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Veröffentlichungsjahr: 2024
© Saint John Publications (an imprint of The Community of St. John, Inc.), 2022
ドイツ語初版 1948年 (Magd des Herrn. Ein Marienbuch, © Johannes Verlag Einsiedeln)彦田理矢子 訳聖書翻訳本文引用出典 ©︎ 共同訳聖書実行委員会 (Executive Committee of The Common Bible Translation)/©︎ 日本聖書協会 (Japan Bible Society), Tokyo 1987-1988表紙絵: Beato Angelico, Annunciazione: Firenze, Museo di San Marco. Ministero della Cultura – Direzione regionale Musei della Toscana – Firenze の許可を得て使用しています。複製禁止。Cover: Beato Angelico, Annunciazione. With permission of Ministero della Cultura – Direzione regionale Musei della Toscana – Firenze. Reproduction forbidden.ISBN 978-1-63674-016-4https://doi.org/10.56154/v7*ドイツ語原文では、該当聖書箇所は全く明記していない。日本語訳では、各章の頭に該当聖書箇所を示し、訳語として新共同訳を下敷きとした。
受諾の言葉の光 (ルカ 1:26−38)
聖母の魂 (ルカ 1:26−38)
マリアと天使 (ルカ 1:26−38)
母性
エリサベト訪問 (ルカ 1:39−45)
マリアの賛歌 (ルカ 1:46−56)
マリアとヨセフ (マタイ 1:18−24、2:13−15、19−23)
期待と誕生 (ルカ 2:1−21)
主の奉献 (ルカ 2:22−35)
ナザレ (ルカ 2:39−40)
十二歳のイエス (ルカ 2:41−52)
旅立ち (マタイ 3:1−17、マルコ 1:1−11、ルカ 3:1−23)
カナの婚礼 (ヨハネ 2:1−11)
拒絶される (マタイ 12:46-50、マルコ 3:31-35、ルカ 8:19-21)
ゴルゴタ (マタイ 27:32−56、マルコ 15:21−41、ルカ 23:26−49、ヨハネ 19:16−30)
マリアとヨハネ (ヨハネ 19:25−37)
復活の日
聖霊降臨 (使徒言行録 2:1−42)
死と被昇天
教会におけるマリア
聖母と祈り
聖母の召命
聖母と人々
訳者あとがき
Title Page
Cover
Table of Contents
穀物の束が、真ん中で束ねられて、左右の端へ広がるように、マリアの生涯は受諾の言葉(Jawort)で束ねられている。この受諾の言葉からその意味と形とを受け、マリアの生涯は、過去と未来の両方向へ広がっていく。すべてを統括するこのただ一つの行為が、同時にマリアの存在のすべての瞬間において彼女に同伴し、彼女の人生の転換点すべてを照らし、あらゆる状況においてその特別な意味を与え、あらゆる状況において彼女自身に理解という恵みを、常に新たに与える。主の母のあらゆる息遣い、あらゆる動き、あらゆる祈りに完全なる意味を与えているのは、彼女の受諾の言葉なのだ。なぜなら、これこそ受諾というものの性質だからである。つまり、それは受諾を与える者を縛るが、同時にそれを言い表すことにおいては、受諾者に完全な自由を許す。受諾者は、自分の受諾を自分の人格で満たしてその重みと独特の彩りを添える。しかし、その者自身もまた、自分の受諾の言葉によって整えられ、解放され、実現される。すべての自由は、献身を通して、また恣意の断念を通して、発展するものである。そして、このような献身における自由の中からこそ、あらゆる種類の実り豊かさ(Fruchtbarkeit)が生じる。
