

「お前たちは一体どうしたのだ。御飯を食べさしてくれと云うのに、いつまでも持って来ないで困るじゃないか」

 と云いました。すると若い主人夫婦が出て来て、

「どうも相済みませぬ。それはこんなわけで御座います」

 と、くわしく鍛冶屋の爺さんのことを話しました。

 そうすると二人のお爺さんは顔を見合わせていましたが、一人のお爺さんは、

「それはもしかしたら無茶先生じゃないかしらん」

 と云いました。そうするとも一人のお爺さんも、

「私もそう思う。山男のようで魔法使いのようで裸体はだかで、二人の若い男と女とを連れているのならば無茶先生かも知れない。そうして二人の男と女は豚吉とヒョロ子かも知れない。ちょっと、そのお前が荷かついでいる風呂敷包みの中の着物を見せてくれないか」

 と申しました。

 鍛冶屋のお爺さんは、着物を見せる位構わないだろうと思いまして、そこの上り口に広げて見せますと、二人のお爺さんは不思議そうに眉をひそめました。

「これは不思議だ。豚吉とヒョロ子はこんな当り前の身体からだじゃない。それじゃ違うのかな」

「いや、そうでない」

 と、又一人のお爺さんが頭をふって申しました。

「ねえ、鍛冶屋のお爺さん。お前さんは最前、その山男が人間を火に入れて焼いて、たたき直すように云ったが、その若い男や女もその山男がたたき直したのじゃないかい」

「そのたたき直さない前の男は豚のようで、女の方はヒョロ長くはなかったかい」

 と両方から一時に尋ねました。

 鍛冶屋のお爺さんは真青になってふるえ上りました。

「ド、ド、何卒どうぞ……ソレ、そればかりは尋ねずにおいて下さい、ワ、私が又テンカン引きになりますから」

「何、テンカン引きになる」

「それはどうしたわけだ」

「ソ、ソレも云われません」

 二人の爺さんは困ってしまいました。けれども、やがて二人とも鍛冶屋の爺さんの前に手をついて申しました。

「どうぞお願いですから詳しく話して下さい。何を隠しましょう。私共二人は豚吉とヒョロ子の親で、二人が婚礼の晩に逃げた日から二人を探してあるいているものです。そうしてある町へ行って、豚吉とヒョロ子が無茶先生という魔法使いのような上手なお医者に連れられて逃げ出して、それから次の町へ行ってサンザン兵隊や何かを困らして逃げたまま、どこへ行ったかわからなくなったことをききまして、おおかた山へ逃げ込んだのだろうと思いまして、山の中を探しているうち、ある谷川の処で塩の付いた樽をいくつも見つけました。これはきっと無茶先生が、豚吉とヒョロ子を塩漬けにしてここまで持って来られて、生き返らせられたのであろうと思いましたが、それから先は山が深くてとてもわかりませんから、一先ず村へ帰ることにきめて、今帰る途中なのです。ちょうどこの町へ来ました時、私たち二人はあんまり疲れましたので、この町で一番いい料理屋に行って、一番おいしい御馳走を食べようと思ってここへ来たところに、あなたにお眼にかかったのです。ですから、どうぞ隠さずに話をして下さいまし。そうして、その二人の若い男女が私共の児こであるかどうか知らして下さいまし。そのためにあなたがテンカンをお引きになるようなら、私から無茶先生に願って、どんなよいお薬でも貰って上げます」

 と、手を合わせ、涙を流して頼みました。

 これをきくと、料理屋の主人の若夫婦も一所になって、鍛冶屋のお爺さんにお話をするようにすすめました。

「お前さんはその無茶先生とやらにテンカンを治していただいたのだろう。そうして、このことを話すと又テンカンを引くとおどかされたのだろう。けれども、無茶先生が魔法使いでなくお医者なら、そんなことはないではないか。それから、ほかの人には話してわるいかも知れないけれども、豚吉さんとヒョロ子さんのお父様になら話した方がいいのだ。話さない方がわるいのだ。早く本当のことを云って、二人のお父さんを喜ばせてお上げなさい」

