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最新の梶井基次郎の作品を集めた大全です。 梶井基次郎の代表作であるKの昇天 愛撫、桜の樹の下には、檸檬などを全て掲載しています。 梶井基次郎の世界をご堪能ください。 「梶井基次郎は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。 死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。」 (Wikipediaより抜粋)
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Veröffentlichungsjahr: 2018
表紙
目次
扉
本文
愛撫
『亞』の回想
青空同人印象記(大正十五年六月號)
「青空語」に寄せて(昭和二年一月號)
『青空』のことなど
ある崖上の感情
ある心の風景
淺見淵君に就いて
小さき良心
泥濘
不幸
冬の蠅
冬の日
編輯後記(昭和二年一月號)
編輯後記(大正十五年三月號)
編輯後記(大正十五年四月號)
編輯後記(大正十五年九月號)
筧の話
過古
川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン
奎吉
器楽的幻覚
講演會 其他(大正十五年二月號)
交尾
Kの昇天
檸檬
矛盾の樣な眞實
のんきな患者
温泉
路上
桜の樹の下には
『戰旗』『文藝戰線』七月號創作評
雪後
『新潮』十月新人號小説評
「親近」と「拒絶」
城のある町にて
詩集『戰爭』
詩二つ
蒼穹
太郎と街
橡の花
海 断片
闇への書
闇の絵巻
闇の書
愛撫
梶井基次郎
猫の耳というものはまことに可笑おかしなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛じゅうもうが生えていて、裏はピカピカしている。硬かたいような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪たまらなかった。これは残酷な空想だろうか?
否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆しさ力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、しきりに抓つねっていた光景を忘れることができない。
このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙はるかにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今もなお熱心に──厚紙でサンドウィッチのように挾んだうえから一思いに切ってみたら? ──こんなことを考えているのである! ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露ばくろしてしまった。
元来、猫は兎のように耳で吊つり下げられても、そう痛がらない。引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている。というのは、一度引っ張られて破れたような痕跡が、どの猫の耳にもあるのである。その破れた箇所には、また巧妙な補片つぎが当っていて、まったくそれは、創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、不可思議な、滑稽な耳たるを失わない。そしてその補片つぎが、耳を引っ張られるときの緩ゆるめになるにちがいないのである。そんなわけで、耳を引っ張られることに関しては、猫はいたって平気だ。それでは、圧迫に対してはどうかというと、これも指でつまむくらいでは、いくら強くしても痛がらない。さきほどの客のように抓つねって見たところで、ごく稀まれにしか悲鳴を発しないのである。こんなところから、猫の耳は不死身のような疑いを受け、ひいては「切符切り」の危険にも曝さらされるのであるが、ある日、私は猫と遊んでいる最中に、とうとうその耳を噛かんでしまったのである。これが私の発見だったのである。噛まれるや否や、その下らない奴は、直ちに悲鳴をあげた。私の古い空想はその場で壊こわれてしまった。猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。悲鳴は最も微かすかなところからはじまる。だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。Crescendo のうまく出る──なんだか木管楽器のような気がする。
私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。しかしこういうことにはきりがないと見える。この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。
それは、猫の爪をみんな切ってしまうのである。猫はどうなるだろう? おそらく彼は死んでしまうのではなかろうか?
いつものように、彼は木登りをしようとする。──できない。人の裾を目がけて跳びかかる。──異ちがう。爪を研とごうとする。──なんにもない。おそらく彼はこんなことを何度もやってみるにちがいない。そのたびにだんだん今の自分が昔の自分と異うことに気がついてゆく。彼はだんだん自信を失ってゆく。もはや自分がある「高さ」にいるということにさえブルブル慄えずにはいられない。「落下」から常に自分を守ってくれていた爪がもはやないからである。彼はよたよたと歩く別の動物になってしまう。遂にそれさえしなくなる。絶望! そして絶え間のない恐怖の夢を見ながら、物を食べる元気さえ失せて、遂には──死んでしまう。
爪のない猫! こんな、便たよりない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆ちほうに陥った天才にも似ている!