マリアの幼少時代は、既に彼女の受諾の言葉の光に照らされていた。幼少時代というのは、後の決定的な誓約のための、事前的集成であるのが常だが、マリアの場合、この誓約は、すべてを決定する受諾の言葉以外の何ものでもない。それゆえ、マリアの幼少時代を理解するには、それを彼女の受諾という中心から振り返る必要がある。マリアの幼少時代の意義は、彼女が遥か昔より選ばれた、目的のための準備であった。その選びはあまりに完全であったため、母の胎内に宿った瞬間から、マリアは原罪を免れ、それゆえ、後の受諾の言葉の力と完全性を弱め損ね得るすべてのことをも、免れたのである。マリアの合意の力と自由は大いなるものであり、彼女には「否」と言う傾向が少しもない。そして彼女がそうあるのは、彼女の受諾の言葉が、その存在の最初の瞬間から準備され、計画されていたからだ。だから、マリアの受諾の言葉は、彼女の、存在においての原因であり、同時にその結果でもある。その受諾の言葉が、マリアの生涯においてただ唯一の行為だということではなく、むしろ、マリアはこの行為のためにこそ存在するよう神に呼ばれ、彼女に備わるあらゆる美点は、この行為のためにこそ授けられたものだということだ。宣べ伝えられるべき言(ことば)に向かって成長するマリアは、既に完全に、この言の力によって生きていた。
何よりもまず、マリアの受諾の言葉は恵みである。それは単に、神の申し出に対してマリアが人として応じたというだけではない。それはあまりにも大いなる恵みなので、また同時に、マリアの生涯全体に対する神の応答でもある。マリアの受諾の言葉は、最初から彼女の人生の土台となっている神の恵みに、恵み自体が彼女の霊において応答した言葉である。そして、マリアは神からの呼びかけを聞き逃さないので、恵みから期待される通りに応答する。マリアにとって、「聞き逃さない」ということは、呼びかけに対して、完全に自分自身を捧げ委ねるということである。つまり、全身全霊で献身すること、そして、強さにおいても弱さにおいても、同様に献身するということだ。ここで、強さとは、神に完全に用いられる覚悟がある者の強さであり、また、弱さとは、既にその命を神に委ねた者の弱さである。それゆえ、マリアは、要求してくる神の力を認められる弱さを持ちつつ、なお神のため、自分の命を惜しまず捧げられる強さをもって、献身する。
恵みの言葉として、マリアの受諾の言葉は、特別な仕方で聖霊の働きであり、その結果、マリアは全身全霊を神に捧げる。マリアを覆うことになる聖霊は、既に彼女の中におり、その聖霊が、マリアをして共に受諾の言葉を言わせる。聖霊がマリアを覆う時、彼女の中にあふれる聖霊は、既に彼女に内住している聖霊と会い、マリアの「然り」という言葉は、聖霊の「然り」という言葉の中に取り込まれたかのようになる。しかし、聖霊に包まれることでこそ、マリアの「然り」という言葉は、彼女自身の霊から出た、真の自由で自立した言葉となる。初めは、それは彼女自身の霊の言葉となるだけで、それが彼女の肉体からの言葉ともなるよう、どれほど神が固く意図しているかなど、彼女はまだ察知していない。マリアの霊による「然り」という言葉を、彼女の肉体による受諾の言葉へと拡大するのは、聖霊である。聖霊にそれが可能なのは、マリアの受諾の言葉に限りがなく、そこから神が欲するままに何でも作り出すことができる、従順な素材のようなものだからである。
「然り」と言うことで、マリアは自分自身を断念し、自分自身を無とし、神のみが自分の中で働くようにする。マリアは、自分の本質を構成し自分に託されている全可能性を神の業(わざ)に対して開き、その中の何も見逃さず、また見逃すことも望まない。マリアは、神だけを働かせようと決意するが、同時にまさにこの決意を通して、協力する。なぜなら、恵みの業との協力は、常に断念の結果だからである。愛におけるあらゆる断念は実り豊かだ。なぜなら、断念することで、神に合意することができるからである。神が人の合意を待つのは、ただそれによって、神と一緒にできることを人に示すためにこそである。マリアほど徹底して自分のものをすべて断念し、神だけに支配させた者はいない。それゆえ神は、マリアに対しては、他の誰にも授けたこともないほど大きな協力の力を授けたのである。マリアが自分の全可能性を断念したがゆえに、それらの可能性は、望み得る限りのすべてを超えた形で実現する。体において協力したので、マリアは主の母となり、霊において協力したので、主のはしためとなり、主の花嫁となる。そして、はしためは母となり、母は花嫁となる。あらゆる視点が、閉じられながら、常に無限に新しい視点を開いていく。