 こう云われますと、鍛冶屋のお爺さんもやっと安心をしまして、さっきから自分の家で見たりきいたりしたことを詳しく話しました。

 鍛冶屋のお爺さんの話をきいた豚吉とヒョロ子のお父さんは飛び上って喜びました。

「それこそ豚吉とヒョロ子だ。私たちの大切な子だ。今からすぐに行って会わねばならぬ」

 と、すぐにも出かける支度をしました。それを見ると又、料理屋の若い主人も大変な勢いになって、

「サア。みんな、仕事をやめろ。お客様も何も皆追い出してしまえ。そうして玉葱と、葱と、大根と芋と、豚と鶏と、七面鳥と、牛とありたけ買い集めて、車に積んで出かけろ。鍋や釜や七輪も沢山積んで、皆で押してゆけ。向うへ行って御馳走をするんだ。豚吉さんとヒョロ子さんが生れかわったお祝いをするのだ。そうして、世界一のエライお医者様の無茶先生にお眼にかかるんだ。お酒もドッサリ持って行くんだぞ。そんな珍らしい人達に御馳走しておけば、おれたちの家が名高くなってドンナに繁昌はんじょうするかわからない」

「よろしゅう御座います」

 というので、大勢の雇人やといにんはわれ勝ちにいろんな物を買い集めたり、車に積んだり、大騒ぎを初めましたので、最前から沢山に来ていたお客は誰も構い手が無くなって、プンプン怒ってみんな帰ってしまいました。

 すっかり支度が済んで、何十台の車を引っぱって、二人のお父さんを先に立てて、鍛冶屋のお爺さんの家に着いた時はもう日暮れでした。

 鍛冶屋のお爺さんはみんなを裏の方に隠しておいて、たった一人で、

「只今帰りました」

 と云って這入ってゆきますと、無茶先生と豚吉とヒョロ子は三人共グーグー寝ていましたが、その中で無茶先生はお爺さんの声を聞くと起き上って、

「ヤア。御苦労御苦労。早かった早かった。そして着物は買って来たか」

 と尋ねました。

「ヘイ、ここに御座います」

 と、お爺さんは買った着物を出して見せました。

「ヤア、上等上等」

 と無茶先生は喜んで、その着物を寝ている二人に着せまして自分も着ましたが、三人ともほんとによく似合いました。中にも豚吉とヒョロ子は今までの奇妙な姿とはまるで違って、殿様の御夫婦のように立派に見えました。無茶先生はニコニコして云いました。