この空想はいつも私を悲しくする。その全き悲しみのために、この結末の妥当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではなくなってしまう。しかし、はたして、爪を抜かれた猫はどうなるのだろう。眼を抜かれても、髭ひげを抜かれても猫は生きているにちがいない。しかし、柔らかい蹠あしのうらの、鞘のなかに隠された、鉤かぎのように曲った、匕首あいくちのように鋭い爪! これがこの動物の活力であり、智慧ちえであり、精霊であり、一切であることを私は信じて疑わないのである。
ある日私は奇妙な夢を見た。
X──という女の人の私室である。この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、いつも私はそれに辟易へきえきするのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも微かな香料の匂いがしている。
夢のなかの彼女は、鏡の前で化粧していた。私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉おしろいを塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じように使っているんだということがわかった。しかしあまりそれが不思議なので、私はうしろから尋ねずにはいられなかった。
「それなんです? 顔をコスっているもの?」
「これ?」
夫人は微笑とともに振り向いた。そしてそれを私の方へ抛ほうって寄来した。取りあげて見ると、やはり猫の手なのである。
「いったい、これ、どうしたの!」
訊ききながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらしいことを、閃光せんこうのように了解した。
「わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ」
彼女の答えは平然としていた。そして、この頃外国でこんなのが流行はやるというので、ミュルで作って見たのだというのである。あなたが作ったのかと、内心私は彼女の残酷さに舌を巻きながら尋ねて見ると、それは大学の医科の小使が作ってくれたというのである。私は医科の小使というものが、解剖のあとの死体の首を土に埋めて置いて髑髏どくろを作り、学生と秘密の取引をするということを聞いていたので、非常に嫌な気になった。何もそんな奴に頼まなくたっていいじゃないか。そして女というものの、そんなことにかけての、無神経さや残酷さを、今更さらのように憎み出した。しかしそれが外国で流行はやっているということについては、自分もなにかそんなことを、婦人雑誌か新聞かで読んでいたような気がした。──
猫の手の化粧道具! 私は猫の前足を引っ張って来て、いつも独り笑いをしながら、その毛並を撫でてやる。彼が顔を洗う前足の横側には、毛脚の短い絨氈じゅうたんのような毛が密生していて、なるほど人間の化粧道具にもなりそうなのである。しかし私にはそれが何の役に立とう? 私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠あしのうらを、一つずつ私の眼蓋まぶたにあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。
仔こ猫よ! 後生だから、しばらく踏み外はずさないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社
1972(昭和47)年12月10日初版発行
1974(昭和49)年第4刷発行
初出:「詩・現実」
1930(昭和5)年6月
※表題は底本では、「愛撫あいぶ」となっています。
※編集部による傍注は省略しました。
入力:j.utiyama
校正:高橋美奈子
1999年1月11日公開
2016年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
『亞』の回想
梶井基次郎
亞は僕にとつては毎月の清楚な食卓だつた。その皿の數ほどの頁、そしてリフアインされたお喋り。その椅子につくことは僕の閑雅なたのしみであり矜りであつた。伊豆へ來てもう一年にもなるが、その間に北川から送つてくれた亞は積つて、いつも机邊にあつた。そのなかの詩や散文は自づと口に出て來る位僕には親しい。村の本屋へ新刊の雜誌が來てゐても、此頃は買はずに歸るのが常である。流行文學よりも色づいた柿の葉の一片を持つて歸る方が今の僕にはたのしい。しかし亞は、渡り鳥を待つほども、自分は待つのだ。殊に最近北川と三好が加はつてから。
安西君。僕には亞の詩壇的な回顧は出來ません。僕はただ、表紙に魚が四匹、甲板におかれてある龕燈の燈が消えてしまつた寂寥をあなたに告げるばかりです。