しかし、マリアの実り豊かさがそれほど無制限であるのは、ただ、彼女の受諾の言葉における断念もまた、限界を知らないからこそである。マリアはいかなる条件も設けず、いかなる留保もせず、自分の応答において自身を完全に差し出し、神に対して何の身構えもしない。なぜなら、神の無限の計画が彼女の前に広がっているからである。マリアは、神が望むことを望むだけでなく、自分の受諾の言葉を差し出して、神がそれを自由に用い、形を整え、変容してくれるようにする。「然り」と言うマリアには、考慮しなければならない願いや、好みや、要望は何もない。マリアは神といかなる契約も結ばない。マリアが望むのはただ、自分が恵みにおいて受け入れられることだけである――彼女は恵みにおいて神のものとされたのだから。神だけが彼女の受諾の言葉を管理すべきなのだ。もし神が実際彼女に向かって身をかがめたとするなら、マリアの応答はただ盲目的で従順な献身しかあり得ない。マリアはいかなる打算も、いかなる保証も、いかなる形での留保も知らない。彼女が知っているのはただ、自分の役割がはしための役割であることだけである――完全に謙遜な立場に立つがゆえに、与えられるものを常に喜び、自分からは決して何かを引き起こそうとはせず、神の御心と望みに対して備えも指示もしない、はしため。その受諾の言葉が発せられて初めて、マリア自身もその受諾の言葉に形を与えるようになる。そして、マリアはこの受諾の言葉において堪え忍ぶが、それは牢獄に閉じ込められた囚人のようにではなく、むしろ、彼女の本質全体を刻み、自分を解放してくれる型を得た者のようにである。受諾の言葉を発した瞬間から、マリアはそれに形を与え続け、すべてにおいて神に自分を完全に委ね、そうして、その受諾の言葉に自分の存在全体を整えさせる。
だから、このように受諾の言葉に形を与えるということは、事実、マリアが自分自身の人生のいかなる自己形成をも、きっぱりと断念していることを意味する――ちょうど彼女が、自分の息子の人生の形成を断念するのと同じように。マリアが「然り」と言った途端、彼女の人生は、受諾の形として意識され表明されて、その他のすべてのことはそれに依存する形で動くことになる。しかしそれは、いわば、マリアの受諾の言葉が誓願の形を持つ、ということである。なぜなら、誓願とは、人間的自由と裁量を神に決定的に委ねることであり、謙虚に信頼して自由と命を託すというこの行為を通して、神は私たちのものを所有し、それによって神に託されたものを――少しずつであろうと、一度にであろうと――意のままに用い、変容させるからだ。信仰、愛、希望から成るあらゆるキリスト者的生活は、このような形の誓願を目的とし、それを通して自分のものがすべて、完全に決定的に神の裁量に託されることになる。そして、一度発された受諾の言葉を、神は私たちの許可を得てから活用し、それを用いて自らのものとする。神が人の受諾の言葉を本当に活用するからこそ、誓願はキリスト者的誓願となり、それは、十字架につけられた者の力によって生きる。聖母の受諾の言葉は、既に初めからそのような誓願であった。
誓願というのは、その性質上、自由においてするものである。しかし、聖母の自由は――他のすべての人の自由も同じだが――分割できるものではない。そして、自由が分割できないということは、特にマリアの受諾の言葉において、有無を言わさず明らかになる。マリアはただ一つの行為によって自分自身を神と結びつけるが、それは完全なる自由からなされ、完全なる自由の中に入る行為である。この行為によって、マリアは――天使との会話において――初めて目に見えてキリスト者的生活に入り、しかも直ちにキリスト者的生活の最も成就した形――誓願――に入る。マリアは、来たるべきすべてのことに対して「然り」と言うことによって――そして、それゆえキリスト教信仰と、それに伴うすべての新しいこと、予期せぬこと、予想を超えたことに対しても「然り」と言うことによって――マリアはキリスト者的受諾一般の性格に形を与え、同時にその最も完成された形――すなわち、キリスト者的誓願――の性格にも形を与える。マリアの受諾の言葉は、従順の誓願であり、また同じく貞潔と清貧の誓願でもある。その受諾の言葉によるただ一度の断念には、三重の断念が含まれている。なぜなら、一つの受諾の言葉において、聖母は自分の持つすべてのものを神のため、人類のために捨てるからである。マリアの受諾の言葉自体、従順と一致する。つまり、マリアが受諾を自分の生き方として選択する時、彼女は従順を自分の人生として選ぶのである。