「これでよしこれでよし。それでは玉葱や何かは買って来たか」

「ヘイ、買って参りました」

「よし。その玉葱を一つと庖丁を持って来い」

「ヘエ、たった一つですか」

「そうだ」

「何になさるのですか」

「何でもいい。早く持って来い」

「ヘイ。畏かしこまりました」

 と、鍛冶屋の爺さんが玉葱を一つと庖丁を持って来ますと、無茶先生はその玉葱を庖丁でサクリと二つに割って、その二つの切り口を豚吉とヒョロ子の上に当てがいました。

 そうすると、今までグーグー寝ていた豚吉とヒョロ子は一時に、

「クシンクシン」

 とクシャミをして眼を開きましたが、玉葱のにおいが眼にしみましたので、

「アッ。これはたまらぬ」

「何だか眼に沁しみてよ」

 と、二人共眼をこすって起き上りました。

「アア。すっかり眼がさめた」

 と豚吉はあたりを見まわしましたが、ヒョロ子の姿を見るとビックリしまして、

「オヤッ。あなたはどなたです」

 と大きな声で云いました。ヒョロ子もこう云われてヒョイと前を見ますと、見たこともない立派な人が居ますから驚いて、

「まあ。あなたはどなたですか。お声は豚吉さまのようですが……」

 と云いかけて、無茶先生の顔を見ると又ビックリしまして、

「まあ、先生。私はこんな立派な姿になってどうしたんでしょう」

 と叫びました。

「アハハハハハハ。驚いたか」

 と、無茶先生は腹を抱えて笑いました。

「サア、鍛冶屋のおやじ。もう何もかも話していい時が来たぞ。二人にお前が見た通りのことを話してきかせろ。そうしたら、二人が豚吉とヒョロ子夫婦であることがわかるだろう」

「ヘイ。けれどもこのお話はもうよそで致しました」

 と鍛冶屋の爺さんが恐る恐る申しました。

「何、よそで話した」

「ヘイ。それにつきましてお二人にお引き合わせする人があります」

 と急いで裏へ行って、二人のお爺さんを引っぱって来ましたが、豚吉とヒョロ子はそれを見るとイキナリ飛び付きました。

「オオ、お父さん」

「そう云う声は豚吉か」

「アレ、お父様」

「そう云う声はヒョロ子か」

「お眼にかかりとう御座いました」

「おれも会いたかった。けれどもまあ何という立派な姿になったものだろう」

「お父様、お許し下さいませ。私たちが逃げたりなど致しましたためにどんなにか御心配をかけたことでしょう」

「イヤイヤ。そのことは心配するな。もう許してやる。それよりもよく無事で居てくれた。そうしてまあ何という美しい女になったことであろう。ああ、何だか夢のようだ」

 と、親子四人、手を取り合って嬉し泣きに泣きました。

 親子四人は揃って無茶先生の前に手をついてお礼を云いました。

 そうすると無茶先生は長い黒い髭を撫でながら、

「イヤ。おれも二人のおかげで思うよういたずらが出来て面白かった。もうこれから乱暴はしないから安心しろ。それから、二人の名前も今までの通りの豚吉とヒョロ子では可笑しいであろう。おれがよい名をつけてやる。これから豚吉は歌吉、ヒョロ子は広子というがいい。おれも名前を牟田むた先生とかえよう。サア、これからお祝いに御馳走をするのだ」

「ヘイ、かしこまりました」

 と、裏口から料理屋の若い夫婦が這入って来ました。

 不意に知らない人間が這入って来ましたので、牟田先生も歌吉も広子もビックリしますと、二人のお父さんは料理屋での出来事を話しましたので、みんな面白がって大笑いを致しました。

「それはよく来てくれた」

 と、牟田先生は料理屋の主人夫婦に御礼を云いました。

「それでは先ず玉葱の皮と葱の白いヒゲと、大根の首と芋の切れ端とでソップを作って、歌吉と広子に飲ませてくれ。そうすると、お腹の中に残っている鉄の錆さびがスッカリ抜けてしまうのだ。それから豚の尾と牛の舌と、鶏の鳥冠とさかと七面鳥の足で第一等の料理を作ってくれ」

「かしこまりました」

 と、それから料理屋の主人夫婦が大将になって、大勢がかりで火をドンドン起してお料理を作りまして、夜通しがかりで大祝いをしました。

 そうして夜が明けますと、牟田先生や歌吉と広子の父親は料理屋の主人夫婦や雇い人にお金を沢山に遣って帰しました。鍛冶屋のおやじにも遣りました。

 牟田先生と歌吉四人が無事に故郷に帰りますと、村中の人は皆集まって来て、牟田先生を一番いいお客として歌吉と広子の婚礼のやり直しをしましたが、皆二人の姿の立派になったのを驚くと一所に、牟田先生のエライのに感心をしました。

 歌吉と広子はそれから村に居て、両親に孝行をしました。そうして牟田先生を崇あがめました。

 牟田先生はこの村に居ていろんな病人を治してやり、自分も大層長生きをしました。