底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「亞」第三十五(終刊)号
1927(昭和2)年12月1日発兌
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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青空同人印象記(大正十五年六月號)
『青空』記事
梶井基次郎
忽那に就て
忽那はクツナと讀む。奇妙な名だ。こんな話がある。高等學校では彼も教場を下駄穿きで歩く方だつた。獨逸人の教師が、
「何故下駄で教室へ入るのだ」と或日彼に云つた。
「靴がないのです」
そこでヘルフリツチユ先生が
「道理でナチユールリツヒクツナ」
忽那の生國は伊豫だ。彼は犬神の話を持つてゐる。鬪鷄の話。海上の婚禮の話。おこぜの話。──そんなところから郷土的な「肥料盜人」のやうなものが生れた。
高等學校ではラグビーをやつてゐたことがある。應援團の中にもゐた。それでゐて畫をやる。かなり多方面だ。高等學校でも大學でも獨逸人には「能筆シエーンシユライバー」と云はれる。
情に脆く人なつこい性質とその半面の孤獨──時として彼はまいまいつぶらの樣に蓋を閉ぢてしまふ。
私は彼の印象から龍を畫くことが出來さうだ。然し睛を點じることは忽那よ、それは私一人ではやれないことだ、友情を力にして、二人で睛を點じようではないか。
飯島に就て
寄宿舍の受付には外國からの映畫雜誌が飯島宛に澤山來る。古顏の生徒が勝手に開封して「シヤンだな」など云つて頁をまくる。飯島はそれを一番嫌つた。活動から歸つて來ると、「義侠のらつふるず」といふ風にノートへ役割からシナリオから何から何まで書き入れる、──そんな熱心さだつた。佛文科へ入ることは一等最初から極めてゐた。同室だつた自分は隨分影響をうけた。それが京都で三年、私が遲れて東京へ來てからも、まだ續いてゐた。そして飯島の名は人々の知るところとなつてゐた。小方又星、伊吹武彦、淺野晃、そんな人々と新思潮に據り戲曲をどし〳〵發表し出した。その人が病氣になつた。確か一昨年の冬だつたと思ふ。それから此方まだ快くならない。
飯島ははつきりした人だ。たくらまない表現がそれを語つてゐるやうに、正直な淡白な人だ。そのなかに自からの含蓄を持つてゐる。
詩を作るやうになつたのはやはり病氣になる前後だつた。高輪の家で君の枕頭ではじめて君の小説は讀んだ。君の制作力は健康な私達を壓倒する位だ。毎日二三頁を書いたとか。大部の未完原稿が此の間屆き、私は驚いた。君は病から病へ苦しみ續けて來た。そして私達の知らない樣な心境に到達したと見える。その間の心の歩みは尊く涙ぐましい。
私は君の學殖に敬意を拂ふ。そして君の素質に大きな期待を持つ。早く快くなつて呉れ。
底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「青空」
1926(大正15)年6月号
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
「青空語」に寄せて(昭和二年一月號)
『青空』記事
梶井基次郎
文藝時代十二月號の小説は、林房雄だけが光つてゐる。『牢獄の五月祭』の持つ魅力が他の小説の光りを消すのだ。然し彼の作品の持つ明るさを以て、全世界を獲得すべきプロレタリヤの信念の明るさ、若しくは作者等の戰線を支配してゐる希望の明るさの表現されてゐるものと見ることには贊成出來ない。それは寧ろ彼自身の文學の持つ明るさである。
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火つきのいゝきり炭のやうな、前者の作風に反して、改造十二月號葉山嘉樹の『プロレタリヤの乳』は凡そ濕つた薪にも似てゐる。話の本筋が燃えたと思ふと、直ぐそれは作者の亢奮に燻る。それはかの作を甚だ讀みづらくさせてゐる(が作者が讀者を燻さうとしたらしいことは、その本筋の振はないことでも感じられる)。然しそのなかには、「今日も日が暮れやがる」といふやうな得難い融合もある。先蹤を持たない表現の難いことを思ふ。それにしても、プロレタリヤの持つ重々しい力の感じはこの作に於て表現されてゐる。
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文藝城、新思潮、眞晝、葡萄園、山繭、驢馬等、目星しい同人雜誌の十二月號の出ないのはどうしたことか。
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凡そ同人雜誌は、新しい藝術の苗床であり花床でなければならない。然も今日多數の同人雜誌、同人雜誌作家の大部分は今尚今後幾度のメタモルフオーゼを行はなければ、その發芽にも至らぬやうに思へる。
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漠然とした新人なるものはあり得ない。