そうすることによって、マリアは自分の体さえも断念する。他のすべてのものと同じく、マリアは自分の体を神に捧げたので、もはや自分では自分の体を恣意的に扱うことはできない。ゆえに、自分の体をもはや他の人に捧げることもできない。もしマリアが自分の所有するすべてを同時に奉仕に込めているのでなければ、全身で奉仕することができなくなってしまうだろう。マリア自身のものすべてが、この務めに求められる。マリアは、この務めのために自分自身を用いるのだから、同時に必然的に自分の持ち物すべてをも、そのために用いることになる。受諾の言葉の徹底性が、それを要求する。人が、内面的に厳しく悔悛していながら外面的には贅沢な生活を送るということができないように、人が内面的に、従順に完全に断念していながら、外面的に断念していないということもあり得ない。神の側の申し出が一致しているように、人の側の応答も一致している。そして、人の側の応答の一致が受諾の言葉であり、それは三つの誓願に分かれはするが、その一致は失われない。
受諾の言葉は、その本質において恵みである。その恵みは、神から来るすべての恵みのように、人とその使命において作用し、また形にされた応答として、御子の包括的な使命へとおのずから送り返され得る――御子は、マリアという人の受諾の言葉を通して、人としてこの世に来る可能性を得るのだから。受諾の言葉の、恵みという本質は、人が発するキリスト者的受諾の言葉すべてにも見られるものであり、だからこそ、聖母の受諾の言葉は、その後のすべてのキリスト者的受諾の言葉の条件となり、原型――まさに、源泉――となったのである。なぜなら、ここで初めて、神と被造物による、受諾の言葉の解消不能な結びつき――すなわち神秘的婚姻――が顕(あらわ)され、この合意の結果こそが世の救い主となるからである。そして、聖母がその「然り」を御子の恵みなくして発するのではないとすれば、御子もまた母の「然り」なくして人とはならない。受諾の言葉と救いは非常に密接に絡み合い、分離不可能なほど一つであり、被造物は救われずして受諾の言葉を言うことはできないが、また何らかの形で受諾の言葉を言うことなしには救われない。この神秘の源泉がマリアの受諾の言葉にある。それは、受肉した人として主が全人類に対して「然り」と言うためには、マリアのただ一つの受諾の言葉で十分だったからだ。ゆえに、マリアの受諾の言葉も、主の受諾の言葉のように、全人類の代理として発されたのである。
マリアの受諾の言葉は、三重になっている。マリアは天使に対して、神に対して、自分自身に対して、「然り」と言う。天使に対しては、人が何かを頼まれた瞬間にする約束のように、その出現に対しての単なる応答として「然り」を言う。この「然り」は、人の本物の約束がすべてそうであるように、人が当面見通せる範囲を超えるものだ。受諾を与えた状況は蕾(つぼみ)のようなもので、それが展開していく様子を予見することはできない。しかしそれでも、拘束力を持つ深刻な約束というのは、その人の霊的姿勢全体を見せるようなもので、おそらく一般的にその生きた具体例である。聖母の姿勢は、今や彼女の約束において明らかになるが、それは彼女が天使の前に立ち、天使に応答しなければならないという事実を通してである。天使の言葉とマリアの応答は、互いに補完し合うもので、共に神において一つの現実を体現する。天使の言葉とマリアの応答が出会った瞬間、それは成就の一致を成す。マリアが天使に会えるのは彼女の中にある恵みのおかげであり、神の側が身をかがめて、待機しているこの恵みに、天使を派遣する。受諾の言葉がマリアの姿勢を表しているように、派遣された天使もマリアの姿勢を表している。天使とマリアの出会いは、恵みの豊かさの表れ、言うなれば合流点である――つまり、マリアの中の神の恵みと、天使を通して神からマリアに送られた恵みとは、出会うべくして出会うのだ。マリアは長い間天使を待ちつつ生きてきたが、今こそマリアが天使に出会い、また天使がマリアに向けて派遣されるべきその瞬間である。もしマリアが天使に出会う準備ができていなかったとしたら、そしてもし天使が派遣されなかったとしたら、マリアは長い間天使に出会うことなく、それでも待ち続けたであろうし、天使の方ではそのような挨拶にふさわしい誰かをいつまでも探したことであろう。しかし実際こうして、天使とマリアは神の恵みという同じ豊かさの中で互いに出会う。彼らの出会いにおけるすべては、この瞬間に向けて完全に準備され、かつ、熟したのだ。
天使に対して応答することで、マリアは神に対して応答している。天使は神の使者として現れたのであり、自分が天使に「然り」と言えば、神に対してそう言うことになる、と彼女は理解している。マリアが天使を見て、その声を聞くことができるということ自体が既に、彼女が自分の感覚を従順に超自然的命――すなわち、神の恵みの命――に従わせていることに依るものである。マリアも、すべての人のように自然の感覚を持ってはいるが、他の人たちのように私腹を肥やしたり、何かを自分のために勝ち取ったり、自分のものとしたりするために、感覚を使うことはない。自分の感覚を自身のためだけに閉ざすのではなく、マリアは感覚を神のために開放し、神の御心をよりよく捉えることに役立て、神の偉大な栄誉と栄光のためにのみ用いる。あらゆる感覚的行為の目的と目標を、マリアは神に委ねている。だからこそ、マリアの感覚は開かれた空間であり、その中で神はいつでも自らを顕(あらわ)すことができる。マリアの感覚は、天使に対して準備されているのだ。マリアは、自分の感覚を単に父なる神から借りたものとみなしているので、彼女は常に、これらの感覚が捉えるものの中に、父なる神からの贈り物を直ちに認識することができる。マリアは天使の姿を見てその声を聞くが、同時に承知もしている――彼女が天使を見ることができ、受け入れられるのは、神が彼女の中に据えてくれたもののおかげであり、それゆえ彼女は天使の中に神自身を見ることができるのだと。マリアは、自分が天使を通して神を受け入れていると承知しているように、天使が彼女から受け取るものを受け入れてくれるのは、それを神に届けるために他ならない、ということも理解している。天使は、マリアに神からの伝言を伝え、またマリアからの伝言を神に伝える。そして、このようにマリアから天使を通して神に届くもの――彼女の受諾の言葉――は、父なる神へと同じように、直接御子にも届く――つまり、父なる神に対しては、成し遂げられたこと、旧い契約の結論、総括として、また御子に対しては、新しい契約の始まり、開始、兆しとして。そして、父なる神と御子は、それぞれの位格の違いに従って、マリアの受諾の言葉を聞く。つまり、マリアの合意によって、父なる神は御子を派遣することができ、また御子は自ら派遣され世に来ることができる。聖母は受諾の言葉を発するものの、それが神によってどのように聞き入れられるのかは、彼女の知るところではない。しかし、この受諾の言葉は、神が聞きたい仕方でしか――つまり、このような父子による二重の仕方でしか――聞き入れられない。というのも、このようにマリアに応答させるのは聖霊だからである。既に今、マリアの中で働き、彼女を導いているのは聖霊である――聖霊が実際に彼女を覆うのは少し後になってからではあるが。人間的関係に移して考えるなら、マリアの受諾の言葉は、後に来る聖霊との婚姻に先立つ婚約のようなものである。なぜなら、マリアが自分自身の霊においてではなく神の霊において「然り」と言うように、キリスト者の結婚においても、伴侶はそれぞれ自分自身の霊ではなく相手の霊において受諾の言葉を言うからである。伴侶は、自身の霊を貞節の最終的保証とみなすのではなく(それは傲慢であり利己主義であろう)、愛において、自分が愛する人の霊をこそ、そのような保証とみなすのだ。自分自身の霊において「然り」と言うことは、自分自身の欠点と罪を肯定することになるが、相手の霊において「然り」と言うことは、逆に愛を肯定することになる。
最後に、マリアは自分自身に対しても「然り」と言う。なぜなら、マリアは自分自身の受諾の言葉を肯定するからである。マリアは、自分自身が贈られる物になりたいのである。人が誰かに贈り物をあげたいと思い、そして実際にあげる時、その人はその決意を自ら下す。そして、その相手がその贈り物を所有しているのを見る度に、その人は自らに対して取った姿勢において強められる。自分自身に対するこのような「然り」は、マリアにとって、天使と神に対する「然り」に比べれば、いわば二次的で付随的なものに過ぎない。それはただ、マリアが自分の人生におけるあらゆる状況と決断において――神が完全にそれらを取り計うのだが――何度も、彼女の存在の本質的基盤として、この受諾に戻るだろうということを意味するだけである。マリアは、「然り」と言った者でありたいし、そうあり続けたいのだ。マリアがこの受諾の言葉を自分自身に完全に貫徹させるのは、まさにそれが最初のキリスト者の受諾の言葉だからである。自分自身を捧げるマリアの受諾の言葉は、絶望という自己破壊の反対であり、その内には、信仰、愛、希望が満ちあふれている。
神がいたずらに何かを要求することは決してない。神は、要求したものを用いる。しかし、神がそれを用いる時、それを与えた者を消耗させたり、迷わせたり、解体させたりするようなことはない。神が、自らに与えようとする者から、搾り取るように何かを取り去るようなことは決してない。神は、自分を無にした者を、神の命で、神の使命で、満たしてくれる。神が唯一要求することは、「常に用いてください」という態度で、常に新たに自己を神の裁量に託すことだけである。神は自発的な覚悟を望む。従順・貞潔・清貧は人間的霊にとっての自殺では全くなく、むしろ人間的霊が新たな恵みにおいて生きることである。そして、このような命の中で、受諾の言葉はマリアにとって常に自分の行動の指針となる。マリアがその線を超え出ることは許されないし、またできない。受諾の霊が、完全に、神に対するマリアの近さも距離も、決定するからである。
この三重の受諾の言葉は、三重に行われる「成りますように」(ラテン語:Fiat、フィアット)の誕生となる――すなわち、聖母自身のフィアット、御子のフィアット、教会のフィアットである。フィアットは、天使を介してなされた神とマリアとの会話の、表れであり結果である。神が、自らの行為を告げ、聖母は、ためらわず、また自分の将来の外面的生活に対して何の条件も設定せずに、応答する。なぜなら、神自身が、初めから、マリアの関心をそのために整えていたからである。それゆえ、この会話には神からの要請が含まれてはいるものの、対等な者同士の場合のように、同じ地平での応答が期待されるような要請ではない。むしろ、神は、御子の来たるべき降誕を、事実として告げている。しかしそれでも、この告知は、既に前提とされ、受け入れられている受諾の言葉の光の下で、されているのだ。そして、聖母は、自由な被造物として、ためらうことなく、留保なく、合意を与える。マリアは、何を答えるべきか熟慮したり思い計ったりして、神の告知に対峙するのではないし、自分の受諾の言葉を神と対等な者の第二の言葉であるかのように、神の言葉に対峙させることもない。マリアは、自分の言葉を、神の言葉の足元に、絨毯のように広げる。原罪で汚れた人間が、自分の魂も体も神に委ねる時は、何らかの打算なくしてなされることは決してない。人は、多くの生来の賜物――人が生来自分のものとして持っているかのようにみえる賜物――を断念する際に、色々と思い計るので、人の献身には常に自分が断念したものが反映される。人は、自分が手放したものへの未練から、完全には自由になれないものである。しかし、聖母はこのような妥協を知らない。マリアは、自分が与えるものやそれに対して自分が受け取るものを、天秤にかけたりはしない。マリアは、自分の魂と体に関して、奉仕以外の用途を知らない。しかし神は、この奉仕を、自由に行われた、自由な行為として、受け取ることを望んでいる。マリアの受諾の言葉は、余分なものではないのだ。マリアは宣言しなければならない――「お言葉どおり、この身に成りますように」と。そして、マリアの言葉自身、それ自体が神の言葉に基づいているように、キリスト教信仰の礎となるのである。マリアがその受諾の言葉を発することができるのは、彼女が無原罪の御宿りだからであり、おかげで、自分自身をそのように神に委ねる準備ができているからである。こうして、マリアは、神の言葉と人間の応答の間に新しい関係を作り出す。
「お言葉どおり、この身に成りますように」――聖母によるこの言葉は、天使を通して神に直接届く。これは、つまり、御心に従って、言(ことば)――究極的には、御子――に従って、この身に成りますように、という意味である。この「お言葉どおり」に、聖母は自分が持つすべてを惜しみなく注ぎ込む。マリアが望むのは、自分のすべてにおいて、「お言葉」(ラテン語:Verbum Tuum)だけが、神にとって喜ばしいあらゆる仕方で働くことである。マリアは、この約束をさらに明確にするような表象(イメージ)を何も加えない。マリアの誓願の完全に無尽の意義は、それが神の御心を含んでいるということにある。マリアはそれを望み行うことで、自分自身の内に神の言(ことば)のための道を敷いている。それは、全く理解を超えた道である――つまり、言(ことば)がマリアの息子となるので、息子の道であるが、また言(ことば)がマリアの神となりマリアを通して父なる神のもとに戻るので、神の子の道でもある。マリアの母性は遥か彼方へと拡がっている。御子の御心により、マリアは母となり、同時にはしためとなる――御子を保護するが、御子に保護され、御子を形にするが、御子によって形にされる。
こうして、マリアは、父なる神に、自分の受諾の言葉を渡す――「お言葉どおり、この身に成りますように」。しかし、父なる神は、この受諾の言葉を御子に渡す。それはあたかも、御子がそれを父なる神から受け取って、独自の「御心が行われますように」(ラテン語:Fiat Voluntas Tua)へと形を整えるかのようである。聖母による「成りますように」(フィアット)は、御子へと引き継がれ、今度は御子に留まるが、それは聖母と御子の両方において、聖霊によって実行される。後にフィアットは、御子の教えにおいて「主の祈り」に現れる――他の嘆願に混じって祈られるが、その中心として。それが中心であるのは、父なる神と聖母との間に契約を結ばせ、御子の降誕を可能にしたからである。御子は、聖母をまねる形でフィアットを発する――聖母は、それを神から受け取ったように、それを御子に渡し、委ねたのだ。聖母の嘆願は、御子の嘆願の序奏であるが、御子の嘆願は、聖母の嘆願を自らの内に吸収する。
この後、フィアットは、すべての人に継承されることになる。それは、父なる神への祈りという形で教会の財産となる。御子が、母から受け継いだ父なる神への自らの個人的祈りを人類に与えることで、フィアットは広く、普遍的で、エウカリスティア的性質を得ることになる。それは、主の共同体において発される、あらゆる個人的なフィアットにおいて、生きることになるのである。
「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉を発する時、聖母は三位一体から奥義を受け、そして、それを御子に渡す。御子は、自らの持つすべてを、聖霊において父なる神に贈り返すことによって、その言葉を三位一体へと返す。それから、父なる神がその言葉を再び受け取った後、それは人類に分け与えられるのである――エウカリスティア(感謝の祭儀)と聖霊を通して、惜しみなく拡大されて。
聖母の魂は、全く単純なものである。あらゆる問いとあらゆる答えは、マリアの中で一つとなっている。彼女の本質を分解することは不可能だ。マリアの魂がそれほど単純であるのは、それ自体においてではない。むしろ、彼女が神の近くにあり、常に献身し続けているため、複雑で理解不能なことはすべて、神自身が引き継いでくれるからである。神が非常にマリアの近くにいるので、神がすべての問いに対して自ら簡単な答えをもたらし、すべて一見複雑なことも円滑にして解きほぐし、また人生のあらゆる状況を非常に明確に大局的にみせてくれるので、人生の神秘は残るものの、苦悶させるような謎は決して残らない。マリアは、それほど神の中にあって生きているので、常に神が何を彼女に求めているかを知っており、彼女にとって、純粋に神の御心を成すことほど単純なことはない――たとえ、神が彼女に、厳しく辛いことを要求してくる時でも。そして、マリアの外面的な行動がこのように決意されているだけでなく、その内面的決意もまた然りであり、それは彼女の永続的な覚悟から常に流れ出ているのである。マリアの人生においては多くの難問があるが、彼女はそれらに構ったりはしない。マリアは、自分の理解力を超えた、理解不能なことには頭を悩ませたりはしない。マリアにとって、問題は本質的なことにはなり得ない――問題というのは、それ自体では限界であるから。しかし、マリアはただ覚悟すべきことを覚悟し、自分を開いておくべきことに対して開かれているだけである。このように、マリアは、いくつもの複雑性を超えているが、それは、神の御心を成就するという、無限の単純性を生きるためである。
神が非常にマリアの近くにいるために、神の永遠の生きた真理が、マリアの内に生きている。それは、理論的真理ではなく、三位一体の神の真理である。この真理が、恵みにおいて、マリア自身の真理となる。マリアは、行うすべてのことにおいて真実である。マリアの内には何の嘘も、何の隠し事も、何の見せかけもなく、要求に対して立ち遅れることもなければ、現実と理想の間の緊張もなく、何の後悔もなければ、神が彼女について持っている理想から外れることも全くない。マリアに関するすべてのことは、純粋に真実である。マリアは揺るがず(それは自分自身においてそうなのではなく、恵みによる継続的な賜物としてそうなのだが)、彼女に託された、めまいがしそうなほど高邁な使命を、ためらわず、迷わず、実行することができる。その単純さは、神の単純性に与っているということ以外には説明がつかない。マリアの使命は、それほど真実でありそれほど偉大なものなので、神は彼女に、常に自らの真理を与える――それによって彼女が自分の使命の真理を成就できるように。
マリアの使命――彼女の本質全体が、それに従って秩序づけられている――のこの単純な真理によって、なぜ、彼女の特性すべてが海のように一体となって流れていくのかも、理解できる。マリアの特性は、互いに隣り合って別々に存在しているのではなく、むしろ全体として単純に一つなのである。人がマリアの特性の中から最も本質的なものを選ぼうとしても、どの特性も決して特別に強調することはできないだろう。それはなぜなら、それぞれの特性が、他のすべての特性とつながっているからであり、また、それぞれの特性を彼女の本質の中心とみなすことができるからである。他の特性に触れもせずに、一つの特性だけを説明するということはできないのだ。光に属するマリアの本質の一致は、おそらく、闇に属するその反対像――つまり、罪の一致――によって最もよく例示することができるだろう。つまり、罪びとが、告解(ゆるしの秘跡)の際に、自分が告白したい罪だけを取り出そうとすると、すべての罪は他のすべての罪と根底でつながっていることに気づき、その魂において、形のある理解可能な罪の咎(とが)の後ろには、自分で説明することも吐き出すこともできない、理解不能で形のない罪深さが存在すると気づくように、聖母の魂を個別の特性を通して理解しようとする者も、それらの特性はすべて一つの無限に単純な特性の表れに過ぎないとすぐに気づく――なぜならマリアの魂の基盤は、無限に豊かで、満たされているから。
神の近さ――マリアが生きている単純な真理――とは、彼女におけるキリストの命の充溢(じゅういつ)である。彼女が受諾の言葉をこの充溢に対して発したのは、それが彼女に期待されていたからである。マリアはそうするにあたり、この充溢について分析もせず、知りもせず、かといって見過ごしもしなかった。マリアはその充溢を、彼女らしく、主のはしためとして、受け入れたのだ――つまり、完全な謙遜をもって、しかし自分の謙遜には目もくれず、また自ら立ち止まったり、そのような偉大なことに対して「然り」と言う価値や能力が自分にあるかどうか吟味したりすることもせず、むしろ、それを成就する力は彼女の選びと共に与えられるのだ、と明確に知りながら。マリアが考えずとも知っているのは、天使の要請の後ろに感じられる神の充溢全体が、神によって彼女に贈られるということ――というのは、彼女の息子を通して地上のすべての期待は成就されることになるのだから――そして、神のこの恵みは、受胎、出産、あるいはまた他の神秘という何らかの部分だけではなく、彼女の務め全体に、影響を及ぼすということである。マリアが「然り」という時、彼女は神の全体性に自分自身を完全に投じるのであり、個別的なことに関しては、全く把握しようとも知ろうとも欲していない。自分の内に、そして自分の周りに、神の完全な充溢を感じているマリアは、神の申し出がいつまでも続くことを知っており、また、自分の全魂、全本質を安心して神の申し出に委ね、新たに整えてもらえるということも知っている。マリアはただ、事が行われるよう委ねる。マリアは、自分の魂を御子の裁量に任せるので、御子はそれを望むままに用いることができる。そして御子は、マリアの性質を自然な特性で整えて高めるだけでなく、彼女を器(うつわ)として用いて、彼女の中に自らの神性全体を注ぎ入れ、自らのために彼女を母として整えるのである。
こうして、教わるでもなく回心するでもなく、マリアはキリスト者となる。今までは、洗礼志願者と同じく、マリアは、自分の信仰が最終的に神によって成就されるのを待っていた。マリアは、同胞の敬虔な女たちのように神を信じ、彼女たちと共に、約束されたメシアを待ち望んでいた。しかし、マリアは、このメシアが、彼女自身の信仰の完全な成就として自分に贈られ得るということは、考えてもいなかった。待ち望むマリアの信仰は既に完全なものであるが、御子を秘跡のように受けることによって、最初のこの待ち望みは豊か過ぎるほど完全に成就され、それまでのすべてのものを打ち破る。彼女の信仰が新約的に拡張されることで、彼女はキリスト教信仰全体の担い手となるのだ。
